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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)遍路人口の拡大

 宝暦・明和年間(18世紀の半ば)、遍路人口の増加の最初のピークが来たといわれる。その背景には、幕藩体制の安定、商品経済の発達、交通諸条件の整備、社寺参詣の庶民化など、様々な社会的条件の整備が進んだことが挙げられるのである。

 ア 初めての遍路ブーム

 (ア)遍路人の数

 遍路する人々の人数を把握することは今日でもきわめて困難である。この困難な仕事に前田卓氏は、四国霊場八十八ヶ所に残された過去帳をもとにその数量的研究を行った。この前田卓氏の研究成果は遍路人数の動向に関する著述には必ずといっていいほど引用されている。
 その一部である庶民遍路の始まりについては前述したが、過去帳の集計によると、毎年のように遍路が増加してくるのは寛保・延享・宝暦のころからであるという。その証左として、宝暦元年(1751年)、同2年には5名であった遍路が、同6年、同9年には8名になり、明和元年(1764年)にはついに二桁の数字を見ることを挙げている。そして宝暦・明和年間になると遍路が盛行した傍証として、遍路道にある丁石の設置、遍路講の発生、案内書などの出版物の盛行などを挙げている(㊲)。
 もう一つ、遍路の最初の盛行を示す裏付け史料としてよく引用されるのが、次の土佐藩『山内家史料』所収の宝暦十四年(1764年)上書の一節である。これを引用した新城常三氏の所論は次のようである。

   四国遍路は、元禄前後より表面化し、さらに過去帳によれば、その後、半世紀、宝暦・明和のころに入ると、一段の活況
  を呈し、本格化するようである。これが裏付け史料として『山内家史料』がある。『山内家史料』所収宝暦十四年
  (1764年)上書の中に、つぎのごとき土佐藩の史料を収めている。(中略)もしもこれを基準として単純に算定すれば、
  年間遍路三万六千名から四万八千名にも達するという。しかし、この間、四月・五月は農繁期で遍路は減少するのが例であ
  るが、なによりも、一日に二、三百人の基礎数値が、どの程度実勢に近いかは明らかでない。したがって、これに基づく年
  間遍路の推計は危険であるが、宝暦ごろの遍路の一応の盛況は、推測されるであろう(㊳)。

 甚だ乱暴な推計で、新城氏自身も危険であるとしているが、この上書の記述を、宝暦年間が遍路の盛況を歴史上最初に示す有力な根拠としているわけである。
 時代は下がって寛政13年(1801年)、土佐藩「寛政十三年改享和元酉春西郷浦山分廻見日記 下横目 三八」(明治大学警事博物館蔵)の中に遍路人の年間実数値が記載されていると、次のような史料が報告されている(㊴)。1日の遍路の通行数については、上記の史料と似通った数値が出ているが、「去年」すなわち寛政12年1年間の遍路の総計が21,851人、そのうち1,709人がいわゆる逆打ちの遍路であるという、実数値を示した貴重な報告である。
 従来、次に示す新城常三氏による「今のところこれ以外の方法はない」として推計された値が唯一の数字であった。それによると、新城氏は、伊予小松藩の記録『会所日記』の約40年分を分析した結果、伊予小松藩石高1万石、藩領16か村から、遍路の数1,925人以上、年平均48人を検出した。統計の残る藩領16カ村の人口は、享保11年(1726年)が11,222人、同17年が11,316人、嘉永6年(1853年)が12,793人であり、ほかに年次不明の人口13,248人、戸数2,982軒の記録がある。この割合でいくと、享保17年の戸数は2,550軒前後、嘉永6年は2,900軒前後となる。年間平均の遍路数48人を人口比で割ると、享保11年で234人に1人、同17年で236人に1人、年不明で276人に1人が遍路に出ていることになる。これを戸数率にすれば、53軒ないし62軒に1人となる。小松藩領の遍路数を仮に四国の平均値として試算すれば、四国全体の遍路数は5,000人台から7,000人台程度となろうかと推計している(㊵)。
 さらに新城氏は、四国と四国外の遍路の比率を、星野英紀氏の論文「近代の遍路」(『大正大学研究紀要』六一など)や前田卓氏の『巡礼の社会学』に求めて、それに時代や地域性を加味、修正し、推計した結果、遍路の本格化した江戸中期前後以降の年間遍路数を、15,000から21,000人前後と推計している(㊶)。そしてこの試算の数値には、さらに把握・捕捉(ほそく)しがたい乞食遍路の相当数が加算されるというのである(㊷)。
 こうしたことで、「四国遍路はことのついでに行われるものではなく、1,500~1,600kmの長い道程、心洗われるような景勝の美はあっても、目立つ観光地もなく、日々険路を歩みつづけなければならない。道路は悪く、旅宿設備も劣り、自ら食料を購入して木賃宿・善根宿で煮たきする不便の毎日で野宿も少なくない。苦行性は相当高く、伊勢参宮その他のように、遊山半分でできるものではなく、内心から湧き立つ真摯な厚い信仰心がなければ、とうてい達成できるものではない。当時の四国のきびしい交通条件を考えれば、年間15,000~20,000人前後の数はむしろ驚きに値しよう。さらに遍路には、このほか相当の乞食遍路を数えるから、実数はさらにこれを上回ることとなるのである。(㊸)」と新城氏は結論している。
 以上、新城常三氏の所論を紹介したのであるが、ほかに類書から、江戸中期に遍路の盛行期が到来していたと考える二人の説を紹介する。
 まず最初は近藤喜博氏で、先に新城常三氏が、土佐藩『山内家史料』所収の宝暦14年の上書をもとに宝暦年間に遍路が盛行し、6か月間で36,000名から48,000名との算定値が出ると述べたことに対して、「他でもない『四国徧礼道指南』が貞享4年の開版後、1年足らずして3版という事実、その後も版が磨滅する程に刷り重ね、さらに改刻して刷りつづけたという事実を背景に、宝暦年間前後の3万から5万に近い人数が、既に貞享・元禄年間には遍路していたのではないかとさえ想像される。さらにこの趨勢は、澄禅の廻っていた承応年間にあったかとも推測する。(㊹)」と述べ、遍路の盛行期の到来を貞享・元禄期以前とする見解を出している。
 次に、近年発刊された山本和加子氏の『四国遍路の民衆史』によると、「いつごろから西国巡礼に民衆が参加しはじめたのか。前田卓氏の納札調査によると、慶安期からで、50年後の元禄期に急増して最盛期を迎えた。(中略)そして四国遍路の出現もこのころから目立ち始め、西国に遅れること30年後の享保期に、ようやく最盛期を迎えるのである。(㊺)」とあって、享保期に最初の遍路ブームのくることを指摘している。

