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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)近代化の進展と遍路④

 (ウ)大衆化の進展と遍路

   a.観光化の傾向

 江戸時代前期の貞享4年(1687年)に出版された真念の『四国邊路道指南』は、最初の遍路案内書とされるが、明治の時代に至っても、この影響を強く受けたものが出版され続けた。明治13年(1880年)松山善之助編集の『四国八十八ヶ所道中独案内』、同年の『四国遍路御詠歌道中記』、明治17年の『明治新刻四国遍路道しるべ』などはすべて真念の『道指南』が基本文献である((78))。明治16年の中司亀吉(中務茂兵衛)編『四国霊場略縁起道中記大成』、明治25年の住田実玅(じっしょう)『四国霊場記全』、明治35年(1902年)の石崎忠八『改正四国霊場遍礼順路指南増補大成』なども、基本的な形式や内容は『道指南』を踏襲している。なお石崎の著書は、真念の『道指南』をもとに作られた洪卓の『四国徧礼道指南増補大成』の明治版といえる((79))。
 しかし遍路の大衆化が進展するにつれ、庶民の視点に合わせた、もっと詳細かつ平易で実用的な案内書が必要になってきた。その結果、大正時代の活字文化の興隆と軌を一にして、ようやく、真念の影響を離れた近代的な遍路案内書が次々と出版されるようになったのである。星野英紀氏は、昭和6年(1931年)から昭和19年まで遍路同行会が発行した月刊『遍路』をもとにして、戦前までに出された遍路関係書籍のリストを作成した。そして、「このリストを一瞥しただけで気づくことは、大正期後半から昭和初頭にかけて、かなりの数の遍路体験記・案内記が刊行されているという事実である。((80))」と述べている。こうした多くの遍路関係書籍の出版は、さらに遍路の大衆化を進め、それは同時に遍路の観光化をうながすことにもつながった。
 昭和3年当時、島浪男は、観光旅行としての四国遍路の可能性を探る試みを行った。「私の四國霊場巡拝の旅の第一目的は、今まで一部の信仰本位の旅行者だけにしか為されてゐなかつたこの旅行課目を一般の遊覧本位、観光本位の旅行者のために開拓しやうと言ふのにある。それがためには、先ず第一にこの旅行に要する日數をもう少し切り詰めなければならない。普通この旅行に要する四十日乃至六十日と言ふ長い日数は忙しい現代人のためにはあまりに超時代的な註文だ。宿も食膳に相當のカロリーがとれて、寝具にもともかく其の日其の日の疲勞が恢復される様な宿を求めなければならない。((81))」彼はこのように述べて、遍路を観光化するためには、日数の短縮、食事や寝具が満足できる良質の宿が必要であると結論づけている。そしてこの考え方はそのまま、戦後の巡拝バスの運行へと引き継がれていくのである。
 もちろん各札所も、江戸時代以来、参拝者を集めるために独自の努力を続けてはいた。その一つの事例が開帳であるが、開帳とは、期限を限って寺の秘仏を拝観させ賽銭(さいせん)(拝観料)収入を図る行事である。江戸時代、各寺院では開帳に合わせて「新田ノ四郎、猪二乗たるヲ作り、藤太が勢田ノ橋二而百足ヲ討る所」の飾り(六十番横峰寺)、「廿(にじゅう)四孝ノ竹ノ子場、加陵ひんが大でふ、照手姫、猪等」の飾り(八十七番長尾寺)など、大きな飾り物を作って展示することで華やかさを演出し、できるだけ多くの参詣人を集めようとした((82))。きわめて観光的側面の強い催しであったといえよう。
 さらに、人口の多い地域に出張して開帳を行うこともあり、これを出開帳と呼ぶ。例えば正徳3年(1713年)に八十六番志度寺では、本尊を大坂に運んで出開帳を行ったという記録があり((83))、嘉永6年(1853年)大坂の平井村(現大阪府和泉市)の羅漢寺住持ら一行の『立江寺参詣道中記』には、徳島で二十三番薬王寺の出開帳が行われているのを見かけたという記述が出ている((84))。近代に入っても、明治9年(1876年)6月ごろ、十九番立江寺が和歌山及び大阪方面での出開帳を実施したという記事が見受けられる((85))。札所にとって、信者を獲得し収入を確保するためのより積極的な方法が出開帳であった。

