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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)様々な遍路たち②

 (イ)娘遍路の風習

 若衆組入りのために男たちは遍路の旅に出たが、娘たちもやはり遍路に出た。これは、四国遍路を経験することによって、広く世間を見させ、いろんな苦行にも耐えうる忍耐力をつけることで、はじめて嫁入りの資格ができるという慣習であった。この慣習は、「伊予の宇和島や松山、讃岐の多度津町の北木島などの四国の各地方(⑱)」にあったようだ。
 また、娘遍路について、前田卓氏は徳島県板野郡の老婆から次のような話を聞いている。「年寄りの先達につれられた娘遍路の集団の中で特に目を引いたのは、伊予ガスリを着た『伊予の国の娘遍路』の一団と、コシマキ、テッコウ、キャハン、手拭もすべて水色に染め抜いた揃いの遍路姿をした『讃岐の伊吹島の娘遍路』の一団であったという。これらの娘遍路がへんろ道を歩いている姿をみるのが春の一つの楽しみであった。(⑲)」
 こうした娘遍路について、昭和16年(1941年)まで毎年のように盛んに行われていた「讃岐の伊吹島の娘遍路」の例を取り上げ、整理してみた。

   a.伊吹島の娘遍路

 伊吹島は、香川県西部、観音寺市の西方約10km沖合に浮かぶ周囲約4kmの島である。島の歴史について、『伊吹島の民俗』には、「神恵院(68番札所)の弘化録によると、約1,200年前、弘法大師にまつわる伝説によって『異木島』といわれたとあり、このころある程度の集落が形成されていたように思われる。また、天治元年(1124年)、琴弾八幡宮を勧請して、伊吹八幡神社を建立し、併せて泉蔵坊(現在の泉蔵院)、海蔵坊(後海蔵寺、その跡地に現在の西ノ堂)が建てられたとも、弘化録は伝えている。(⑳)」と書かれている。
 島の経済を支える主産業は、バッチ網(瀬戸内海機船曳網)を中心とする漁業である。太平洋戦争前には朝鮮半島沖に出漁していたが、長期にわたる漁業不振期を経て、現在は煮干製造による活況期を迎えている。
 この島の人たちは、海で生活をするだけに神仏への信心が深く、毎年島にある島四国には、島民が参加し、3月吉日には島民から御布施を集めて、六十八番神恵院での「お接待講」も行われている。
 この島では、始まりは定かでないが、娘たちによる四国遍路の風習が、明治時代から昭和16年(1941年)まで行われていたようである。その娘遍路の様子を、伊吹島在住で、娘遍路を体験した**(大正8年生まれ)さん、**(大正11年生まれ)さん、**(大正12年生まれ)さんたちからの聞き取りと『伊吹島の民俗』の中の三好くにさんからの聞き書きを参考にまとめてみた。
  <遍路の支度>
 四国遍路に出るには、いろいろ用意しなくてはいけないが、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、さんや袋などは、自分たちで白木綿で縫っていた。尻当ても自分たちで作っていた。また、新橋色(しんばしいろ)(青緑色)に染め抜いた手拭いは、同行で一緒に回る者たちでそろえていた。また、納経帳は、和紙を綴(つづ)って、少し厚い紙を表紙にして、糸で縫って自分たちで作ったり、祖母・母親と娘遍路に回った時の物を、表紙だけを新しく綴(と)じ重ねて作ったりした。そして、納め札も和紙で、縦が14・5cmくらいの長い札と10cmくらいの短い札の2種類を自分で作っていた。長い札には、「奉納四国八十八霊場巡拝」と書き、短い札には、「南無大師遍照金剛」と書いた。長い札は、本堂に納めたり、お接待を受けたときに、お接待をしてくださった人に渡していた。短い札は各地蔵さん(大師堂)に納めていたという。
