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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)大淀三千風-120日間の四国遍路-

 大淀三千風(1639年~1707年)は、確たる四国遍路の道案内記もなかった天和3年(1683年)に陸奥の国仙台から全国行脚に旅立ち、その途次の貞享2年(1685年)の晩夏から初冬にかけて四国遍路を行った。これは、「(その前年の)貞享元年(1684年)が大師が御入定八百五十年忌にあたり、四国辺路に赴く人々がやや増加していたころの俳諧行脚(①)」であった。この三千風の四国遍路行脚の模様を『日本行脚文集巻之五 四国邊路(へんろ)海道記』(元禄3年〔1690年〕刊)を基に整理した。

 ア 全国行脚の首途

 大淀三千風は、伊勢国飯南郡射和村(現三重県松阪市)の人で、本名は三井友翰、字(あざな)は部焉という。15歳より俳諧を志し、31歳のとき志を得て剃髪、呑空法師と号し、松島瑞巌寺(宮城県)に身を寄せ、雄島の庵室に15年間留まった。この間俳諧に精進し、延宝7年(1679年)3月には1日2,800句を独吟して句集『仙臺大矢數』を公にした。その巻頭句、「空花(くうげ)を射(ゐ)る矢數や一念三千句」から三千風と称し、天和3年宿願の日本全国行脚に出発する(②)。
 この間のことを三千風は自著『日本行脚文集』冒頭で、次のように記している。

   抑愚老身(そもそもぐろうみ)は勢州の産(さん)にして。今行脚(いまあんぎゃ)の首途(かどで)を奥州仙臺より始し因縁(い
  んゑん)は。予十五歳の春より此俳道にかたぶき。日本(にほん)修行の心ざし思ひいれ。終(つゐ)にわすられずして。十五
  年以前先づ松島の名高き景(けい)色を一見せめと。當所(たうしょ)仙府に縁を求(もと)めし。かの島の景艶(けいゑん)にほ
  だし。かつ知音(ちいん)おほくちなみしまゝに年月(としつき)を経ぬ。光陰時至(くわういんときいた)ればや。天の時。地
  の理。人の和風(くわふう)。豊饒(ぶにょう)の世としなれば。此春に事定にし(③)。

 この全国行脚に当たって、三千風は僧として、また俳諧修行の文人としての自戒自慎の誓いの条項(④)を決める。その内容からは、当時の世相の一端もうかがわれ、病死の場合の処置の依頼やその後の歌の意からは、遍路旅にも似通った旅の苛酷(かこく)さをも想像させる。
 長途の全国行脚への旅立ちは、「天和三癸亥櫻月廿五日門出の興行。百韻満座の句。いさや霞諸國一衣(しょこくいちゑ)の賣僧坊(まいすぼん) すこしさはる事侍(はべ)りて。同卯月四日。けふ夜(よ)を籠(こめ)て立(たつ)(⑤)」とあるように、3月25日の壮行の句会を催したが、少々支障があって出立は4月4日となった。

 イ 四国の辺路を行く

 三千風は、その全国行脚の中で、四国遍路も回り、その様子を「四国邊路(へんろ)海道記」に記している。それによると、「(貞享2年6月27日に)丸亀を発ち、阿波、土佐を経て、伊予の南端平城から、宇和島、菅生山、松山、今治、宇摩郡を経て、讃岐から大阪へ向かうまでの旅行記(⑥)」である。
 その冒頭の一節に、当時の四国遍路の一端を次のように記している。

   抑此邊路は弘法大師掟(おきて)たまふ。信(まこと)に權化(ごんくわ)のわざとはいひながら、山海の美景(びけい)はさら
  なり。寺社窟江(くつこう)の奇怪(きくわい)。言語道断(ごんごどうだん)の靈邊なり。心あらむ人はかならず一片の結縁
  (けちゑん)したまへかし。五年三年の權觀禪(くわんぜん)にはまさり侍らん。人の心も柔和(なごか)に。馬上おのこもお
  り。柴賤鍬長(しばかつくわをさ)も笠をぬぐ。大師の陰徳(いんとく)かぎりなき證(しるし)なり。凡道矩(みちのり)四百八
  十里。四百八十川。四百八十坂。札所八十八箇所なり。達者人(たつさひと)は四十日(よそか)ばかりには結願(けつぐわん)
  し侍(はべ)る。予は隈々(くまくま)まてめぐり。あるは橋(はし)なく船なき所にては其用をいひ。(中略)寺社景所には縁
  起眺望(ゑんぎてうばう)の記を一軸宛(あて)書。漸々百廿日にめくり果しぬ(⑦)。

