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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)四国遍路への旅立ち

 ア 武田徳右衛門とその子供たち

 (ア)京上徳右衛門とその墓

 越智郡朝倉上之村の武田家は、河野十八将の一人、龍門城主の武田信勝の流れをくむという(②)。朝倉上之村は、寛永12年(1635年)、松平定行が松山藩主として入国の時に、朝倉上村(今治藩領)から分立し、松山藩領となった。その際、松山藩朝倉上之村は本家である兄の久兵衛が、今治藩朝倉上村は分家である弟の惣七が庄屋を勤めた(③)。本家は大庄屋や庄屋役を勤め続けてきた(④)が、本家から上万代(うわばんだい)、下万代(したばんだい)(共に屋号)と分家していった。その下万代の長男として生まれたのが徳右衛門である。彼は何の故か、家督を弟の小右衛門に譲り、京上(きょうがみ)に居を移した。本家は大正のころをもって子孫が断絶したが、京上の武田家はその直系が今も墓(写真3-1-11)を守っている。
 その武田徳右衛門の墓所は現在、朝倉村朝倉上水之上(みずのかみ)の鷹羽にある。県道154号を今治市から朝倉村に入り、水之上飯成神社を過ぎて、まもなく道沿いの右側に龍門保育園(元武田本家の屋敷跡)がある。その左横道を山に向かって上り、さらに左の小道を少し上ると、墓石の集中する武田家の墓所に至る。徳右衛門やその子供たちの墓石もそこに整理されている。これについて、現当主の武田徳夫さんは、「祖父の時代に、バラバラに広がっていたのを今のように整理した。」と語っている。徳右衛門の墓石を調査した梅村武氏は、「徳右衛門の墓石には彼が一生心の支えとした弘法大師の尊像が刻まれているのですぐにわかった。(⑤)」と墓碑を写し取っている。これによると徳右衛門は、寛政6年(1794年)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807年)に成就したことになる。そして亡くなったのは文化11年(1814年)で、享年は不明である。

 (イ)府中二十一ヶ所霊場由来記

 武田徳右衛門についての資料は非常に乏しい。一つは徳右衛門の丁石についてのもの、次には府中二十一ヶ所霊場に関するもの、それに墓石や過去帳などである。これらの資料を総合して、最初に武田徳右衛門について書かれたのが、無量寺先代住職の龍田宥雄氏による「府中二十一ヶ所霊場由来記」であると思われる。それには次のように書かれている。

   武田徳右ェ門は、朝倉村水之上、下万代武田徳右ェ門の長男に生まれましたが、次男小右ェ門に家督をゆずり、水之上竹
  之下母屋(飯田屋)より、おべんを妻に迎え、京上に屋敷を構え、一男五女を得て、平穏な生活を送っておりました。
   ところが、天明元年(1781年)夏、長男七助が急死したのを始めとし、引き続き、二女おもよ、三女おひち、四女こ
  いそ、五女おいしと天明元年から寛政四年(1792年)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失いました。重なる不幸
  に、徳右ェ門夫婦の悲痛落胆は筆舌につくし難く、泣きの涙に暮れはてて、生きる甲斐もなく、悶々の日が続きました。
   この非情を見るに忍びず、無量寺第二十五世宥寛上人は、諸行無常の理法から説き起こし、弘法大師のお慈悲におすがり
  して、信仰の生活に入る事を教えました(⑥)。

 『朝倉村誌』の「府中廿一ヶ所霊場由来記(⑦)」は、龍田宥雄氏の原稿を基にしたと思われ、「である体」に直し、幾分構成に手を加えているが内容は変わっていない。

 (ウ)徳右衛門についての通説とそれへの疑問

 武田徳右衛門の子供たちについては、この龍田宥雄氏の書いた、長女「おらく」だけは成長するが、わずか11年の間に5人の幼い子供を失ったというのが通説となって知られている。その逆縁の悲痛な思いを癒(いや)すために、武田家の菩提寺である無量寺の宥寛上人は徳右衛門に諸行無常の世の常を諭すとともに四国遍路を勧めた。徳右衛門にとって、救いの一歩であった。さらにたった一人残った娘おらくが無事成長してくれるようにとの思いで、弘法大師にすがったのであろう。徳右衛門にとっては次々とみまかり行く子を思えば、悪魔にでも魅入られたような恐怖と、現実にいとし子に先立たれるという苦悩や悲痛な嘆きから解き放たれる必要があった。同時に幼くして、みまかった幸薄い子供たちの菩提を弔いたい思いもあったであろう。それがお大師様にすがることであり、四国遍路への癒しの旅に出ることであったのではないだろうか。
 ところで徳右衛門が四国遍路に出るきっかけとなった不幸について、梅村武氏は、1男4女ではなく、2男4女の死であろうと推定している。その根拠は今治市にある五十六番泰山寺に残る徳右衛門寄進の標石と徳右衛門の墓石、それに無量寺に残る過去帳の記録などからである。以下梅村氏の『武田徳右衛門丁石と伊予府中廿一ヶ所霊場(上編)』と『四国遍路シリーズ武田徳右衛門丁石』をもとに解説する。先ず泰山寺に残る標石について、梅村武氏は、標石図を示して説明している。この標石は、徳右衛門の道しるべ丁石建立発願以前のものらしく、後の徳右衛門丁石とは異なること、標石左側面の子供の戒名が、2男4女の計6人となっていることを指摘している(⑧)。また、「この標石は徳右衛門が子供のために建てたものである。亡くした子供の供養、先祖供養などでの遍路標石はよくあること、関西地方では巡礼道の標石として特に多いように思われる(⑨)」と述べている。
 次に武田家の墓所にある徳右衛門の子供たちの墓石を丹念に調査し、次のように述べている。墓石はすべて舟形石仏で、そのうち5基には、智玉童子、法林童子 助七、智浄童女 おもよ、おひち、おいしの文字を確認することができ、「童子二人の舟形石仏は同じ台石の上に並んでいた。(中略)これらの他に、舟形石仏がもう二基あり、そのうちの何れかが、四女・こいその墓なのであろう。(⑩)」と述べ、さらに長女の墓も調査した結果、天保9年(1838年)に亡くなっていることを確認して、墓石には「おらく」ではなく、「おくら」と彫られていることを指摘している(⑪)。
 さらに、過去帳については、次のように述べている。