 肌着などの着替えや、雨具などは柳行李(やなぎごうり)に入れて、それを白い木綿の風呂敷で包んで背に負うて運んでいた。途中でお腹がすいたときや、子供たちへの接待のために、ソラマメを煎(い)って煎り豆にした物を袋にたくさん入れていた。時には、サツマイモを切ってゆがいて干したイデカンコロ、麦を煎って挽(ひ)いて粉にしたハネゴ(はったい粉)などを持って行った。
 着ていく着物は絣(かすり)で、所持金を入れておく所を内側に縫いつけて、必要なときに糸をほどいて使っていた。足下は、長距離を歩くために地下足袋を履いた。
  <遍路への旅立ち>
 遍路への出立は、旧暦2月の吉日(伊吹島の百手祭り後の吉日)であった。その前日には、伊吹島の泉蔵院へ参詣し、ご朱印をいただいた。
 出立やカドイレの日には、親類たちがお見立て(餞別)を持って来ていたが、普通1円か50銭であったようだ。出立の朝には、遍路に旅立つ娘たちが道中まめなように、時化(しけ)にあわないようにと願って、小豆御飯と豆腐汁を食べた。
 遍路に出る一行の顔ぶれは、先達(せんだつ)のおじいさんと会計、宿取り、警護役、荷物持ちなどをする男衆が3・4人ついて、娘衆は17歳くらいから23歳くらいまでの娘さんや若嫁さんが7人から10数人で、時には、遍路経験のある年輩の女性もついていった。**さんは、「うらら(私たち)の時は、若嫁さんが多くて、娘は少なかった。うらも、結婚することを前提に遍路に出してもらった。」と語った。
 娘遍路たちのいでたちは、頭には新橋色の手拭いを載せその上に、讃岐の「さ」の字を書いた菅笠をかぶる。絣の着物を短めに着て、下の紅色のおこしがちらりと見えるように着る。手には手甲を付け金剛杖を持つ、背中には、白い木綿の風呂敷で巻いた柳行李を載せた負い台を負う、足には脚絆を巻き地下足袋を履く。いかにも、若い娘さんたちの華やかないでたちである。『伊吹島の民俗』によると、昭和4年(1929年)には、履き物として白足袋に草履がけであった。
 島からの出航は、真浦港から定期船の伊吹丸で出航し、船は三架橋を臨むもとの船着き場である仮屋の浦に着く。娘遍路一行は、ここから観音寺市上若松町の西光寺にある仮屋の大師堂に詣(まい)る。この仮屋の大師堂は、嵐などで船が出ないときに、伊吹島の人たちが泊まっていた定宿で自炊場もついていた。
 **さんらによると、四国遍路の打ち始めは、七十番本山寺であるが、『伊吹島の民俗』によると、「第六十八番神恵院、第六十九番観音寺と讃岐の札所を八十八番まで打ち終え、阿波の第一番霊山寺へと進む。(㉑)」とあり、打ち始めは神恵院からのときもあったようである。
 残った家族は、遍路に出た娘たちの足にまめができたり、事故にあわず病気にならないように、豆は煎らない、家族で口論をしないなど生活を慎むように心掛けた。
  <遍路の思い出>
 観音寺を出立した娘遍路一行は、讃岐を約1週間で回ってしまう。**さんによると、遍路に出る前に特にお経の練習はしなかったが、歩きながらお経を覚えて、讃岐を出るときには大体覚えていたということである。
 1日10里くらいは歩いていたので、ある日の遍路宿で足の裏を見ると、足にまめができていて痛くて歩けなかった。その時に、一緒に同行していたおばあさんから、白い木綿の糸にヨードチンキをしめして、それで足の裏のまめを縫い、その端を切っておきなさいと教えられた。そうすると、足の裏のまめは、翌朝にはきれいになくなっており、歩くことができるようになっていたという。