 三千風によると、この札所を巡る四国遍路は長い道程で、しかも、山道・坂道や渡河の困難なところも多いが、元気な人ならば40日ほどで巡ることもできる。ただ、三千風は120日ほどかけて回り、この間多くの俳諧仲間や知人を訪れ、句会の興行とか古典の講義をしたり、寺社の縁起を尋ねたり、各地の景観を楽しみ、四国遍路に対する思いを新たにしている。
 この冒頭の一節について、喜代吉榮徳氏は、「三千風は瑞巌寺で禅の修行もしているが、ここでは弘法大師の真言密教への、また大師修行の四国辺路への傾倒ぶりも窺われる。禅と密教の優劣よりも、そのどちらもの仏語も自在に操って難解な錯綜とした言語世界を築くのが、三千風の俳諧修行でもあった。(中略)道矩等の数値には多少大げさな表現となっているが、札所の数八十八は確定していたようだ。(⑧)」と述べている。
 この「四国邊路海道記」により、三千風の遍路の行程をたどってみる。
 「歌津寺の札はしめ。世は淳朴(じゅんぼく)の風下の。國分寺をうち過(⑨)」ぎて、「やゝ秋の葉もむれ高松(たかまつ)の城下(じょうか)に入。繁花の船津。町家五千余宇有。(中略)高松や金(かね)ふく風に旅肥(こへ)し(⑩)」の高松から志度までは史跡を訪れ、眺望や句会を楽しみながら、旅路を快調に続けていったようである。
 讃岐の国から阿波の国へと越えるところでは、次のような記述がある。

   大窪寺につく。深山幽谷(しんざんいうこく)大師加持を題しつゝ。すずろによめるうたかたの。阿波(あは)の國にも入し
  かば。天雲染(あまくもそめ)る切幡寺。有爲の大路の法輪寺。めぐりめぐりて月(つき)の輪(わ)の。熊谷寺にやすらひ。や
  つし姿(すがた)を井戸寺の。水(みず)を鏡(かがみ)の十樂寺。それさへあるを安樂寺。黄泉(むつのちまた)をかならずと。
  地藏寺をぬかつきて。笠(かさ)の端(は)に入る日まけして。身を黒谷(くろたに)にむすふてふ。金泉寺より西にみる。つゐ
  のとまりの極樂寺(ごくらくじ)の。道の記説し靈山寺。三世の主の觀音寺。紫(むらさき)かほる藤井寺。此身もつゐは焼山
  寺。栬(もみぢ)をぬさの一宮。利物の果は浄樂寺。民豊なる國分寺。時を惠(めぐ)める仁風の。徳島堀江氏吟迪子に鞋(わ
  らじ)をぬく。(中略)
   伊勢荻は浪風もなし鳴門人(なるとびと)(⑪)

 この記では、札所番号は記されていないが、現在の八十八番大窪寺から山越えで十番切幡寺に出て一番霊山寺まで逆打ちしていることが分かる。また、全体が七五調の道行文の体裁に加えて、掛詞(かけことば)等の修辞技巧を用いて記され、その軽妙な筆致のため、例えば、十二番焼山寺に至るような難路もさらりと描写されている。
 続いて、阿波から土佐の行程を見てみる。「かくて邊路は小草茂(おぐさしげ)り。道しるべなく。手づから爨(いひかしく)もいぶせく。あはれ共風(とち)もがなとねがふ處に、大師の引合(ひきあは)せにや。西念といひし道心者にかたり合(あひ)。同行にしつ。(⑫)」と当時の道標なき遍路道を歩む不安と同行者を得た喜びが語られる。

