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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 旧千足山村上黒川(かみくろかわ)地区で生まれたGさんは、石鎚小・中学校で学んだ後、昭和20年代中ごろに愛媛県立小松高等学校に進学し、その間、小松町内で下宿生活を経験された。その後、石鎚小学校をはじめとして約40年間、小学校教員として児童・生徒の教育に尽力されてきた。下宿生活をされていた昭和20年代の小松町の様子や石鎚地区の人々と小松町の人々との関わりについて話を聞いた。

(1)石鎚小学校の教員として赴任して

 「昭和30年(1955年)といえば、私が教員として採用され石鎚小学校に赴任した年です。それから5年ほど石鎚小学校に奉職して、そのあと小松小学校に赴任しました。私が教員という仕事を選んだのは、当時の中学校の担任の先生の言葉がきっかけです。そのころは石鎚村出身の先生がおらず、石鎚村以外から赴任されて2、3年したら帰っていくという状態でした。私が小松高校に進学するとき、担任の先生が私に、『Gくん、先生にでもなったらどうですか。学校の先生は入れ替わり、立ち替わりですから。』と勧めてくれたのです。それを聞いて私も、『それだったら先生になろう。』と決め、小松高校卒業後に愛媛大学教育学部へ進学し、採用試験に合格できたというわけです。当時としてはうまく就職でき、幸せなことだったと思います。
 小松高校に通っていた昭和26、27年(1951、52年)ころのことですが、石鎚村から毎日通うのは遠いので、小松町に下宿をしていました。下宿先は何軒か変わりましたが、最初が歯科医院と呉服店の間にあった民家の2階だったことをよく憶えています(図表1-4-4のA参照)。そのころ私は、月曜から金曜は下宿先から小松高校に通い、土曜日には石鎚村の自宅へ帰って土日を自宅で過ごしてから、月曜日の朝にバスで小松町の下宿先に戻るという生活を続けていました。バスを利用するだけでなく、歩いて小松町と石鎚村を往復したこともあります。土曜日に自宅に帰るときには、途中で食べる米麦(べいばく)も準備しました。バスは、虎杖(いたずり)のバス停から乗降しましたが、今の農協跡の所にありました(写真1-4-18参照)。」

(2)小松町と石鎚村の人々との交流

 ア 洋品店

 「私よりも前の世代の人々でしたら、お正月とかお盆などに小松町まで買い出しに来たり、石鎚村でできたものを小松町まで持って来て販売したり、物々交換をしてから再び村に戻ったりということを頻繁に行ったこともあったと思います。しかし、私が小松町に下宿していた時代には、そのようなことはあまりありませんでした。ただ、7月1日から10日間かけて行われるお山開きが終わった後、必ず洋品店の方が荷物を担いでやって来て、上黒川地区の季節宿を一軒借りて店開きをしていたことをよく憶えています。毎年のことなので恒例になっていました。お山開きの後のことで、上黒川地区の人々はみんなたくさん儲けていたこともあり、自分の好きな洋服をどんどん購入していました。 
 この洋品店は、小松高校の制服や校章を販売していたお店です。私が小松町内で下宿していた高校1年生のころのことですが、お店に行って、『バッジおくれや。』と言って校章を買ったことがあり、このお店はかなり大規模であったことをよく憶えています。小松町の他の店が売りに来ていたという話は聞いたことがなく、このお店だけでした(図表1-4-4のB参照)。」

 イ 行商人「河原のおいさん」

 「当時、『河原のおいさん』と私たちが呼んでいた人が、小松から上黒川地区へ魚の行商に来ていたことを憶えています。私たちがくらしていた上黒川地区は、虎杖の農協の所からでも歩いて40分はかかります。その距離を、しかも天秤棒を担いで、歩いて行商に来るわけですから、黒川のこの道をよく歩いて来るなといつも感心していました。河原のおいさんは、上黒川地区に着いたら各家を一軒一軒回って魚を売り歩いていました。魚は、サバやイワシ、干物など、簡単なものであったと思います。お山開きのときには来なかったと思いますが、普段の生活の時や地域のお祭りの時には、定期的に行商に来ていました。私は、河原のおいさんからサワラを買ったことがあります。ただその時は重たかったからなのか、上黒川地区までは来なかったので、虎杖の農協の所まで私自身が受け取りに行ったことを憶えています。
 河原のおいさんが来たときは、すぐに分かりました。コミュニティというのか、地域のつながりはものすごいもので、人の動きを見たらすぐに察知できました。人と人との気持ちが外れがちな現在から振り返ると、本当に気持ちの包まれたいい時代だったというのか、現在ではできないようなことが、当時のコミュニティの中ではできていたように思います。石鎚村というのは、生活をするには不便で厳しい所だと本当に思います。水田もなく険しい所で何のいいところもない、しかしそこに住まないといけないという状況でした。それでもみんなが思いやって助け合っていこうという気持ちが非常に強かったのです。このことこそが、石鎚村の良さであったと思います。」