 四国遍路は山が多いので、宿が取れないことがあったらいけないので、一足先に行って宿を取る宿取りがいた。ある時、宿取りの若い衆が、ある遍路宿の店先でかき餅(もち)をごちそうになり、もう少し先の所で宿を取る予定が、少し早いけれどその遍路宿にしたこともあった。また、店先にきれいな布団を丸めて並べている遍路宿があったので、宿をそこに決めたら、実際に寝るときに出された布団は、ぼろぼろの布団だったりしたこともあったそうである。
 宿に着いたら、まず金剛杖の先を洗うのだが、伊吹島では年齢の戒律が厳しくて、一番年下の者がみんなの金剛杖を洗ったり、手甲と脚絆を近くの川などで洗った。風呂は、「五右衛門風呂」などであったが、入浴するのも一番年下の者が一番最後であった。遍路宿は、百姓家が内職でしていたので、その食事はおかずといっても魚などなく、芋やなんきん(カボチャ)やワラビなどの山菜が多かったが、御飯は白飯だった。宿屋での修行は、晩御飯が済んだら、納経帳を出して、ろうそくの火の下で勤行(ごんぎょう)をすることであった。
 当時の遍路宿は木賃宿だから、米は別に出していた。宿賃は、一泊一人最低23銭くらいだった。夕方、泊まった宿屋に米を渡して朝昼晩の3食分一度に炊いてもらい、晩と朝とに食べて残ったら、柳行李に詰めて昼御飯にしていた。時には、接待宿(善根宿)をもらうこともあった。善根宿では、お礼に晩と朝に看経(かんきん)(経文を読むこと)し、また、出立の時には納め札をお礼に置いていった。
 会計は、ついてきている男の人の役目で、娘達は必要経費を全額一度に渡さずに、途中で20円とか分けて渡していた。全部で、35円から40円くらいかかったようだ。納経帳も、一緒についてきている若い衆がまとめて運んでいた。
 **さんによると、阿波から土佐への道のりはハイヤーや船に乗って行ったそうである。小さい川には、岸から岸に針金が渡してあってその間を小船が行き来できるようにしていた。乗るときには、1銭くらいを置いて乗っていた。当時は橋が少ないから、そんな小船が至る所にあった。
 当時、娘遍路は伊吹島の娘遍路くらいだったが、男の若者遍路は伊予や阿波や讃岐から大勢来ていた。しかし、それも四国以外からはほとんどなかったようである。その時の様子を、**さんは、遍路中、伊予の菊間の若者遍路と一緒になり、山で待ち伏せされたり、宿でも一緒になったりして、声を掛けてこられ困ったことがあったと話した。また、札所へ着いて看経する時に、先に来ていた若者遍路が、杖を強くついて大きな音をたてながら十三仏真言のお経を早口で言って、娘遍路の看経を取る(邪魔をする)こともあった。
 遍路もいろいろな体験をしながら伊予の松山まで進むと、ふるさとまであと少しということになる。松山では、「娘遍路たちの最大のたのしみが、道後の温泉である。石手寺など松山市付近の札所を打った後、道後の宿で2泊する。娘たちは、湯につかる間もなく街へ出かける。先達はいつも目を光らせているが、娘たちはきゃきゃっと賑やかに街へ出かけて、伊予絣をよる。自分に似合いそうな伊予絣を選んで、一人1反ずつ買って帰る。そして宿へ帰り、布を裁つ。裁台や、物差しなどは宿屋で借り、単衣のきものを一夜で縫いあげる。(㉒)」という。
 娘たちは、着物から、手甲から全部一人でつくっていた。だから、裁縫ができない者は恥をかく。その時、自分の物だけでなく、お先達や一緒について来てくれた男の人たちの物もちゃんとつくっていた。仕上がった着物などは、観音寺の仮屋のお大師さんあてに送ったそうである。
  <お接待について>
 娘遍路たちは、お接待にあずかるために、次のような歌を歌いながら歩いた。
 「南無大師遍照金剛 そこらにお接待ありそうなもんじゃ 接待くれたら良い子ができる 良い子ができたらお家が繁盛」