   俳(はい)の角(つの)をかたふけし。鹿喰(かくひ)の里を過れば。阿波土佐の郷關(きょうくわん)。かんのうら。飛石はね
  石の難所難所におもむく。節々朝陽(さがしきやまのひがし)には許々。巖々夕陽(けはしきやまのにし)には丁々音(たうた
  うとをと)あり。蒸埴生女(つまぎとるはにふめ)は苕(くまかつら)を襟(ゑりに)し。葛亭婦(くづねぼるあばらやづま)は柿
  (こつは)を要(すそに)す。ひとむれひとむれうたひつる。樹神(こだま)も。次第次第にひくうなる。倭遲(めぐりとをき)
  嶮路をたどる。此山なめり。中比(なかごろ)隠岐院の御子。土御門院。畑より阿波へこえ給ふ時かとよ。はかはかしき駕輿
  (かよ)丁(ちょう)もなく。よする白波に御衣(みそ)をしぼらせ給ふて。
     浦々によするしら波ことゝはんをきの事こそきかまほしけれ。
  と。ずじおはせしことをおもひやるだにかたじけなし。からふじて濱に出れば。やゝかた岸の匿路(ぢ)より薪女(め)の船長
  に鬻(ひさき)。歸るさには米袋(よねぶくろ)をいたゞき。嬉しげに。各競交加(おのがじしゆきかい)て。藻くたれすじを耳
  はさみがちなるも。都には生(をひ)ぬ見るめもめづらしくおかし(⑬)。

 ここでは、土御門院(1195年~1231年)の古歌に思いをはせ、飛び石跳ね石の海岸路の難所を越えていく状況や、途次出会わした農山村、漁村の庶民の姿と生活ぶりがうかがわれ、江戸初期の遍路風景を彷彿(ほうふつ)とさせる。
 かくて室戸も過ぎて、「奈半利(なはり)に苅(かり)ほす田野の里。雁の起伏(をきふす)安田の村。鳩の鳥居の神寶寺。名すらはるけき唐(から)の濱(はま)。時しもいまは安喜(あき)のそら。うら悲しめに霈(おほあめ)ふり。たのむ木陰(こかげ)の夕ぐれは。栬(もみぢ)をさへにたまりかね。いとゞうめきをかづくてふ。蜑(あま)の鹽屋(しほや)にたちよりて。わぶとこたふる土座(どざ)ながら枕の浪や雨の音に(⑭)」と漁家の土間で眠れぬままわびしい連夜を過ごすという体験を経つつ、「賑ひ時めく町家三千餘宇(⑮)」の城下高知に入る。ここでは、前述の高松城下と高知城下の当時の町勢が比較できる。
 三千風が書を残したという足摺への道行文は、「かねて耳(みみ)おどろく靈(れい)山。蓬(よもぎ)むぐら荊畔(うばらくろ)。七十八坂の曲徑(まがみち)。脛(はぎ)たゆく臺笠(すけがさ)さへ重げなる。里を離(かれ)たる遠山(ゑざん)にて。道(みち)をとぶべき柴童(しばわらは)もなく。岸(きし)は屏風(びゃうぶ)をたてぬれば。たまたま見(み)つけし船(むね)よはび。沖津(おきつ)はるかに鵃(はぢむら)の。聲ばかりもや答(こた)ふらん。(⑯)」と簡潔ながらも、その道の厳しさを描く。その「蹉跎(あしずり)寺」では七句を寄せ、眺望を一巻ものす。その足摺での一句、「蹉跎(あしずり)や鴫(しぎ)も母乳(うば)よぶわらは泣(なく)(⑰)」とある。こうして一瀬村(現土佐清水市市野瀬)に着いたのが「葉(は)月子望(もち)の日」で、遍路に出て以来、この間ほぼ2か月近くを要した旅になっている。

 ウ 伊予路の遍路

 伊予の国に入る。現御荘町平城から宇和島市までは、俗に言う灘道通りを行く。その難所柏坂越え(現内海村)は、「柏坂の峯渡(みねわた)り日本無双の遠景(えんけい)なり。九州(しう)は杖(つえ)にかゝり。伊豫の高根(たかね)はひぢつつみにかたぶく。黄雲南海(くわううんなんかい)に蓋(ふた)すれば。火鼠(ほそ)。煙(けふり)の浪(なみ)をはしり。紅日西山(こうじつせいざん)を塗(ぬれ)ば。天川獺(あまのわはをそ)は栬(もみぢ)の橋(はし)に甲(かう)を乾(ほ)す。(⑱)」と描き、その景を絶賛している。
 かくて、「宝原(今の芳原か)に下って山口臣常宅で『徒然草』を講じ、仏木寺、明石寺を経て大洲城下に泊り、(中略)次いで、内子村を通って菅生山奥院(岩屋寺)に向かい、胎内くぐりや瀬登不動、役行者の岩屋、七尺の卒塔婆などの奇景(⑲)」に感動し、その様を次のように記している。

