データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(1)廃仏毀釈と札所①

 ア 神仏分離と廃仏毀釈

 (ア)その全国的展開

 遍路行の第一の目的は、言うまでもなく札所において読経・納経し、札を納めることである。ところが明治維新後、札所の多くが衰退し、あるいは廃寺となって一時的に消滅し、巡って来た遍路たちを当惑させる事態を招いた。その大きな原因は、この時期に出された神仏分離令とその後全国的に巻き起こった廃仏毀釈の動きに求められる。それでは、神仏分離令や廃仏毀釈とはそもそも何なのか。
 奈良時代ころから、外来宗教である仏教と日本固有の神に対する信仰を調和・合体させる神仏習合の風潮が起こり、さらに平安時代に入ると、神はもともとは仏であって衆生を救うために仮に神の姿となって日本に出現したのだという本地垂迹(ほんちすいじゃく)説が流布するようになった。これは例えば、天照大神の正体(本地)は大日如来だとするもので、この考え方によれば、いきおい神を祭る神官よりも仏をいただく僧侶の方の立場が強くなる。したがって江戸時代には、幕藩体制と結びついた寺院が、別当寺・神宮寺などと称して神社の管理を合わせて行うことが一般的だったのである。
 ところがこの状況は、幕藩体制の崩壊・明治政府の成立とともに一変した。「神仏分離は、明治政府が近代国家の出発に際して、王政復古・祭政一致の方針を取り、天皇の神権的権威のもとに神道の国教化をはかるべく最初に具体化した政策(④)」であった。そのために政府はまず、慶応4年(9月以降は明治元年[1868年])3月17日付と同月28日付の二つの神祇(じんぎ)事務局通達をもって、神道と仏教を厳密に分離することを命令した。
 前者については、神社における別当や社僧としての僧侶を否定し、彼らの還俗と僧位僧官の返上を求めたものであり、後者については、神社の由来などを詳しく調査することや神社内における仏教的要素を排除することなどを求めたものである。さらにこの実行に際して説明的・補足的命令が次々と出されたが、これら一連の命令には仏教排除の意識が見え隠れするものの、あくまでも第一義的には神仏の分離を目的としたものであった。ところがこの機会をとらえ、地域によっては、国学者・儒学者や神官を中心とした江戸時代以来の廃仏論や、かつて幕藩権力を後ろ盾にした僧侶の横暴・堕落に対する民衆の反仏感情を背景として、徐々に仏教排斥を目的にした過激な運動の様相を呈(てい)し始めた。政府は「神仏分離は廃仏毀釈に非ざる旨の達(⑦)」を出すものの、各地で、寺院の仏像・仏具の破却・焼却や寺院領に対する上知(土地の没収)、僧侶に対する還俗の強要や追放、離檀(寺院の檀家をやめること)の動きなどが起こった。これらの事柄を総称して廃仏毀釈と呼ぶのである。
 廃仏毀釈の動きは、その激しい破壊的行動については明治4年(1871年)をピークに沈静化に向かい、明治8年までに寺院の廃止・合併もほぼ終了、明治10年の教部省の廃止によってその幕を閉じた。廃仏毀釈は、「長年にわたる民衆生活と仏教とのかかわりの深さを考えると、たしかに文明開化期の旧物破壊の風潮の中での一過性の衝動的破壊現象と理解するのが至当(⑧)」だとされている。