 ウ 八百屋店

 「私が小学生のころ(昭和20年〔1945年〕ころ)の記憶ですが、この八百屋店が石鎚村(当時は千足山村)にも店を出していました。現在は店の跡も何も残っていませんが、虎杖橋の近く(河口側)に店があったことを憶えています。このお店の方が、私の石鎚小学校時代の同級生でした。おそらく、そのお店から学校へ通っていたのではないかと思います(図表1-4-4のC参照)。」

 エ 小松座からフィルムと映写機を運んで

 「私が石鎚小学校に奉職していたころ(昭和30年代前半)のことですが、石鎚青年団の活動も同時に行っていて、私は青年団長を務めていました。そのころ、青年団主催で映画上映会を何度も開きました。本町にあった小松座に、『石鎚公民館で映画の上映をしたい。』と依頼をすると、フィルムと映写機を小松座から石鎚公民館まで車で運んでくれました(図表1-4-4のト、写真1-4-19参照)。石鎚公民館は石鎚小学校の敷地内にあって、小学校に隣接していました。そこで小松座の映写技師さんと上映の準備をしたり、人々が来たら木戸銭を取ったりしました。そのころは、学校に体育館がなく、公民館が学校の講堂の役割を担っており、雨のときの体育の授業も、始業式や卒業式などの学校行事も、全て公民館で行っていたのです。
 当時を振り返ると、私自身本当によくやったと思います。昼は学校で子どもたちと一緒に勉強をして、仕事が終わると帰宅して御飯を食べて、さらにその後青年団の活動もして、それが終われば後片付けをして、帰って寝てまた朝を迎えてという生活を毎日続けていました。また、上黒川の自宅から石鎚小学校まで、あの山道を30分から40分かけて、走って往復していました。下りは、5分から10分で山を駆け下りていたと思います。映画上映会には、村の人々がみんな集まってきて楽しんでくれて、本当に楽しかったですし、青年団としてやりがいがありました。」

(3)下宿していたころの思い出

 ア 小松町から上黒川まで歩いて帰る 

 「当時を振り返ると、私は本当に貧しく、食べるものもたくさん食べられない時代で、土曜日が来たら、小松町から上黒川地区の自宅まで歩いて帰っていました。小松から黒瀬峠の方へ進み、黒瀬の大鳥居の下をくぐって峠を越え、そして道路伝いにずっと歩いて黒川に到達するというルートで、大体4時間くらいかかったと思います。それでも、(夜になるまでに)時間があるときには、母親の仕事を手伝うために山へ仕事をしに行っていました。歩いて帰った理由は、お金をほとんど持っておらず、虎杖までのバスに乗ることができなかったからです。当時のバスの乗車料金は、50、60円くらいだったと思います。トランクを背負って、体のこんまい(小さい)人間があずって(てこずって)歩いて帰っていました。しかし、私は歩いて帰ること自体をつらいとは全く思いませんでした。なぜなら、私たちは下宿をさせてもらって、勉強をして遊んでいるという意識があったからです。私の同級生たちは、みんな中学校卒業後はすでに仕事をしており、『それに比べたら歩いて帰ることくらい楽なもんだ。』という意識が非常に強かったのです。苦に思うのではなく、逆にありがたいことだと常に思っていました。
 当時は高等学校に進学すること自体が珍しい時代で、私のクラスでも高等学校に進学する者は30人中2、3人しかいませんでした。進学しない者はみんな地元に残って、木を伐(き)ったり、炭を焼いたりと大体が材木に関わる仕事に従事していました。高校生のころの私は、土・日曜日に小松町と石鎚村との間を歩いて往復することもあり、3年間皆勤でした。そのころのことを考えると、3年間遅刻もせずによく通ったものだと自分自身のことながら不思議に思います。風邪も引かず、お腹も下さず、体が元気だったので、3年間通うことができたのでしょう。勉強はできなかったのですが、それだけが私の自慢です。」