 そうすると、地元の人が「あそこに、お接待があるで。」とお接待をしている所を教えてくれた。また遍路しながら、擦れ違う他のお遍路さんに「ごくろうさんです。」と声を掛けることも大切で、声を掛けると、この先のお接待の所を教えてくれた。何にも言わずに通ると、お接待の場所を教えてもらえなかったそうである。
 また、お接待を受けるのに、自分の好きでない物が出て、そのお接待を受けなかったら、その日一日、お接待が切れる(なくなる)。だから、「ありがとうございました。」と言って、お接待はすべて受けた。そして、お接待に対しては、次のようなお礼の歌を歌って看経を行った。
 「ありがたや この所にたちよりて お茶の供養に身を休み 下さる人は釈迦如来 ここの茶碗がれんげばな はしは菩薩の光明となる 新茶か古茶か藤の茶か 旅の疲れで足は癒えぬ この日の功徳後の世のため 南無大師遍照金剛」
 **さんは、お接待について次のように思い出を語った。
 「遍路に出たら、1日7回は修行せないかんと言われました。そして、3月3日には『今日は修行の日ぞ』と先達さんに言われて、托鉢(たくはつ)に出たこともありました。お接待で餅やいろんなものをもらいましたが、その日全員で米2斗(1斗は15kg)もらって、めいめいに分けて荷物としました。そうすると、荷物が重いので、みんなが『ああ、重いのう』などと文句言いよると、その日は接待は至る所にあるんですが、うらら(私たち)が行ったら済んどったりして接待に当たらんのです。」
 また、『伊吹島の民俗』には、「『節句のご縁にあいましてな』と、くにさんはお接待のすごさに驚く。『土佐の石ふとん、と土佐の札所では殆どお接待がありませんでしたが、伊予へ入ってからはな…』あられ、煎り米、草餅、炊きこみ御飯と、道道でお接待にあずかる。もう結構ですと辞退すると、それっきりお接待にあずかれないと、ありがたく戴くことが供養になる。(㉓)」と書かれている。
 お接待でもらった米は主食として重要であるが、たくさんもらった時には、木賃宿で買ってもらったりした。昭和4年(1929年)ころで1升30銭で買ってもらったようである。
  <遍路を終えて>
 四国八十八ヶ所の遍路が全部済み、観音寺に着くと、銭湯に入って、仮屋の大師堂で1泊する。翌日は、朝から全員が髪結いに行き、髪を結ってもらう。銀杏(いちょう)返しや桃割れに結ったり、洋髪にしたり、思い思いに着飾り、道後から送っておいた新しくつくった着物を着て、金比羅参りに行き、その後、伊吹丸に乗船する前に記念写真を撮った。記念写真には、新橋色の手拭いを肩に掛け、讃岐の頭文字の「さ」の字を書いた菅笠と金剛杖を手に持ち晴れ着で写った。伊吹に帰って、そのきれいな姿をみんなに見せるのが楽しみだった。この晴れ着姿の記念写真は、伊吹島の西の堂に奉納された。
 観音寺には、親が迎えに来ていて、お見立てをもらったところへのお土産を買っていた。お土産は、手拭いと金毘羅名物のお菓子へそまん(灸まん)にキンカンをちょっと付けたくらいの簡単なものであった。そして、「真浦へは、家族たちが出迎えに来ている。みずみずしく結いあげた黒髪、藍のかおりのする伊予絣の晴れ着。歓声があがり、笑顔が答える。晴れがましい娘遍路たちは、先達に導かれ西の堂・荒神・泉蔵院などで看経。(㉔)」を行ったという。
 その後、お見立てをもらった家にお土産をもって、お礼に行っていた。子供たちは、そのお土産のへそまんが楽しみだったそうである。
 また、伊吹島には、出産の後の、養生の場所としての「出部屋」があり、そこでも娘遍路に一緒に行った者同士が再会することがあるなど、その後もつながりが深いという。

