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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)修行そして作善行

 ア 遍路と入峰修行

 ともあれ、彼は慶応2年(1866年)3月、故郷を捨てて、三津浜港(現松山市)から四国へ上陸して四国遍路を始めたようである(㉙)。彼が出奔した5か月後の、慶応2年8月の母の死に際しても、中司家の当主である兄柳蔵が34歳で亡くなった明治6年にも故郷には帰っていない。そして故郷に一度も帰ることなく、異郷の地で死を迎えたのである。時に78歳であった。
 ところで、彼が故郷を出てから10年ほどの間の消息について伝えるものは、ほとんど無いようである。鶴村氏は、「遍路修行を続け、いよいよ30回となった、明治10年(1877年)3月5日、七十六番金倉寺の住職、松田俊順によって得度した。(㉚)」と、明治10年までに30回の遍路行を行っていたと書いている。茂兵衛が若くして、要領を得ぬままに、未知の土地への遍路を始めたこの時代の背景について村上護氏は次のように述べている。

   茂兵衛が遍路を始めた頃は、かなり過酷な状況下にあった。仏教は江戸三百年の長きにわたり、支配機構の一環に組み込
  まれた、事実上の国教であった。その土台骨がいまや音を立てて崩れ落ちていくのであった。廃仏毀釈の嵐が吹き始めたの
  である。明治新政府は神道を国教の座に据え、仏教に打撃を加え始めたのだ。そんな時期に遭遇しながら、茂兵衛はたゆむ
  ことなく霊場をめぐりつづけた。(中略)廃仏毀釈の嵐は十年近く吹き荒れるが、彼はその間に30回も四国遍路を繰り返
  したという(㉛)。

 明治10年から15年の間については、明治24年10月付けで、度牒を受けるために書かれた履歴書が残っている。
 明治10年以降の茂兵衛の修行について鶴村氏は履歴書などをもとに次のように記している。

   翌11(1878年)年7月16日より富士山・大峯山・葛城山等に入峰修行を各一度行っている。もちろん遍路はその後も
  続けられ、明治15年4月には64度となっている。同年4月3日より西国三十三観音霊場を巡拝し、同9月25日まで廻り
  続けて回国は3度にもなった。このような厳しい修行をして行者先達となった茂兵衛は、その体験を生かして、明治15年
  大阪の版元より『四国道中記大成』を発行している。遍路はなお続けられ、明治23年2月には111度となり、翌24年9月
  25日には121度と回数をふやしている。これから推してこの間に10度も廻り、1年間に7回も巡拝したことになる(㉜)。

 鶴村氏の言うように明治10年までが30回ほどだとすると、明治11年から24年に度牒を受けるまでの14年間に90回ほども遍路行をしたことになる。しかもその間に富士山・大峯山などの入峰修行を行い、西国三十三霊場を3度巡礼している。それと平行しての遍路行を年平均6~7回行うということは、いかに凄(すさ)まじい修行の日々であったかが推測される。
 また明治10年に、履歴書にあるとおり、松田俊順に従って「諸真言」を伝受していることから推測すると、茂兵衛は明治10年までに四国遍路の途中しばしば七十六番金倉寺に立ち寄り、当寺の住職松田俊順より教えを受けたと思われる。この寺は「訶梨帝母(かりていも)」(鬼子母神ともいい、釈迦の導きで非を悟り、愛護の神となる。子供の守り神であるとともに、子供のほしい人、安産・夫婦和合を願う人びとの祈りに応じて衆生済度を行う)信仰で知られた寺で、茂兵衛も訶梨帝母への信仰厚く、四国巡拝の途次知り合った人びとの悩みを聞いてその悩みを解消すべく、多くの信者の祈禱(きとう)を、何度もこの寺へ取り次いでいる(㉝)。俊順はそうした茂兵衛の信仰の深さと信者を訶梨帝母信仰へ橋渡しした、その活動の熱心さから茂兵衛について、「中司卜申ハ四国六十度余ノ行者ニテ当山ヘハ毎廻逗留、加利帝利生弘通ノ大行者也」と賞賛している(㉞)。その後も修行を続け、僧侶となって後も行者・先達として四国遍路に身を捧げた彼の一生は、師僧俊順から大きな影響を受け、同時にこの寺にいた臼杵陶庵俊因からも、標石への添句歌に大きな影響を受けたと喜代吉氏は述べている(㉟)。
 ともあれ、茂兵衛は明治24年に、「度牒」「白地金襴白総結袈裟著用」「持念祈禱」の3通の免許状を受けている。鶴村氏はこれについて、以下のように述べている。

