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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 父野川富母里水銀鉱山の記憶②

(5)父野川地区の人々のくらし

 「こちらの生活は基本的には農業が中心ですから、農業の合間に鉱山で働くという感じでした。これは鉱山に限らず他の仕事でも同じで、私たちの地区の人々の生活は、昔からそうでした。日吉鉱山に雇用されるという形ではあったと思いますが、鉱夫の仕事が主であるということではありません。私の父も同様で、農業が主で、必要があれば鉱山で働くという、いわば季節労働者のような感じでした。ただ、給料は当然出されていたので、家計は助かったと思います。
 また、選別作業を行う女性が7、8人、掘削を行う男性が4、5人くらいでしたから、会社の規模はそんなに大きいものではなかったのです。ただ、会社を経営する立場の方からすれば、この地域の人々の労働力は頼みだったかもしれません。鬼北町にはマンガン鉱の鉱山がありましたが、そちらの方は大規模でした。
 水銀鉱山は昭和27年(1952年)に閉山になりましたが、当時は木炭もありましたし、生活に必要なものは全て、自分たちで賄うことができていたので、それが直接私たちの家計に影響を与えるということは全くありませんでした。鉱山で働くことが私たちの生活の中心ではなかったので、当時の印象としては、『働くところが一つなくなったな。』という程度でした。」 

 ア 自然との共生、豊かな生活

 Aさんは、昭和30年代ころのくらしを振り返り、次のように話してくれた。
 「当時は、生活に必要なもの全てを自分たちで賄っていました。川に行ってウナギやカニを獲(と)ったりしましたし、豆腐も大豆の種を植えることから始めて、全て自分たちでこしらえて(作って)いました。そのほかには、コンニャクや野菜やトウキビ(トウモロコシ)なども同時に栽培して、本当に自給自足の生活ができていました。今から思えば、金銭のことは全く考えず、毎日の習慣として当たり前のように農作業を続けていました。また、耕地整理を行うときには、当時は重機などがなかったので、地域のみんなが寄り集まって協力して、全て手作業で石を除去したり土地を均(なら)したりしていました。
 また、林業も盛んで、炭焼きをしたり、マツなどの木が大量にあったので、山に入って材木を伐(き)り出して収入を得たりするという昔ながらの生活が主流で、鉱山で働いているのは地域のほんの一部の人だけだったのです。生活は今と比べれば相当不便でしたし、我慢しなければならないことも多かったのですが、お金を必要とすることもほとんどなく、自分のペースで仕事も生活もすることができました。今から振り返れば、いい時代であったと本当に思います。」
 Bさんは、他の地域でくらす人々との関わりについて、ご自身の思い出を次のように話してくれた。
 「昭和20年代や30年代に限らず、戦時中でも、おイモやトウキビなど、さまざまな作物を自分たちで作っていたので、この地域では食料に困るということは全くありませんでした。また当時、私たちの生活においては、お金をそれほど必要としていませんでした。自分たちで作物を育てて、それを収穫して自分たちで食べるということが私たちの普通の生活でしたし、木炭の買い付けに来られた仲買人の方に、『魚が欲しい、味噌(みそ)が欲しい。』と頼めば、いつでも店から木炭代と引き換えに送ってくれていたので、本当に不自由を感じたことはありません。終戦直後は、町でくらす多くの方々が食料の買い出しにこちらまでよく来られました。学校の先生の中にも、買い出しに来られた方がいらっしゃいました。その方が、『種イモ(栽培専用のイモ)から取った蔓(つる)の筋だけでも構わないので分けてほしい。』とおっしゃっていたことを憶えています。
 こちらでは、雨季になったら山を切り開いて、トウキビや大豆や小豆を植えていたので、作る作物に事欠きません。あるとき、田植えの時期に吉田(よしだ)(現宇和島(うわじま)市)のミカン農家の方がこちらまで来られて、『米でも麦でも小豆でもいいので、ミカンと交換してほしい。』と頼むので、交換してあげたこともありました。」