   無量寺の過去帳には次のように記されていた。

    ・智玉童子  安永元年十一月十七日    重治良子    金治
    ・法林童子  天明元年八月廿二日     徳右衛門子   助七
    ・智浄童女  天明四年十二月十四日      〃     ヲモヨ
    ・法了童女  天明六年十月八日        〃     ヲヒチ
    ・観性童女  天明七年十一月十一日      〃     コイソ
    ・梅芳童女  寛政四年二月十五日       〃     ヲイシ
   この過去帳で注目すべきは、最初の智玉童子の「重治良子」の横に「徳右衛門」と鉛筆で添え書きされていることであ
  る(⑫)。

 なぜ添え書きされたかは不明としながらも、「先代が泰山寺標石の『二男四女』の事を後で知り、『重治良』は『徳右衛門』と同一人物として鉛筆で添え書きされたものと考えたい(⑬)」としている。その結果、『朝倉村誌』等の記述との相違点を次のようにまとめている(⑭)。

   ① 徳右衛門が亡くした愛児は1男4女ではなく、2男4女が正しいのではないか。
   ② 男児「七助」は、「助七」が正しいのではないか。(過去帳には「助七」とあり、墓石でもそのように読める。)
   ③ 長女「おらく」は「おくら」が正しいのではないか。(墓石では「おくら」と読める。)

 もし、①を認めるならば、「長男七助」ではなく、「次男助七」となる。また、③については、無量寺の過去帳は「クラ」である。
 なお、龍田宥雄氏の息子である現住職の龍田宥仁氏は、「府中二十一ヶ所霊場由来記」と「過去帳」について次のように話している。
 「これは父が書いたものですが、子供の数が違うのです。五十六番泰山寺に、徳右衛門が願主となった標石があるということを、梅村さんから聞きました。それには2男4女、計6人の童子・童女の戒名が刻まれています。その6人の戒名は無量寺の過去帳にそのまま記載されています。標石や過去帳からは1男4女と書いた父が間違いでしょう。なぜ間違って書いたのかは分かりません。
 この過去帳は寺の古い過去帳と村の家々にある過去帳(や位牌?)を照らし合わせて書き直したもので、その作業は大正時代に祖父が人を雇ってやらせたものです。父が『府中二十一ヶ所霊場由来記』を書いたときは五十六番札所の標石も知らなかったのかもしれません。後で標石に彫られた2男4女の戒名と寺の過去帳の戒名が同じなのに気が付いて、過去帳に鉛筆で徳右衛門子と書き加えたのは父ではないかと思います。」

 イ 四国遍路の旅へ

 徳右衛門は勧められた四国遍路の旅に出発する。このことについて、龍田宥雄氏の「府中二十一ヶ所霊場由来記」には次のように記している。

   それは恰も1810年の昔、温泉郡荏原村の衛門三郎が7人(8人)の子供を失い、懺悔のため四国八十八ヶ所の霊場を巡
  拝した如く、徳右衛門も亦、幼くして急逝した一男四女の冥福を祈るとともに、生き残った長女おらく(おくら)の成長を
  願い(中略)お大師様のみあとを慕って、四国遍路の修行の旅に出発しました。そして年三回ずつ各霊場寺院を巡拝しまし
  た(⑮)。

 徳右衛門は、み仏にすがりながら、生きる道として四国遍路の旅を選んだ。しかし今と違って歩きの遍路である。道も現在のように整備されてはいない。食料も医療も宿泊所さえ十分ではない。当然、病に倒れ、衰弱し、旅の途中で亡くなった者も多い。それが遍路墓として各地に今も残っている。大庄屋の流れを受け、何不自由なく育ってきたであろう徳右衛門にとって、遍路道を歩くあの白装束はまさに死を覚悟してのものであったかも知れない。それでもなお、自らの心の癒しのための巡礼であり、次々と亡くなっていったいとし子たちの冥福と長女おくらの無事なる成長を願っての遍路の旅である。子供たちの菩提を弔う旅は年に3回ほどで十数年続いたという(⑯)。

写真3-1-11 武田徳右衛門の墓

写真3-1-11 武田徳右衛門の墓

越智郡朝倉村。平成12年7月撮影