 (イ)四国遍路の出自地域

 江戸時代における四国遍路の出身地について、前田卓氏は四国霊場に残る過去帳に記載された1,071人の分析を行っている(㊻)。その結果、最も数が多かった地域は阿波、第2位が紀伊、第3位が讃岐、第4位が備中、第5位が摂津であった。続いて第6位には播磨、第7位が伊予、第8位は安芸、第9位が備後、第10位は山城であった。なお、土佐は第39位で、中国筋では周防11位、備前13位、長門18位、美作20位と続く。近畿地方では丹波12位、淡路18位、和泉18位、大和21位となり、九州では豊後14位、肥後16位であり、東国の武蔵が12位に入る。
 さらに社寺参詣史の中における四国遍路の状況について、新城常三氏の所説を以下にまとめる(㊼)。
 中世において、遍路は史料的には畿内に偏っていたが、近世に入ってから、遍路が四国・中国に集中的に見られるのは地縁的にも自然であり、その最大の源泉はまず地元四国である。次いで多いのは、中国とくに四国の対岸山陽諸国である。遍路は、四国・中国等西国を中心に行われ、東に隔たるに従い漸減し、とくに関東・東北では稀なようである。この点、同じ四国でありながら関東・東北から比較的多数の民衆が参加した金毘羅参りに比べて、その出自範囲はかなり限定される。その違いの原因としては、行程三百余里、日数40~50日前後を要する遍路の苦行性が考えられる。さらに東国民衆の四国遍路は、それのみが単独に行われるのではなくして、西国巡礼またはその他と共に営まれる宗教行為の性格が濃い。百八十八ヶ所詣(もうで)(西国三十三ヶ所・坂東三十三ヶ所・秩父三十四ヶ所の百ヶ所に四国遍路を合わせた巡拝)という当時の巡礼の最高完成形態を目ざし、実践した者が少なくない。ここに東国民衆にとって四国遍路が並大抵ではない行事であり、したがって、自ら限られた少数の真摯な道者たちによるものであったことが分かる。
 近畿・西国、特に四国・山陽地方の民衆は一般に西国巡礼と四国遍路は、行き先が別方向のこともあって、それぞれ別個に行われることが多い。九州は東国地方同様、近畿の参詣先と四国遍路とがだいたい同じ方向であるので、伊勢参宮や西国巡礼と同時に行われることが多い。四国・中国地方の民衆は近畿と四国の二度の大旅行をなし、九州の民衆は一度の大旅行で、この両者にわたっていたといえる。