 (イ)寺院としての所札八十八ヶ所の成立

 神仏分離と四国の札所のかかわりを見ていく際、まず挙げなければならないのは、この時に八十八ヶ所の札所がすべて明確に寺院となった点である。
 永きにわたる神仏習合の結果として、江戸時代までは四国遍路の札所についても、幾つかの札所は神仏習合的色彩が非常に濃厚だった。元禄2年(1689年)に刊行された寂本の『四国徧礼霊場記』を見ると、札所として「仁井田五社」「石清水八幡宮」「琴弾八幡宮」など神社名が記されているものがある。また近藤喜博氏は、神仏習合的色合いの濃かった札所として、一番・二十七番・三十番・三十七番・四十一番・五十五番・五十七番・六十番・六十四番・六十八番の10か所を挙げている(⑨)。
 これらの多くは神仏分離の実行に際して、従来一体のものであった神社とその別当寺がそれぞれ独立した存在として分離され、さらに、寺院である別当寺が正式な札所と見なされるようになったのである。例えば土佐の仁井田五社についてはその別当寺である岩本寺が三十七番札所となり、伊予の石清水八幡宮については別当をつとめる山麓(さんろく)の寺が栄福寺として五十七番の札所となった。同じく讃岐の琴弾八幡宮も、別当寺の神恵院が六十八番札所となった。寺院と神社の分離の動きはおおむね混乱なく進み、こうして現在のような、すべて寺院から構成される八十八ヶ所の札所が成立したのである。
 さらに、神仏分離後に起こった廃仏毀釈については、四国では民衆の暴動的運動としての廃仏毀釈は見られず、旧藩の廃仏政策も、高知藩など一部を除いては総じて穏健であった。しかし、だからといって札所を含む四国の寺院が廃仏毀釈の動きと無関係でいられたわけではなく、むしろ経済的な面を中心に、きわめて深刻な影響を受けた寺院も少なくなかったのである。そこで、今回顕著な事例を検出することができなかった徳島県を除く3県について、札所の状況を中心に整理していきたい。

 イ 四国における廃仏毀釈の展開と札所

 (ア)高知県の状況

 まず高知県について見ると、もともと江戸時代の土佐では、比較的規模の大きな寺院は檀家が少なく、藩主の保護のもとで広い寺領を得ていた。四国遍路の札所でも、堂塔が破損した場合などは、常に藩主の命令により修理が加えられていたという。
 ところが維新後、高知藩の「社寺係」となった国学者北川茂長を中心として、四国の中では例外的に、きわめて強力な廃仏政策が展開されることになった。まず明治3年(1870年)に廃仏的意図を持って、寺院から土地山林を没収し僧侶の還俗を要請する布告が藩庁から出された。さらに旧藩主山内家自身が、それまでの仏葬祭をすべて神葬祭に変更したため、菩提寺として寺領100石を有していた真如寺は住職が還俗し神官として教導職をつとめるようになり、寺は廃寺と化した。これに伴い士族のほとんどが神葬祭に転向し、庶民に対しても神葬祭への勧誘が行われ、布告によって真如寺の跡地は神式葬祭場に当てられた(写真2-1-1)(⑩)。
 このような状況の中で廃絶する寺院が続出し、土佐国内の寺院総数615のうち実に439もの寺が廃寺になったという(⑪)。四国遍路の札所については、土佐16か寺中、津照寺、大日寺、善楽寺、種間寺、清滝寺、岩本寺、延光寺の7か寺から明治4年(1871年)までに廃寺の届け出が提出されており(⑫)、届け出のない寺院についても実質的に廃寺に近いものもあった。
 さらに、明治4年に高知藩では、神葬祭を広め、あわせて廃寺となって失業した僧侶を救済するために、彼らを「神葬祭式取扱」に任命して神葬祭を行わせたが、翌5年9月には一斉に罷免した。これについて広江清氏は、「華々しく(?)開始された神葬祭式も、たいして効果があがらず、この時をもって終止符がうたれたと考えたい。(⑬)」と記しており、このころから高知県における廃仏の動きは収束に向かったと推測される。
 明治11年(1878年)に島根県から来た遍路の小須賀おもとの納経帳を見ると、そこには二十五番「旧津寺」、三十五番「旧清瀧寺」とあり、これらの寺が廃寺のままであることがわかる。三十三番は「高福寺」(雪蹊寺の古称)となっているが、ここも廃寺同然になっていたらしく、納経事務を竹林寺で代行していたようである(⑭)。これら寺院の名称が順次復活していくのは明治10年代以降であり、例えば雪蹊寺は明治12年、種間寺・清滝寺は明治13年に再興され、遅れて岩本寺も明治22年(1889年)には一応の復興がなされた(⑮)。
 興味深いのは、七十六番金倉寺において、不自由な両足が直り立って歩けるようになったという和歌山県の遍路、北岡増次の話である。明治10年のこの霊験話はたちまち四国各地に広まり、その後も遍路を続行した彼は、四国中で善根宿などの歓待を受けることになるのだが、その彼が翌明治11年に金倉寺に送った手紙には、善根宿は土佐が最も熱心なことや、土佐では位牌(いはい)を焼き捨ててなくなった家が多いので仏法のありがたさを説いて位牌を作り私戒名を授けたことなどが書き連ねられている。このことからも、廃仏毀釈の熱狂が冷めた後の反動をうかがい知ることができる(⑯)。
 廃仏の動きが収まった後も、その傷跡はかなり後の時代まで残ったと思われる。例えば、明治40年(1907年)に最御崎寺を訪れ滞在した小林雨峯は、この二十四番札所の衰退を嘆いて、自らの遍路記に次のように書き残している。「其の僧坊伽藍の荒廃衰残の状大抵の人は皆既嘆の声を洩らすのが普通である。(中略)荒廃せる坊中にあつて再興のためによく種々の困難に凌ぎつつある住僧の辛抱強きには喫驚せざるを得ないんだ。風吹き雨降りし一日、雨滴は本尊前の縁板を流れて居る。予の臥つて居る室の一角の天井板は全く傾いてしまつて、それを仰臥して見つめて居ると、将に落ちんとする状がある。杉の帯戸の向かひの座敷は全く跡形なく荒廃し戸を開く事も出来ぬ始末である。日本有数の霊場と日本有数の廃坊を余は室戸崎に於て見るのである。(⑰)」廃仏の嵐が過ぎ去っても、寺院の復興は一朝一タにはできない。明治の時代を通じ、各札所で経済的に厳しい状況が続いていたことをうかがわせる記述である。
 また、平成の時代になってようやく解決に至った「三十番札所の問題」についても、神仏分離・廃仏毀釈がおおもとの原因をなしている。江戸時代に出版された遍路関係の著作物によると、元来、三十番札所は「土佐国の一宮(いちのみや)」、すなわち高鴨大明神社(現在の土佐神社 写真2-1-2)であって、その別当寺として神宮寺と長福寺(善楽寺)が存在していたと推測される(⑱)。ところが神仏分離の布達とともに、まず神宮寺を善楽寺に合併させ、続いて善楽寺を廃寺とする措置がとられたため、かつての別当寺はともに消滅した。そこで善楽寺の本尊は二十九番国分寺に合祀(ごうし)され、三十番の納経は国分寺で兼ねることになったが、明治9年(1876年)に安楽寺(高知市洞ヶ島町)が旧善楽寺の本尊を国分寺から遷座(せんざ)してここを三十番の札所と定めた。一方、昭和4年(1929年)には一宮村の有志連中が旧善楽寺跡に善楽寺(高知市一宮)を再興して三十番札所とした(⑲)。その結果、両寺の間で三十番札所をめぐる争いが起こり、長い間、高知を訪れる多くの遍路を迷わせてきたのである。この問題は、ようやく平成6年に三十番札所は善楽寺、安楽寺はその奥の院ということで最終的に決着した。