 イ 父野川地区の産業

 (ア)林業・製炭

 「昭和20年代から30年代にかけては、この地域は本当に景気が良かったことを私(Aさん)は憶えています。当時は、燃料として薪(たきぎ)を主に使用していたので、50俵から100俵の炭俵を、各家が業者に出荷していた上に、原木自体に値打ちがあったので、収入が良かったのです。日吉村で11tくらいの大型トラックを初めて購入したのは、私の家の近くで林業を営んでいた人です。今は、三島(みしま)(現鬼北町)の方へ引っ越して、そちらで生活をされていますが、当時林業が本当に盛んだったことが、このことからもよく分かります。
 また、鉄道のレールの枕木に使う木材は、その多くがこちらから出荷されていたものを使用していました。具体的にどの場所に用いられていたかは研究していませんが、営林署のトラックに多くの材木が積み込まれ、運び出される様子を見たことがあります。」
 「宮成地区で生活する人のほとんどが、炭焼きに従事していたので、炭窯(すみがま)が地区のいたる所に置かれていて常に煙を吐き出し、この辺りが炭窯から出る煙でいっぱいになってしまっていたことを私(Bさん)はよく憶えています。この状態は、昭和35、36年(1960、61年)ころまで続いたと思います。
 炭窯は現在もいくつか残っていて、今でも炭を焼いている人がいます。バーベキュー用の木炭として需要があるので、出荷しているのです。」
 さらにBさんは、ご自身が生まれ育った節安(せつやす)地区(集団離村により、昭和48年〔1973年〕に廃村となった)の人々の材木等の運搬の記憶について、次のように話してくれた。
 「男の人たちが山で伐り出して運搬できる大きさに加工した木材を、私の母たちがブンゴオイコに背負って、山の中から現在の『節安ふれあいの森』の近くまで運んでいた光景をよく憶えています。当時の節安付近は、今のように道路も橋もきちんと整備されていなかったので、川に差しかかったら、周囲に落ちている大きめの木を架け橋代わりに置いてから渡るという状況でした。
 また、昭和の初めころは、紙づくりの原料である三椏(みつまた)の生産も盛んだったと聞いています。私が生まれた節安の人々は、三椏をブンゴオイコでかるうて(担いで)山道を越えて、高知県の梼原(ゆすはら)まで歩いて運んでいたそうです。おそらく賃(ちん)働きだったと思います。そのころ日向谷(ひゅうがい)の方に高研隧道(たかとぎすいどう)ができて、日吉から梼原まで隧道を通って行くことができるようになりましたが、節安からだったのでそこは通りませんでした。全て山道を進んで、三椏を運んだそうです。」
 Aさんは、ブンゴオイコの特徴について、次のように話してくれた。
 「ブンゴオイコは、高知県の方からこちらにもたらされたと聞いています。その特徴は、人間の体型に合うよう腰に当たるところが曲がっていること、荷物を留めやすいように荷受け部分に爪があること、荷受けの場所が地面よりも高い所にあることです。私たちの体型に合っているので荷物を運びやすく、荷物が下にずり落ちることもありません。また、休憩した後に立ち上がるとき、すっと立つこともできます。本当に使いやすい道具です。こうした理由が、ブンゴオイコが普及した理由だと思います。」
付記 ブンゴオイコは、豊後(ぶんご)(現大分県)の椎茸(しいたけ)づくり職人(「豊後茸師(なばし)」)が、朝鮮半島で運搬具として用いられていた「チゲ」を改良し、中国・四国地区に伝えたことからこの名称で呼ばれるようになったとされている。

 (イ)養蚕

 「昭和30年代は、繭の生産も非常に盛んでした。私が生活している宮成地区にも養蚕室がありましたし、この地区でくらす人々は、みんな蚕(かいこ)を飼って育てていました。当時は『蚕様』と言っていたことを私(Aさん)はよく憶えています(写真2-2-9参照)。
 蚕は、下鍵山の方から送られてきていました。当時は、地区をあげて皆で蚕を育てましたが、宮成の繭は日吉村の中でも質が高いと評判でした。収穫した繭は、三島にあった愛三製糸に出荷していましたが、本当に成績が良かったことを憶えています(Bさんによれば、愛三製糸には一番多いときで120から130人の女工さんが働いていたという)。この辺りの気候は、蚕の飼育に向いていたのだと思います。『日吉の蚕』の評判があまりにも高かったので、私たちはどんどん蚕を育て、繭を出荷しました。当時は収入も多く、本当に景気が良かったことを憶えています。今から考えると、この地区は本当にさまざまな産業が栄えていた土地であると言えると思います。」
 「当時は、『近永(ちかなが)や三島の方の人よりも、こちらの人の方が着るものもおしゃれなものを着ている。』と言われたほどでした。宇和島から着物を販売しに来られた方もいたことを私(Bさん)は憶えています。」  

 ウ 父野川地区の娯楽

 (ア)演芸会

 「当時は、地域の人々がよく集まって地区ごとに演芸会を行っていて、私(Aさん)も参加したことがあります。学生であれば学芸会というのがありますが、それと同じようなものです。今のようにテレビなどもなかったので、これが地域の人々にとっての娯楽でした。演芸会の時期が近づいてくると、夜中に近くの大きな民家に集まって、みんなでよく練習をしたものです。学校に集まって練習をしたこともあります。地域の人々が役者になって、国定忠治の劇などをよくやりました。昔は本物の刀が家に残されていたので、鞘(さや)から刀を抜いて、その代わりに竹を差して道具として使ったり、衣装も自分たちで作ったりして、全て手作りの劇団でした。それを地域のみんなが集まって観(み)るのですから、本当に盛り上がりましたし、楽しかったことをよく憶えています。」