  (ウ)案内記や絵図の充実

 出版物をみると、西国三十三ヶ所に関しては、宝暦・明和・安永年間には数多くの案内書や絵図が見られる。しかし四国八十八ヶ所には、この時代には、案内書や絵図はまだ数種類しか見られない。すなわち繰り返すが、貞享・元禄年間に、真念の著作である『道指南』・『功徳記』、寂本編著の『霊場記』の3作が相次いで刊行され画期となったが、元禄10年(1697年)には寂本が、『道指南』の縮小版ともいうべき『四国徧礼手鑑』を出版した。その後、宝暦2年(1752年)に『霊場記』が再版されたようである。
 そして、宝暦13年(1763年)、但馬国の人、細田周英敬豊による『四国徧礼絵図』が大坂柏原屋から印行された。以下、前田卓氏の『巡礼の社会学』と近藤喜博氏の『四国遍路研究』によるこの絵図の解説を要約すると次のようである(㊽)。
 この絵図は各霊場の道順や里数を詳細に図示したもので、これが四国霊場の地図としては現存する最古のものであり、また最もすぐれた地図であるといわれる。地図の大きさは、縦58cm、横92cmである。絵図の正面には「四国徧礼之序」として、高野山の沙門弘範の記文があり、「夫レ四国徧礼ノ密意ヲ云ハハ四国ハ大悲胎蔵ノ四重円壇二擬シ(中略)仍テ八十ノ仏閣是二況ス(中略)更二八ヶノ仏閣ヲ加工八十八ト定メ給フ(中略)宝暦第十三孟春八日、野山前寺務八十四老翁弘範記」とある。この文章の周囲を取り巻く各霊場の間に書かれてある里数はかなり正確である。さらに、地図の左下隅には、製作者である細田周英の次のような文章がある。「高野大師、讃州に御降誕在し二より、讃阿土予一州の四国に、法花の著しき事、非情の木石にも余れり、周英、延享四年の春、真念の道しるべを手鏡として、大師の遺蹤を拝礼せしに、西国卅三所順礼等には絵図あれとも、四国徧礼にはなきことを惜しんで、畧図となし、覚峰阿闍梨御徧礼にかたらひ改めて、一紙して細見図となし、普く徧礼の手引にもなれかし、と願ふものそかし、宝暦十三ひつし春、但陰、細田周英敬豊」とある。すなわち、細田周英が延享4年(1747年)の春に、真念の『四国遍んろ道しるべ』(『道指南』)という本を所持して、四国霊場を巡拝したが、その際に、西国三十三ヶ所には絵地図があるが、四国遍路には未だ地図がないことを残念に思い、遍路の手引のためにこの地図を作成しようとしたという製作の意図を述べていた。
 案内書としては、かつての真念の同志である洪卓が、真念の『道指南』を増補改編して『四国徧礼道指南増補大成』を開版した。その初版がいつ出されたのか明らかではないそうだが、再販本の刊記には明和4年(1767年)とあることから、おそらく明和に入ってからであろうといわれる。以後この本は分かっているだけでも、文化4年、同11年、同12年、天保7年などと刊行が続けられ、真念の『道指南』、洪卓の『四国徧礼道指南増補大成』の系統の本が、四国遍路案内書の主流を占め、後世にまで大きな影響を与えるのであるという(㊾)。
 なお、四国遍路関係の絵図についてはその後いろいろ刊行されてきたようで、昭和48年(1973年)、岩村武勇氏がその所蔵する各種の四国八十八ヶ所地図を複刻した、『四国遍路の古地図』を出版している。それには24点の地図が収録されている。このうちの1点、文化4年の大坂書林の佐々井治郎右衛門版『四国徧礼絵図』と、愛媛県一本松町郷土資料館蔵の『四国徧礼絵図』とを比較検討した喜代吉榮徳氏の論説がある。喜代吉氏はその結論として、両絵図の図中の様子から、この絵図は初版の柏原屋版から佐々井治郎右衛門版へ、佐々井治郎右衛門版から一本松町郷土資料館蔵版へと変化していることを突き止め、模刻版が作成されて販売されていたと述べている(㊿)。当時の出版・販売の様子が垣間見えて興味深い。