 (イ)愛媛県の状況

   a.札所の困窮

 愛媛県における神仏分離・廃仏毀釈の動きは比較的穏健だったが、六十二番宝寿寺のように檀家を持ちながらも一宮神社と分離後に廃寺とされ、明治10年にようやく四国遍路の行者大石竜遍上人によって再興されたという事例もある(⑳)。また、上知令による寺領の没収や離檀の動きは、他県と同様に札所を経済的困窮に追い込んだ。例えば上知については、明治4年(1871年)に「社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外一般土地上知セシメ…(㉑)」という命令が出され、さらに、地租改正の際には境内付属地までを含めた上知が命令された。明治4年の旧松山藩領寺院における上知の記録を見ると、元々4町5反9畝(せ)24歩の寺領を持つ五十一番石手寺は、この時に2町8反3畝16歩減らされて1町7反6畝8歩だけが残ったことが分かる。五十番繁多寺は元の寺領が4町8反6畝1歩に対し4反8畝14歩しか残らず、五十二番太山寺も9町6反2畝1歩の広大な寺領を有しながら、結局残ったのは1町2反6畝23歩だった(㉒)。
 また、無檀家の寺は廃寺にすべしという命令が出た時、五十五番南光坊は4・5軒の家に頼んで檀家になってもらいようやく廃寺をまぬがれたといい、先にあげた栄福寺も一時無住の寺となり、新しい住職がやって来たが寄付を頼む檀家がなく、茶碗(わん)や鍋(なべ)さえ整わないという時期があった(㉓)。四十六番浄瑠璃寺では、住職が庫裡(くり)の裏を畑にして芋などを作りしのいでいたが、とうとう耐え切れず出て行って無住になったため、檀家の総代が建物を管理し、葬式や法事の際には近所の寺から僧侶に来てもらった。遍路が納経を頼みに来た時には、近所に住んでいた総代が出て行って朱印を押したという(㉔)。