 (イ)秋祭り

 「富母里地域は、藤川地区、宮成地区、大村(おおむら)地区、屋敷(やしき)地区、節安地区の5地区に分かれていて、以前は秋祭りの時期が異なっていましたので、他の地区のお祭りにも参加して楽しませてもらっていました。お祭り前に大きな家の敷地を借りて芝居の練習をしているときには、私(Bさん)たちも参加させてもらって一緒に練習をしたりしていたことをよく憶えています。
 当時は、若い人が集まって仕事をするのは水銀鉱山の仕事に従事することぐらいで、普通は自分の家の仕事(農業・林業)をしていたので、若い人が集まって話をして楽しむということが頻繁にはなく、秋祭りや演芸会というのは、同じ世代の人々が一緒になって楽しむことができる良い機会だったと思います。」

 (ウ)富母里神楽

 富母里神楽の特徴は、神事ではあるが形にとらわれず、舞う人も見る人も一緒に楽しめることである。数多くの舞いを披露しながら子どもたちの成長を願い、長寿を祝し、地域の発展を願う。Aさんは、富母里神楽について、次のように話してくれた。
 「私は、日吉村で最初に富母里神楽を始めたメンバーの一人です。もともとは、城川(しろかわ)町(現西予(せいよ)市城川町)の神楽師がこちらまで来てくれて、神楽を披露してくれていたのですが、『自分たちでやろう。』と皆で話し合って練習を始めたことが富母里神楽の始まりで、昭和30年(1955年)ころのことだったと思います。
 太鼓を叩いたり笛を吹いたりする人が、神楽を舞う人の動きに合わせて演奏をしなければならないのですが、これが非常に難しいのです。私は、天井に吊るしている『こしこ』を勢いよく動かす『こしこの舞い』を担当していました。これは、自分自身は同じ場所から一度たりとも動かず、『こしこ』のみを勢いよく動かさなければなりません。何度も練習をして、やっとそれができるようになっていました。
 富母里神楽は、後継者がいなくなってしまったこともあって一旦は途絶えてしまったのですが、今は『富母里神楽保存会』の人々が継承してくれています。20代の人々も参加してくれるようになり、本当にうれしく思っていて、私も一緒に活動をしています。」
 富母里神楽保存会は平成3年(1991年)に結成され、今年(平成28年)で25周年を迎えた。宮成地区の三島神社にて25周年記念の神楽奉納が行われたが、集まった人々が神楽師の舞いに歓声をあげ、恵比寿(えびす)と天狗のやりとりに笑い、人々の気持ちが一つになっていた。そこには、地域のコミュニティが確実に存在していた。

 エ 日常生活に影響を与えたもの

 (ア)国鉄バス大村線の開通 
 
 「こちらの生活に大きな影響を与えたのは、やはり電気がついた(昭和23年〔1948年〕)ことと、国鉄バスの大村までの開通(昭和32年〔1957年〕)だと私(Aさん)は思います。
 特に、国鉄バスが開通したときは、『下(しも)(下鍵山)へ出られて(行き易くなって)、便利が良くなる。』と思いましたし、交通の便が本当に良くなったことを憶えています。バスが開通してからは、大村地区に日用雑貨を販売する店や酒屋、タバコ屋などが開業されていきました。また、現在節安ふれあいの森がある所にも店があり、生活に困らない程度ですが、それらの店に行くと何でも揃(そろ)えることができていました。大村地区のバス停は、国鉄バスの車庫があった三叉路(さんさろ)付近にありました。」
 「私(Bさん)が就職した年はまだ大村までバスが開通していなかったので、お正月に節安の実家に帰るときには、職場のある三島から日吉(下鍵山)までバスに乗って(この区間はすでにバスが開通していた。)、そこから節安まで歩いて帰らなければなりませんでした。『下鍵山から節安まではかなりの距離があるし、真っ暗で寒くもなるし、どうしよう。』と本当に困ってしまったことをよく憶えています。そのときは、親戚の人が自転車で運良く通りかかってくれたので、一緒に節安まで帰ることができました。自転車に乗せてもらったり、自転車から降りて歩いたりしながら、ようやく節安の実家にたどり着いていました。
 国鉄バスが開通したのは、私が中学を卒業し、三島の蚕糸工場(愛三製糸のこと)に就職して2年目のことだったと思います。バスが開通するまでは、病気になったときなどは、診察を受けたり薬をもらいに行ったりするのに日吉(下鍵山)まで歩いていかなければならなかったのですが、バスが開通してからは大村集会所に診療所が開設され、こちらで診察を受けられるようになりました。」