 イ 遍路屋・善根宿の普及

 (ア)遍路屋

 四国遍路に役立つ交通施設の一つに無料宿泊所の遍(辺)路屋、遍路家、遍路宿などとよばれるものがある。これは、古代の布施屋にさかのぼり、さらには中世の旦過庵・接待家等にもつらなるものといわれ、必ずしも近世特有のものではないという。またこうした無料宿泊所は近世において四国以外にもあるが、各地に数多く広範な社会施設となっている点は四国特有のものといえる。四国遍路の接待、とくに遍路屋の起源は明らかでないとする((51))。
 真念の『道指南』の遍路屋までは前述した。『霊場記』には、阿波地蔵寺境内図に遍路庵と遍路屋がそれぞれ一軒、伊予横峰寺の境内にも一軒の長屋風の遍路屋が描かれている。伊予の石清水八幡宮の項に、「浄寂の比丘軌幽一堂を立、遍礼人の寄宿とせり」とあるのも一種の遍路屋であるとみられている。このように遍路屋が各地に設置され、遍路に役立っていたようである。その後の遍路屋またはそれに準ずる施設について、新城常三氏は次の箇所を記している((52))が、そのうえで実際の数はかなりのものになるであろうと述べている。「讃岐丸亀西平山(元文5年建立)、土佐高知細工町(延享4年の記載)、阿波柳ノ水(明和4年の記載)、伊予吉田領則村(明和5年建立)、伊予土(鳥)坂の庵・同大洲先の春松庵・土佐入木村仏海庵・同六十六番先の庵・同二十番茶堂(以上寛政12年の記載)、伊予浮穴郡土井村平木茶堂(文化11年の記載)、伊予上野村(天保年間の記載)、伊予国分村(宝暦9年の記載)」
 しかしその後、遍路屋は一般の遍路からは次第に敬遠され、主として特殊な遍路のために施設化したようである。後述する江戸中期・後期に書かれた遍路道中記の筆者である庄屋たちは、村堂はもとより遍路屋その他の公共施設を利用した形跡はほとんどない。彼らを遠ざけたのは、遍路屋が往々にして、行路病者の収容所を兼ねていたことにある。遍路にはもともと病人が多いうえ、長途の旅で病気になり易く、とくに零細民や乞食が多いので、病人の出る可能性が高い。病気遍路に対して、藩や遍路道沿いの郷村では、それぞれ対策を講じているが、幕末から明治初年ころに、小屋を建てて彼等を収容した土佐安喜郡川北村や伊予野間郡県村等の方法が一般的であったであろう。このような病気遍路の収容所の一つが遍路屋であったのである。その例として次のようなものがある((53))。

   ① 貞享4年(1687年)、土佐の市野瀬村道路で発病の遍路を、同村の遍路屋に収容する((54))。
   ② 元文5年(1740年)、讃岐の丸亀藩領西平山に遍路屋を設置、「丸亀藩定目」規定中に遍路病気、遍路屋での死者
    取り扱いの項がある((55))。
   ③ 明和5年(1768年)、伊予吉田藩領の宇和郡則村に遍路屋を設置、送り遍路(村継ぎで送られる重病の遍路)が悪
    病の場合に一般人家に宿泊が困難のためとする((56))。

 以上のように、無料宿泊所としての遍路屋は、また行路病者収容所として、一般の遍路にはともかく、貧窮の遍路・乞食遍路・病気の遍路等の社会的に弱い人々に役立つところは少なくなかったものと考えられている((57))。

 (イ)大師堂や村堂

 遍路の案内記や道中記には、遍(辺)路屋のほかに大師堂をはじめ種々の堂宇が登場してくる。そうしたものが存在するわけは、はなはだ多様なようである。新城常三氏は、これらの施設を遍路との関係で次のようにとらえている。

   遍路の宿泊に供される辺路屋・茶所・茶堂には、中に弘法大師を祀り、大師堂の形式をとるものが多いが、そのほか観音
  堂・薬師堂と同様、本来宿泊と無縁な村堂として純粋な大師堂もまた非常に多い。四国の大師堂にはこの二つがあるが、そ
  の区別は容易ではない。しかし、これらの村堂は四国以外でもどこでも求道者や貧しい旅人の仮の宿あるいは野宿として利
  用されているように、貧しい遍路もまた大師堂そのほかの村堂を一夜の宿とすることの多いのは疑いない。辺路屋の大師堂
  は、村堂の大師堂よりやや大きいという程度であろうが、宿所としての粗末さは余り変わらなかったであろう。とすれば、
  道中記を残すような健全な遍路が、村堂はもとより辺路屋を避けるのは自然であろうし、辺路屋等の公共施設は村堂等と同
  様、主として、貧しい遍路・乞食遍路等のためのもののようである。さらに辺路屋は無料宿泊所であって、食事の恩恵に浴
  し得ないのが通例である((58))。