   b.石鎚信仰にかかわる札所と廃仏毀釈

 愛媛県において最も大きな影響を受けたといえるのは、石鎚信仰(写真2-1-3)と密接なかかわり合いを持つ六十番横峰寺・六十四番前神寺の両寺である。江戸時代半ば以降、石鎚山の別当職を争った両寺だが、石鎚信仰に依拠していたために、神仏分離・廃仏毀釈の大きなうねりの中で、一時、ともに廃寺の憂き目を見ることになった。
 まず前神寺について、この札所の特徴は、石鎚修験道の中心的存在として古来から蔵王権現を祭ってきたことである。ところが明治3年(1870年)の神祇官通達により石鎚神社が認められ、仏像と判断される蔵王権現は祭るに及ばずとの決定がなされた。つまり、石鎚信仰における蔵王権現とそれを祭る前神寺の存在そのものが否定されたのである。これに対し住職は、権現像を山上に安置して庶民の信仰を集めるなどして行政側に抵抗したが、明治5年に寺の本堂と庫裡が火災で焼失したため、当時無住になっていた末寺の医王院に移り、権現像は封印されて地元の戸長に預けられることになった。結局、明治8年に教部省の指令に基づく県の通達をもって正式に廃寺の決定がなされ、寺側は裁判まで起こして抵抗したが決定は覆らなかった。
 しかしその後も、檀家総代から寺の存続を求める嘆願書が提出されるなど問題は収まらず、明治12年には檀家などが協議して「前神寺復旧出願」が出された。それによると、180余戸の檀徒の祖霊祭祀(さいし)に支障が出ていることや六十四番札所としての数百年来の信仰の問題などを述べたうえで、「寺号ニテ御差支ノ廉モ有之候ハバ御指揮二従ヒ前上寺ト改寺号仕候ナリトテモ再興一寺建築願ノ趣御採用ノ程奉懇願候」と結んでいる。これに対して県は「故寺号ニテハ差支ノ儀有之候条、前上寺ト称号候儀卜心得ベシ」と回答し、寺号の条件をつけて再興を認めた。そこで、現在地にとりあえず前上寺(ぜんじょうじ)という名称で再建、さらに明治22年(1889年)に前神寺の旧称に復帰して、ようやくこの問題の最終的解決を見るに至った(㉕)。
 一方横峰寺も、神仏分離に当たり石鎚神社西遙拝所横峰社となって、明治4年(1871年)に廃寺となり、その檀家は六十一番香園寺の檀家とされた。六十番札所が消滅したため、同じ小松町の平野部にある清楽寺に新しく札所が移された。したがって、さきの小須賀おもとの納経帳を見ると、六十番札所として清楽寺の印が押されている(㉖)。
 ここでも前神寺と同様に、明治10年には地元の檀家総代より横峰寺の再建願いが出されている。それによると、まず「二百三十余戸ノ檀中一同(中略)香園寺へ埋葬相頼来候共遠隔之地ニシテ実二困入り夙夜悲難仕候」と述べて、香園寺が村から遠すぎるために葬式の際などに大変困っていることを訴え、そのうえで、「一寺永世維持方法相調ント勉励シ(中略)今年二至り五百円二満ツ(中略)反別五町村中共有地二罷在候間土地上木共永世寄付仕候条偏二再建之旨奉懇願候」と結んでいる。寄付金をすでに集めたうえに村の共有地も寄付するつもりなので、ぜひとも寺の再建を懇(こん)願するというのである。こうして翌年に、ついに愛媛県令から再興を認める決定を引き出した。横峰寺は、明治13年にまず大峰寺という名称で復活し、その後の清楽寺との協定によって清楽寺は前札所ということになり、六十番札所は元に戻った。さらに明治41年(1908年)に至り、ようやく横峰寺の旧称に復帰することになったのである(㉗)。

写真2-1-1 再興された現在の真如寺

写真2-1-1 再興された現在の真如寺

高知市天神町。平成12年12月撮影

写真2-1-2 土佐神社

写真2-1-2 土佐神社

善楽寺はこの東隣に位置する。高知市一宮。平成12年9月撮影

写真2-1-3 厳寒の石鎚山を行く行者

写真2-1-3 厳寒の石鎚山を行く行者

平成12年12月撮影