   京都の聖護院門跡雄真試より度牒(出家僧の許可証)を許され、僧名義教をいただき、白地金襴結袈裟着用を許可され
  た。つづいて同二十六日には持念祈禱免許を許可されている。名実ともに仏弟子として大衆への教化を認められたのであ
  る。彼はこうして四国八十八ヶ所遍路として廻りつづけ、巡拝先達としての信者指導、行者としての修行に専念して一生を
  終ったのである(㊱)。

 明治24年は茂兵衛47歳のときであり、その後も遍路行は78歳280回まで続いたのである。喜代吉氏の茂兵衛年譜(㊲)によると、47歳の121度目から71歳の259度目まで、24年間で140回ほどであるが、年6回ほどの四国遍路行のペースは少しも落ちていない。驚くべきことである。さすがに70歳を過ぎると、年3~4回とペースはダウンするが、なおも遍路を続けている。そして最後の78歳280度目は6か月余りかかって、長尾寺と結願の大窪寺を目前にして、彼のよき支援者であり、信奉者であった久保ちか子方(香川県高松市通り町)で56年にわたる遍路生涯の幕を下ろして大往生を遂げた。時に、大正11年(1922年)3月20日午前1時であり、旧暦の2月23日であった(㊳)。

 イ 茂兵衛の道標石

 (ア)道標石の特徴

 鶴村氏は「中務茂兵衛義教の生涯」の「道しるべ解説」の項で、次のように記している。

   茂兵衛の建立した四国八十八箇所の遍路道しるべは、これまで確認されたものが136基であり(中略)道しるべを建ては
  じめたのは明治19年3月、四国霊場八十八度目の巡拝を終わって発願しており、このとき10基建てている。その原因は、
  遍路の難儀を救うことであったが、先祖の供養を願ってのことと、また彼自身の足跡を残すことであり、(中略)建立した
  碑のほとんどに願主になっているが、若干施主になっているものもある。茂兵衛はたんなる遍路ではなく、住職の資格をも
  ち、念仏行者として遍路中各地で祈祷もして、謝礼も多く、独力で建立できた。(中略)碑はすべて御影石を使用してあ
  り、高さ130cm、30cm角のものが多い。方向は左右や寺院地名を手や指の形で指示している。大師尊像を上部に刻んで
  いるものも多い。文字は二面三面が多いが4面に刻んでいるものもある。歌や句を彫りこんだのも2・3あった。(中略)
  茂兵衛はすべての碑に出身地を周防国大島郡椋野村と刻んでおり、庄屋であった実家の名をはずかしめないために、意識し
  て足跡を残そうとしたのであろう(㊴)。

 これは昭和54年(1979年)に書かれたものである。その後発見され確認された道標石も多い。それらも踏まえて整理すると、その特徴は、梅村武氏が指摘するように、四角柱で、建立の年月、巡拝度数、茂兵衛の氏名・法名を刻んでいることである(写真3-1-18)。さらに、梅村氏は、「最初の八十八度目のものには小型のものが多く『行者 中務茂兵衛』となったものも多い。(中略)一基に多数の施主名が刻まれているものが多いのも彼の標石の特徴といえるかもしれない。(㊵)」とも述べている。何よりも建立年月と巡拝度数を刻んでいることが最大の特徴である。その他道標石に和歌や俳句を刻んだものが39基あると喜代吉氏は言う。茂兵衛の思いを知る上で大事な標石である。

 茂兵衛の標石の巡拝度数と建立年月
 なお、梅村氏は、茂兵衛の標石に刻まれた巡拝度数とその標石の建立年月の関係を表にまとめている(㊶)。茂兵衛がいつ(何歳)ごろ、何度目の巡拝をしていたかが一見して分かる。88度目は茂兵衛42歳である。また、茂兵衛が巡拝度数を刻んでいないものがわずかにあるが、この表を見れば、建立年月から何度目の標石かを推定することもできる。たとえば、愛媛県菊間町にある明治44年6月建立の標石は、巡拝度数が刻まれてないが、表から類推すると240度目くらいであろう。