 イ バス乗車中のハプニング

 「ある日、こんなこともありました。雨が激しく降る月曜日の朝にトランクを背負って自宅を出て、虎杖から午前6時出発のバスに乗って小松に向かっていたところ、黒瀬の辺りで土砂崩れがあり、そこからバスが進めなくなってしまいました。『これは困った…。』と思いましたが、トランクをバスの運転手さんに、『小松の丸文(丸文食堂のこと)の所で降ろしといて。』とお願いしてバスを降り、自分一人で小松の下宿まで走りました。それから下宿先で身を整えてカバンを持って小松高校へ登校しました。かなりの距離ですが、遅刻することなく間に合いました。それで三か年皆勤ですから、価値があります。皆勤賞の賞状もきちんともらいました。」

 ウ 中町の下宿先での生活

 「2番目か3番目の下宿先だったと思いますが、中町の遍路道近くの家に下宿をさせてもらっていたことがあります(図表1-4-4のD参照)。そのころは今のようにプロパンガスや電気がない時代だったので、御飯を炊くために薪(たきぎ)を使っていました。これはありがたいことですが、近くの製材所に行って製材のへき落とし(用材として用いる以外の部分)をもらってきて、七輪の燃料として使用したり、お茶を沸かしたりすることができました(図表1-4-4の㋑参照)。今とは違ってすぐに火がつくわけではないので手間がかかりましたが、燃料として木がもらえていたというのは本当にありがたいことでした。もう一つ憶えているのは、お風呂のことです。当時は五右衛門(ごえもん)風呂で、井戸水を使っていました。お世話になっている下宿先の方と近くの井戸まで行き、一緒にポンプを押して水を汲んで、お風呂に水を入れたことをよく憶えています。」

(4)石鎚村の衰退について

 「石鎚村の人口が急落し始めたのは昭和30年(1955年)、小松町と合併をした年からです。私が就職をした昭和30年は子どもの数もまだ多く、石鎚村は賑わっていました。しかし、昭和43年(1968年)に石鎚登山ロープウェイができたころに集団移住があってさらに人口が減少を続け、昭和52年(1977年)には石鎚小学校と中学校が閉校しました。集団移住をした人々の多くは、小松町北川の石鎚団地で生活をしています。現在でも24、25軒の家があるので、石鎚の匂いが少しは残っているという感じはあります。思い返せば、私がまだ石鎚で生活をしていたころは、子どもがまだ小中学生合わせて200人くらいはいましたし、人口も1,200人前後で推移していて、村自体が賑やかでした。しかし現在は、石鎚村で生活をしている人はいなくなってしまいました(図表1-4-7参照)。
 昭和30年の町村合併以降に人口が急落した原因としては、人々が町に対して憧れを抱くようになったということが考えられます。子どもたちの教育を町の方で受けさせたいと考える人も増えていきました。また、外国産の木材の輸入などの影響を受けて林業が衰退してきて、林業では生活ができないという状況になったということもその原因だと思います。さらに、昭和43年に石鎚登山ロープウェイができてからは、上黒川地区の季節宿は全てだめになりました。」


<参考引用文献>
①小松町『小松町誌』 1992                     
②小松史談会『小松史談第112号』 1987  
③小松史談会『小松史談第140号』 2014
④小松史談会『小松史談第 91号』 1980  
⑤小松史談会、前掲書         
⑥小松町『小松町誌』 1992   
⑦小松史談会『小松史談第117号』 1991   
⑧小松史談会、前掲書
⑨小松史談会『小松史談第129号』 2003  
⑩小松町『小松町誌』 1992

<その他の参考文献>
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・篠原重則『愛媛県の山村』 1997

写真1-4-18 虎杖の農協跡

写真1-4-18 虎杖の農協跡

西条市。平成28年8月撮影

写真1-4-19 石鎚小・中学校跡

写真1-4-19 石鎚小・中学校跡

西条市。平成28年8月撮影

図表1-4-7 石鎚村の人口推移

図表1-4-7 石鎚村の人口推移

『小松町誌』から作成。