   菅生(すがふ)山奥院(中略)是(これ)ぞ八十八ヶ第一の奇怪(きくかい)。大師神變(たいししんへん)をふるひ給ふ地なれ
  ば。大(おお)かたにやはあるべき。胎内(たいない)くゞりは五十丈はかりの。岩山部而(はうどわれて)。央(なか)はその
  峡(かひ)一尺四五寸の細嶝(ほそざか)。日(ひ)かりもなきに身を峙(そはだて)て。苔髭(こけひげ)にとりつき。五十間(け
  ん)ほど這出(はひいで)ぬれば。さらに別世界あり。又此上に白山の銅社(かなぼこら)。廿二の階(はしご)をのぼりしが。
  頂(てう)上は丈(つゑ)ばかりにして下は數千丈の玉はしる底(そこ)ふかし。眩(めくるめき)われかのけしきもなく。局蹐(せ
  くぐまりぬきあし)に石根颭(せきこんゆぶる)がごとく、戰掉下(わななきをり)ぬ。本院の窟(いはや)のうちには。瀬登(せ
  のぼり)不動とて秘(ひ)佛まします。又十二の階(はしご)をあがり、役行者(ゑんのきやうじや)の岩屋それよりこなたの峙
  路(そばみち)より向上(みあぐれ)ば。万丈の岩屛(がんへい)。中壇(だん)に七尺有餘(ゆうよ)の卒都婆(そとば)。堂々(だ
  うだう)と立(たて)り。これ第一の奇(き)妙。黄金色(おうごんしょく)の中(なか)に梵文鮮(ぼんもんあざやか)に見みた
  り。(中略)しばらく感眺(かんてう)せしに。さながら此世(このよ)のさまにもあらず。此菅生(すがふ)の峡(やまのか
  ひ)。外には五岳(がく)の相をみせ。陰(うち)には兜率(とそち)の内院を秘(し)し。中央(わう)阿字宮の法帝。手素(すさ
  く)明王化縁(くゑゑん)の地。いづこを見ても。歡喜涙根(くわんきるいこん)の種(たね)ならずといふことなし(㉑)。

 三坂峠を下ってきて、「空のけしきも瑠璃(るり)寺や。山の錦(にしき)の葉坂寺。江原(えばら)の町(まち)を過行(すぐゆけ)は。大森彦七が古城あり。予むかし彦七といふ謡(うたひ)を作(つく)り侍(はべ)しまゝに。其わたりの俤(をもかげ)。すこしもたがはぬこそうれしけれ。(㉒)」と伊予の武将大森彦七の古城で、「自作の謡『彦七』の面影と少しも違わないことを偲んでいるが、この曲は、伝わっていない。(㉓)」という。
 道後の湯では「二日計りためらひて」、松山の城下を過ぎ、貞門派の俳人秦一景を訪ねたが「都(みやこ)の空(そら)に(㉔)」と不在で逢えず、「松山たはゝに。風月や荷(にな)ふちから人(㉕)」を残しているが、これについて「三千風は一景を松山随一の俳人と見ていたからのことであろう。(㉖)」との推察がある。更に歩を進める。
 「日もくれなゐの菊間(きくま)の里。匂(にほ)ひを奪(うば)ふ。風早郡(ぐん)にて。早風や穂懸(おがけ)の追風稻負(おいていなおせ)鳥 圓明寺。泰山寺。八幡寺。沙禮(しやれい)寺。新谷村。今治(いまばり)。山水子(し)に一紙ををくる。(㉗)」として、三千風は「今治の江嶋山水に『金風のうちぞゆかしき伊與簾(すだれ)』の一句を贈っている。(㉘)」が、ここでは伊予の産物として著名な伊予簾が俳句の素材になっている。
 「國分寺。香園寺。氷見横(ひみよこ)峯より見れば。是(これ)そ四国第一の高山(かうさん)。伊與(いよ)の高根(たかね)。常(つね)は石鎚(づち)山といへり。此本院前神寺。(中略)宇摩郡(ぐん)大町を過(すぎ)。幽霊山(いうれいざん)慈尊院。三角寺。此奥院川龍寺とて大師秘蔵(ひざう)の地(㉙)」で一軸を残し、伊予からいったん阿波の地に入り、雲辺寺を抜けて讃岐路に進む。