 (イ)茂兵衛の道標石とその意義

 茂兵衛の道標石について、鶴村氏は、昭和54年までに136基確認されていると紹介している(㊷)。58年には、村上節太郎氏が、まとめて紹介し「150基ほど建てている」と記している(㊸)。また平成11年には梅村武氏が188基(阿波43、土佐17、伊予68、讃岐60)を紹介している(㊹)。これは、標石を1基ずつ、手書きの模写で掲載しており、一見してその形状が分かるのが特徴である。
 道標石やその添句歌については、喜代吉氏の詳しい調査や研究がある。最終的にまとめての発表ではないが、個々の標石について漸次発表している。平成11年に出版された『へんろ人列伝』では、道標石237基、そのうち添句歌が刻まれた標石が39基確認されたとして、表を掲載している(㊺)。標石建立は、明治19年(1886年)、42歳が最初である。最も多いのが明治21年、次いで19年、さらに27、29、31年などであるが、いくつかについては喜代吉氏の説明がある。以下略述してみる(㊻)。
 明治19年は、茂兵衛42歳の厄年にあたる。その厄払いと八十八ヶ所にちなんだ巡拝88度目成就を記念して、標石の建立を企てた。現存確認数は19基である。明治21年は巡拝100度目成就の年である。前年は建立を休み、100度目を記念して一気に28基も設置した(㊼)。百台の大台を突破し、次の目標は何度であったかの答えが137度である。つまり芸州辺路忠左衛門の136度巡拝が目安となった(㊽)。忠左衛門というのは、芸州広島の人で、136度目の巡拝中88番大窪寺を前にして亡くなった人である(㊾)。明治28年、茂兵衛51歳は、茂兵衛の父が亡くなった年齢である(㊿)。その翌年立てたしるべ石の添句に触れて次のように述べている。「<旅嬉し只一すじに法の道>これは父の年齢を越し、命ある身で辺路旅に遊ぶ己を、喜ぶ己を詠んでいるのではなかろうか。((51))」
 この遍路道標石の建立について、そのねらいを鶴村氏は、遍路の難儀を救うこと、先祖供養、彼自身の足跡を残すことだったと記している。また、喜代吉氏は前述の分析に加えて、「そこには時代の要請もあった。文明開化による道路事情である。(中略)茂兵衛の遍路した頃も次々と新道開通が見られた。四国中を常に巡廻していたのが<へんろ人・茂兵衛>であった。いわば四国辺路道の道守り役が茂兵衛に課せられていたわけである。((52))」と述べている。明治維新という大変革期にあって、新道開設など道路事情の変化に対応した道しるべが、遍路にとって必要な時代であり、茂兵衛はその要請に応えた人であったということになろう。さらに言えば、道路こそ新しくなったとしても、お大師様を信仰する遍路道は変わるはずが無い。その遍路道を守ることを我が身に課せられたことと意識し、実践した先達・行者であったということでもあろうか。
 明治19年建立の道標石に次の歌が刻まれているものがある。その添歌を取り上げ、喜代吉氏は次のように解説している。

   迷う身を教えて通す立石のこの世はおろか極楽の道
   『迷う道』とは、現実の辺路道における人々の姿であり、立石はそうした人を辺路道へと教え導くわけである。そしてそ
  うした立石を建立することは、現世の道標としての機能にも増して、人生に迷う身を、来世(極楽)に渡す善根功徳の行い
  である。茂兵衛にとっては厄年という個人的事情に起因する部分が大きいのだが、多くの信者を巻き込んで大師信仰の結実
  を残してゆくことになった((53))。

 八十八ヶ所を八十八度も経巡(へめぐ)る中で弘法大師の教えを身に受けながら善根功徳の道への一歩を踏み出したというべきであろうか。とはいえ、迷う道とは現実の遍路道に迷う人々の姿であるとともに、八十八度の遍路行でも、まだ悟りえない彼自身の人生に迷う姿であったかもしれない。彼の遍路行はこれからも280度まで続くのである。
 道標石建立が茂兵衛の生涯や生き方にどうかかわっているのか、設置場所や設置時期、あるいは標石の添句歌の一つ一つにどのような意味があるのかなどは、まだまだ今後の研究の課題であろうと思われる。