   b.大阪での四国八十八ヶ所出開帳

 出開帳については、昭和12年(1937年)5月5日から6月16日までの43日間、四国八十八ヶ所の全札所が大阪に集まり、南海電車沿線の助松遠州園・金剛園の2か所で大規模な出開帳を開催したことがあった。これを主催した南海鉄道から言わせると「空前にして絶後」の「大衆的宗教的行事」ということになるのだが、その詳細が『四國八十八ヶ所靈場出開帳誌』という一冊の冊子にまとめられているので、それを手がかりにあらましを見ていきたい((86))。
 この出開帳は、発案者である南海鉄道による各札所の説得からスタートした。続いて、元首相の清浦奎吾をはじめとする政界関係者や高野山管長をはじめとする宗教関係者など、多くの著名人を顧問・相談役にすえた出開帳奉賛会が事業主体として発足し、活動を開始した((87))。
 まず現地2か所に八十八の奉安所(それぞれ7坪余りの小振りの建物)を新設し、現場の建設と並行して宣伝活動を展開した。ポスターの掲示、各新聞への広告などを次々と行うとともに団体参拝の勧誘にも力を入れた。また、すべての札所の仏像(新たに作られた本尊の分身)がいよいよ入阪すると、盛大な入仏法要を営んだ後、参加者全員による練供養(ねりくよう)が催された。御堂筋を難波駅に向かう大行列は延々3町余りにわたり、まわりは黒山のような群集だったというが、当時としてはまさに大デモンストレーションだったろう((88))。
 この出開帳開催中の参拝者合計は、約20万人にのぼった。会場は大盛況で、一部にはお接待の光景も見られた。期間中には並行して、先にあげた「霊場座談会」など様々な行事が行われているが、その中でも大衆娯楽的な要素の強いものとして、「モダン巡禮競走」が開催されている。これは、映画会社のスター4名を男女ペアで二組に分けて「武蔵組」「小次郎組」とし、難波駅から同じ経路で両会場を巡拝納経して特設審査場に到達する時間を競うもので、この際、一般参拝者には予想投票をさせて賞品を出している。また、「キャバレー大市」乙女ダンスの踊り手たちによる「モダン巡禮オンパレード」と称するものも行われ、「参加約五十名綺羅びやかな百花繚爛の團體参拝は濃艶なる異風景を現出した。」と、その様子が記されている((89))。
 この出開帳における宗教的成果が実際にどのくらいあったのかはともかくとして、今まで、四国遍路の世界においてこれだけ大きなスポンサーが登場したことはかつてないと思われ、したがってこれだけ大規模なイベントが開催されたことも皆無であったと推測される。この出開帳は、社会全体が大衆化の時代へ向かう中、その流れを的確にとらえて成功させた事例であったといえよう。