 (イ)家庭にテレビと電気が入った時

 「こちらに初めてテレビが入ったのは、東京オリンピックがあった昭和39年(1964年)のことです。私(Bさん)自身、オリンピックが見たかったのでテレビを購入した家にお邪魔して見させてもらったときのことを今でもよく憶えています。当時はテレビも高額だったので、全ての家庭にテレビがあるという状況ではなく、テレビを所有していたのは3家庭だけで、白黒テレビでした。 
 さらに記憶をたどると、電気が初めてついたのは昭和22、23年(1947、48年)ころではなかったかと思います。それはちょうど、私の父が組長を務めていた時のことです。父が、『今日は電気の柱を立てにゃいけん。』と言いながら家を出た時のことを今でも憶えています。」
 節安地区に電気が初めてついたのは、昭和23年(1948年)のことである。それまでは、電気がついていたのは川口(かわぐち)地区までであり、そこから奥地は夜になると真っ暗な状態であった。地域住民の運動を通して電灯事業が行われ、その完成を記念して野々谷(ののや)集会所付近に「電灯事業記念碑」が建てられた(写真2-2-12参照)。

 オ 小・中学生のころの記憶

 (ア)戦争の記憶

 「私(Aさん)は、上空をアメリカのグラマン戦闘機が通過するのを目撃したことがあります。それは、私が富母里分教場に通っていたときのことです。学校の先生が、『上空をグラマンが通るぞ。伏せなさい。』と言ったちょうどその時、上空を本当にグラマンが飛んで行きました。戦争中に爆撃を受けるという経験はありませんでしたが、子ども心に恐ろしかったことを今でも憶えています。
 戦争中は、アメリカ兵が上陸したときの備えとして、竹槍を作って突きの練習を皆でしていたほどで、日本が戦争に負けたことを聞いた時には、周囲の人が、『これから日本人が何をされるかわからない。』と言っていたことを、私はよく憶えています。
 また、敗戦による落胆と、アメリカに対する敵対心からか、『仕事はしないようにしよう。』と皆で話し合って、本当に当分の間働くことをやめてしまっていました。当時やっていたことといえば、水銀鉱山のダイナマイトを使って魚を獲ったり、アメリカ兵に渡さないために農耕用の牛を殺して牛肉を食べたりしたことくらいで、毎日遊んでくらしていたように思います。結局、アメリカ兵がこちらに来るということはなかったように思います。
 しばらくして、私は再び自分の仕事を始めました。敗戦によって自分の生活が変化するということが全くなかったので、自然といつもの状態に戻っていったのだと思います。」

 (イ)寄宿舎生活の中学校時代

 「私(Aさん)は富母里分教場から日吉中学校に進学しました。私は日吉中学校1期生になります。父野川から直接通うことは難しかったので、寄宿舎で生活をし、そこから学校に通いました。
 当時はまだゴムの靴がない時代でしたから、草履を履いて歩いて移動していましたし、草履は2、3足、リュックサックの後ろにぶら下げていました。寄宿舎ははじめ、もとの役場があった所にありました(現在、日吉歴史民俗資料館前の駐車場、図表1-1-3の20参照)が、その場所は3か所ほど変わりました。
 また、中学校の場所も何度か変わりました。最初(昭和22年〔1947年〕4月1日〜同年8月31日)は、現在長田鮮魚店がある辺りにあった製糸工場の一部を借り切って校舎にしていました。クラスは成績順でA組、B組、C組に分かれていて、C組が成績の一番良い生徒が集まったクラスでした。今でいう選抜クラスです。」
 「富母里小学校は、もともと父川小学校の分校でした。運動会などの大きな行事は他校と合同で行いましたから、行事を行う場所がよく変わっていました。中学校に進学した当時はまだバスが開通しておらず、交通の便自体がなかったので、私(Bさん)も寄宿舎に入って生活をしていました。
 当時は、土曜日の午前中まで中学校で勉強をして、授業が終わればその足で自宅まで歩いて帰り、日曜日の午後に再び寄宿舎に戻るという生活でした。材木を運ぶトラックが父野川の方に何台も走っていたので、そのトラックに乗せてもらったこともありました。寄宿舎に戻るときには、1週間分の食料を持って歩いて帰ったことをよく憶えています。」

写真2-2-9 宮成地区の養蚕室の建物

写真2-2-9 宮成地区の養蚕室の建物

鬼北町。平成28年10月撮影

写真2-2-12 電灯事業記念碑

写真2-2-12 電灯事業記念碑

鬼北町。平成28年10月撮影