 ウ 茂兵衛の信奉者

 茂兵衛の宿についての逸話として、鶴村氏は、「茂兵衛の遍路中の宿は『四国霊場連合会指定・中司茂兵衛定宿』と板三尺で作られた看板を挙げていた((54))」と述べ、これに関連して中司善子さんの話として、「私の母タマ枝が17歳のとき、母親梅子と四国の茂兵衛を訪ねて、三人連れである商店街を歩いて、大きな旅館のまえを通りかかると、主人らしいのが飛んで出て、もみ手をしながら、茂兵衛様ではございませんか、今夜のお宿はどうぞ私の方へとぺこぺこ頭を下げていた。」という。また、茂兵衛が「わしはなにも不自由はしていない、皆がとっても親切にしてくれるから心配はいらん。((55))」あるいはまた、「着物でも皆がお古をいただかせて下さいと言っては、新しい着物を持ってくるので買ったことがない。((56))」と語ったことを鶴村氏は書いている。まさに鶴村氏の言うように行く先々で歓待を受けていたのかもしれない。また茂兵衛が遍路中に使用していた長さ1mほどの珊瑚(さんご)の大数珠が残されているが、彼の死後間もないころ、「椋野村の生家へ四国から多くのお遍路が訪れ、こちらは四国におられた茂兵衛様のお宅と聞いてきましたが、お宅には大変ありがたいお数珠があるとか、といってぞろぞろ入ってきて、お経を称えながら、頭をなでたり腕をさすったり自分の身体の悪い所に当てて拝んでいた。((57))」という話もある。現在(平成12年)もそれに似た話があると、中司善子さんは次のような話を聞かせてくれた。善子さん宅の上方で中司家の墓地の下方に、四間四方の立派な椿山茂兵衛堂(茂兵衛堂は、愛媛県の故石川椿氏が中心となって奔走し、2期にわたる工事の末に完成したものである。1期工事の際堂内に茂兵衛の墓が作られている。((58)))が出来ている。そのお堂で毎月21日にお参りがあり、善子さんもお接待に出られているとのことである。そこに茂兵衛の残した納経帳2冊(巡拝111度まで使ったものと、112度から280度まで使ったもので、2冊共にどのページも、朱印で真っ赤である)を持っていくと、集まった人々はお蔭を受けるからと言いながら、その納経帳で額をさすり、肩や背中を撫(な)で回したり、パンパン叩いたりしているとのことである。
 茂兵衛の諸日記の中に「大正十年(1921年) 信者よりせたイ 四十六円九十銭也」、その年の入用分が「四十五円九十八銭」で「残金七十九銭のこり」と書かれている((59))。これについて喜代吉氏は「宿泊食事代金はほとんど無料で、薬代が相当かかっている。そのほか、砂糖、たばこ、はがき代などがよく使われている。((60))」と解説している。これは茂兵衛が非常に多くの定宿に泊まり、それも無料で受け入れてくれたということであろう。喜代吉氏は、茂兵衛が利用した札所中心の宿泊録を作成しているが、それによると、20か寺ほどの名が挙がっている((61))。その他民間の定宿と思われるものも多い。明治42年(1909年)正月から43年末までの諸日記(43年3月~6月の記録なし)だけを見ても、多度津の塩田栄吉方には12回も宿泊している。そこを通過する度に泊まり、時には何日も滞在し、せたイ(金銭的接待)も受けている。高松の久保岩巳(後には久保ちか〔子〕)、道後の村井まきち、あるいは四国路のみならず山陽路の坂井うた、藤井太郎兵衛、大内せい(子)などの家に泊まっていたことは何度も記されている。彼の宿泊先などについての研究はこれからのようだが、実に多くの人名が諸日記には残されている。
 また彼の道標石の施主を見ると、実に多くの施主名が刻まれている。喜代吉氏が『中務茂兵衛と真念法師のへんろ標石並に金倉寺中司文書』の中で紹介している220基の標石について、施主を拾ってみると、遠くは北海道、東京、福井や愛知、岐阜もあり、西日本はほとんどの県の人名が刻まれている。その施主も1基に10人以上記されている標石もある。鶴村氏は茂兵衛の遺品の中に「三百余りの全国の信者、交友のあった道中信者の控え((62))」もあると書いている。いかに多くの人が茂兵衛を支えていたかも推測できる。これらの人々は茂兵衛という四国遍路の行者を通して弘法大師と結びつこうとした茂兵衛の信奉者であり、ひたすらに八十八ヶ所を巡り続ける茂兵衛の行に賛同し、支えるとともに、茂兵衛を特別な存在として崇敬する人々であったようにも思える。それはまた、茂兵衛が人びとを、四国遍路へと結び付ける大きな存在であったということにもなろう。

写真3-1-18 茂兵衛巡拝百度目の道標石

写真3-1-18 茂兵衛巡拝百度目の道標石

五十二番太山寺山門入口にて。平成13年3月撮影