<注>
①前田卓『巡礼の社会学』P126 1971
②相原熊太郎『四國遍路の話』P2 1928
③橋本徹馬『四國遍路記』P209 1950
④白井加寿志「四国遍路の実態」(『徳島の研究7 民俗篇』P247~248 1982)
⑤愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 近代上』P435 ・ 510 1986
⑥前出注⑤ P714~716
⑦愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 社会経済3商工』P497 1986
⑧星野英紀「近代四国遍路と交通手段」(『大正大学大学院研究論集 第24号』P321 2000)
⑨前出注⑧ P322
⑩今治郷土史編さん委員会編『今治郷土史 写真が語る今治 近・現代5』P156 1989
⑪喜代吉榮徳『四国遍路道しるべ 付・茂兵衛日記』P131~147 1984
⑫宮尾しげを『画と文 四國遍路』P97 1943
⑬愛媛県旅客自動車協会編集室編『愛媛県のバスとタクシーの歩み』P36~44 1963
⑭前出注⑦ P586
⑮島浪男『四國遍路 札所と名所』 P60 1930
⑯前出注⑮ P166~167
⑰中西惟浩編『四國靈蹟寫眞大歡』巻末 1934
⑱週刊朝日編『値段史年表』P118 ・ 173 1988
⑲前出注⑫ P20
⑳前出注⑮ P424~425
㉑前出注⑮ P25
㉒前出注⑫ P15
㉓喜多弘「鴨島町の遍路道」(『総合学術調査 鴨島町』 P173 1984)
㉔前出注㉓ P173
㉕とくしま地域政策研究所編『吉野川事典-自然・歴史・文化-』P16~17 1999
㉖高群逸枝『娘巡礼記』P176~177 1979
㉗前出注⑫ P31~33
㉘前出注③ P101
㉙前出注⑫ P80
㉚前出注⑤ P716~717
㉛前出注⑪ P131~147
㉜前出注⑮ P217・226
㉝前出注⑮ P302
㉞安達忠一『同行二人 四國遍路だより』P207 ・ 210 1934
㉟安田寛明『四国遍路のすゝめ』P97 1931
㊱前出注⑰ 巻末
㊲前出注⑧ P314~316
㊳前出注⑧ P314
㊴四國道人編著『四國靈場案内 第二版』P1 1925
㊵荒井とみ三『遍路圖會』P34~35 1942
㊶前出注⑫ P41
㊷前出注⑫ P42
㊸前出注㉟ P70
㊹浄瑠璃寺前住職 岡田章敬さん(大正5年生まれ)からの聞き書きによる。
㊺前出注⑮ P344~345
㊻前出注㊵ P204
㊼前出注㊵ P205~206
㊽前出注㊵ P206
㊾前出注㊵ P26
㊿前出注㊵ P27
(51)前出注⑮ P79~80
(52)前出注⑮ P171~174
(53)尾関行應『四國霊場巡拝日誌』P227 1936
(54)前出注㊵ P50~51
(55)荒木哲信『遍路秋色』P80 1955
(56)前出注③ P209
(57)前出注⑬ P178~179
(58)前出注⑬ P228
(59)四國八十八ヶ所靈場出開帳奉賛會編『四國八十八ヶ所靈場出開帳誌』P62~63 1938
(60)前出注㉞ P41
(61)前出注㉞ P355~356
(62)前出注㉞ P354~355
(63)前出注㉞ P356~357
(64)小林雨峯『四國順禮』P183~184 1932
(65)前出注① P249
(66)前出注⑰ P67・97・114・118・126
(67)前出注① P249~250
(68)前出注② P2
(69)前出注② P11
(70)喜代吉榮徳『奥の院仙龍寺と遍路日記』P22~24 1986
(71)鶴村松一編『四国霊場略縁起道中記大成』P101 1979
(72)山本和加子『四国遍路の民衆史』P216 1995
(73)前出注(72) P216~217
(74)前出注(72) P225
(75)前出注(72) P225
(76)前出注② P2~3
(77)前出注② P4
(78)愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 文学』P413 1984
(79)前出注(78) P416~417
(80)前出注⑧ P318
(81)前出注⑬ P80
(82)近藤喜博『四国遍路』P213~214 1971
(83)香川県編『香川県史10 資料編近世史料Ⅱ』P683~693 1987
(84)真野俊和「旅の中の宗教』P169 1980
(85)前出注(84) P178
(86)前出注(59) はしがき
(87)前出注(59) P1~40
(88)前出注(59) P41~58
(89)前出注(59) P59~72