  エ 四国遍路の結願

 6月27日丸亀を出立した三千風は、土佐の地で8月15日を迎え、やや肌寒くなる9月22日、七十三番出釈迦寺、七十二番曼荼羅寺、七十四番甲山寺を巡って善通寺に到着する。
 この間、「俳諧の先輩山崎宗鑑が隠棲していた観音寺の一夜庵にも詣で(㉚)」て、宗鑑の遺業を偲び、俳諧の現状を憂える一文「一夜菴記」をものしている。善通寺では、「讃陽屛風浦誕生院善通寺一軸」の長文を認(したた)め、この後「金毘羅」の記をなし、長文「不二門」を、更に「十歌仙序」と執筆意欲を発揮し、再び丸亀の地に戻る。ここで、「身にいたつきもなくめくり果してげり。(㉛)」と120日に及ぶ長旅の休息もとり、また知人同士で親しく語らい、互いに句や歌の交換もし、「かくて陽念(かんなづきはつか)讃州丸龜を立(㉜)」って、大坂に向かう。
 遍路の世界としては、讃岐金毘羅で、「あるは邊路(へんろ)の窶帒(やつしぶくろ)には。一撮の糧(かて)をわけ、あるは朽(おぼろ)衣には一宿の莛をゆつる。(㉝)」とある。これについて、新城常三氏は、「能動的な接待であろうし、物品の接待もまた遍路屋、善根宿同様早くから始まっていたのであろう。(㉞)」と接待や善根宿に言及している。
 ただ、この『四国邊路海道記』は、道行は俳人らしい七五体の文に拘泥したためか、軽妙ではあるが、実感に乏しいきらいがあり、文字にしろ、漢字の読みにしろ、特殊で難解な面もある。この点、三千風は「文字の如きも折に觸れ所に隨ひ勝手に作成した(㉟)」との指摘もあるが、「霊地巡拝と俳友歴訪の旅の記であるが、所々の発句、付句、和歌などを交えた達文の紀行文(㊱)」とか、「自身俳諧師としての修行もさることながら、四国の各地にいた多くの文人達との交流は、当地の文化興隆に多大な寄与をなしたもの(㊲)と考えられる。」という評価もある。
 ここで、三千風の四国遍路を考えるとき、前述したように、この「言語道断の靈邊」では、心も柔和になり、敬虔な気持ちになる。「心あらむ人はかならず一片の結縁したまへかし。」と述べ、「今に忘れがたきは此邊路の奇妙、かつ一生の咄しの種も此四国に止まるをや。(㊳)」と結んでいる。この『四国遍路海道記』冒頭の一節に三千風の四国遍路に対する思いが集約されているといえよう。

<注>
①喜代吉榮徳『へんろ人列伝』P60 1999
②『日本人名大事典(新撰大人名辭典)第一巻』P617 1990 及び岡本勝「三千風」(『日本大百科全書 22』P349 1988)による。
③大淀三千風『日本行脚文集巻之一』(大橋乙羽校訂『帝国文庫 校訂紀行文集』P350 1902)
④前出注③ P354~355
⑤前出注③ P355
⑥愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 文学』P407 1984
⑦大淀三千風『日本行脚文集巻之五 四国邊路海道記』(大橋乙羽校訂『帝国文庫 校訂紀行文集』P551 1902)
⑧前出注① P58~59
⑨前出注⑦ P551
⑩前出注⑦ P552
⑪前出注⑦ P553~554
⑫前出注⑦ P556
⑬前出注⑦ P557
⑭前出注⑦ P558
⑮前出注⑦ P558
⑯前出注⑦ P560
⑰前出注⑦ P561
⑱前出注⑦ P561~562
⑲前出注⑥ P407
⑳寂本『四国遍礼霊場記』(伊予史談会編『四国遍路記集』P191 1997)
㉑前出注⑦ P562~563
㉒前出注⑦ P564
㉓前出注⑥ P391
㉔前出注⑦ P564
㉕前出注⑦ P564
㉖松山市史編集委員会編『松山市史 第二巻』P131 1993
㉗前出注⑦ P565
㉘前出注⑥ P431
㉙前出注⑦ P565
㉚前出注① P59
㉛前出注⑦ P576
㉜前出注⑦ P577
㉝前出注⑦ P576
㉞新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』P1078 1984
㉟『日本人名大事典(新撰大人名辭典)第一巻』P617 1990
㊱前出注⑥ P408
㊲前出注① P60
㊳前出注⑦ P551