   b.愛媛県の娘遍路

 愛媛県では、「娘が若者といっしょに遍路に行ったという伝承があるのは、松山市鷹子・北久米・石手・道後・吉藤・平田・福角・米野々・別府・東垣生・興居島などである。鷹子では、女19歳の厄年までに厄ぬぎのための遍路に出たと伝えており、これが嫁入り条件になっていた。平田などでは、青年と娘がいっしょに行くときには老婆がついて行った。遍路中に心安くなり、帰ってから所帯をもったという例もあったという。しかし、娘遍路の習俗は若者遍路よりもかなり早い時期に姿を消したようである。(㉕)」かつて、五十三番円明寺通夜堂には、大正4年(1915年)の松山市和気の娘遍路たちの奉納絵馬が掛かっていたといわれる。
 また、宇和島市・吉田町・三崎町・大洲市・新居浜市などのある地域では、嫁入り前の娘が厄落としや嫁入りのための経験を積むという目的で、身近な年輩者に連れられて四国遍路を行っていたといわれている。このように、娘組のような形ではなく、個人的に四国遍路を行うという風習は各地にあったようである。

 (ウ)婚約遍路

 非常に変わった青年の遍路に「婚約遍路」というのがあった。これについては、『巡礼の社会学』によると、「婚約中の男女が、共に連れ立って四国八十八ヵ所を巡拝して帰ってくるのであり、その間、二人は清い交わりを保たねば破談になるという。このような慣習で有名なのが和歌山県西牟婁(むろ)郡の地方であって、この慣習は何時頃から始められたかは不明であるが、昭和20年頃まで続けられたという。数十日間、苦楽を共にしながら相手を十分に観察出来るのであるから、こういう点では、実によく考えられた慣習ではなかろうか。(㉖)」と記述されている。
 また、この婚約遍路は徳島県にもあったようで、昭和17年(1942年)に出版された『遍路圖會』によると、「阿波徳島の或る地方の男女は成年に達すると、必ず一度は四國巡禮の旅に出る。遍路の體験(たいけん)を味わってゐないと人並の交際も出来ないし、結婚の重大な條件にもなる―と伝った風習が今も残ってゐる。そこで縁談が持ち上り、若い二人の婚約がなると、未来の夫婦は双方の親たちに送られて巡禮(じゅんれい)に旅立つのである。(㉗)」と記述されている。

<注>
①前田卓『巡礼の社会学』P182 1971
②愛媛県教育委員会『愛媛県民俗地図』P103 1981
③前出注② P103
④松山市教育委員会編『おへんろさん』P73 1981
⑤前出注④ P74~79
⑥「七人ミサキ」とは、次のような言い伝えである。「昔、和気村の坂浪部落(現、勝岡町坂浪)に、シケで難船した七人の遭難者が上陸したのだそうだ(別の古老の話では七人の遍路だったという)。ところが村人たちは海賊と思ったのか、この人たちを襲って皆殺しにしてしまった。それ以来、雨が降ると鈴の音が聞こえたり、部落に足腰の悪い人がふえたりという崇りが続いたという。また、七人で旅に出ると必ず死人が出るとも言われるようになった。」前出注④ P75~76
⑦前出注④ P75
⑧前出注④ P77
⑨前出注④ P98
⑩前出注④ P78
⑪前出注④ P81
⑫前出注④ p.78
⑬愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 民俗下』P66~67 1984
⑭前出注⑬ P67~68
⑮武田明「巡礼の習俗」(『大法輪 10月号』P133 1978)
⑯武田明『巡礼の民俗』P164 1978
⑰前出注⑮ P133~134
⑱前出注① P182
⑲前出注① P183
⑳香川民俗学会『伊吹島の民俗』P1 1991
㉑前出注⑳ P30
㉒前出注⑳ P32
㉓前出注⑳ P31
㉔前出注⑳ P33
㉕前出注⑬ P76
㉖前出注① P183
㉗荒井とみ三『遍路間會』P55 1942