 (ウ)善根宿

 「(四国遍路の)接待は、一般に積極的な物品の供与を指し、宿泊の積極的提供は接待といわず、普通善根・善根宿等というようである。四国遍路の接待のごとく、旅人の乞いをまたずして、積極的に援助することは、近世前には明証に乏しいが、おそらく、その歴史には古いものがあろう。((59))」と、新城常三氏は述べる。
 では遍路への接待は、いつころから始まるのか。元禄前後の状況を見ると、善根宿や接(摂)待の記録の初見は、最古の遍路日記に属する澄禅の『四国遍路日記』であるという。これについては前項で触れた。
 次に貞享4年(1687年)の真念『道指南』には、宿を貸す人名が二十余か所に記されている。記載には、「○きゝ浦、清左衛門やどをかす。」「○かげの村、武兵やどかす。」などと単に宿主名のみを記したのが大半で11か所ある。そのほかに、「○くほ河村、此町しもゝと七郎兵衛宿をかし、善根なす人あり。」とか、「志ふかき人」とか、「志あり」とか、などと宿主に付けられている。しかしながら、接待または善根宿に関して、具体的に知られるのは、ようやく江戸中期以降、とくに後期に入ってからである((60))。
 真念にあっては長期にわたる遍路の間には、ただ一度だけの遍路の澄禅とは異なり、善根接(摂)待の宿は少なくなかったと思われる。そうした宿の話は『功徳記』にも多くのせているのである((61))。その例としては、「十一 阿州海部郡ひわさ浦の内田汲村の又十郎夫婦の話」、「十九 伊予国越智郡今治内の余村の治右衛門の話」、「二三 伊予国宇和郡下村のこん屋庄兵衛の話」などの善根宿の話がある。

 (エ)木賃宿

 新城常三氏は、四国遍路の特有性である遍(辺)路屋・善根宿を論じた後、四国では、江戸中期以降に見られるようになる木賃宿(きちんやど)などの営業宿について、次のように述べている。

   一般に四国遍路の民家・宿屋への宿泊形態は食事抜きの木賃形式が支配的である。すなわち東海道その他と異なり遍路の
  宿賃は必ずきちんと誌されているが、文政2年(1819年)土佐の遍路が金毘羅町に来て、「紅葉や茂八方二家ヲかり、辺
  路の事なれハ、木賃二而米ハ買入」とあるのは、食事つきの旅籠屋に泊っても、遍路は木賃で泊まるのが常道だという意味
  である。このような遍路の一般宿泊形式から、行路病者等は別としても、辺路屋では宿泊のみで食事は出さぬのが通例だろ
  うから、ただ木賃が助かるのみである。しかるに木賃は一般に極めて低廉でわずかに7・8文程度であるから、一般の遍路
  には、これを節約する経済的理由はほとんどない。
   近世中期以降には、民家は比較的容易に宿泊所として求められ、さらに木賃宿も増え宿を探す苦労は少なくなったのであ
  る。天保7年(1836年)松浦武四郎の『四国遍路道中雑誌』によると、茶堂・大師堂のほか、止宿よしと記された色々の
  営業宿が至るところに設けられていることが分かる。その一つは茶屋で、寺門前町のみならず各地にある。しかも止宿によ
  しと宿泊に適した茶屋だけでも、少なくとも36か所数えられるのである。一般遍路は、あえて遍路屋に泊るまでもなく、
  ただ行き着いた所で適当な宿所を求められない場合に、それが利用されたに過ぎないのである((62))。

<注>
①新城常三『新稿社寺参詣の社会経済史的研究』 P1025~1026 1982
②真野俊和『日本遊行宗教論』 P118 1991
③前出注② P119~120
④近藤喜博『四国遍路研究』 P273 1982
⑤前出注④ P273~279
⑥前出注④ P208~209
⑦越智通敏「解題」(伊予史談会編『四国遍路記集』 P321 1981』)
⑧遍路は歴史的には「辺路」と書くのがもっとも一般的な用字法であるが、寂本はこれに今日通常つかわれる「遍路」のほかに「遍礼」「徧礼」などの字をあてた。「礼」の字をもちいるところに、彼の(弘法大師に対する)意識がうかがわれよう。〔真野俊和『日本遊行宗教論』 P144の注(15)より〕
⑨前出注② P120
⑩前出注⑦(伊予史談会編『四国遍路記集』 P322)
⑪寂本『四国徧礼霊場記』(伊予史談会編『四国遍路記集』P120 1981)
⑫前出注② P128~129
⑬前出注② P120~121
⑭前出注② P130
⑮前出注② P120
⑯白井加寿志「四国遍路『八十八か所』起源考-付 その奉唱歌起源考-」(高松市立図書館編『郷土文化サロン紀要』第1集 P23 1974)
⑰真野俊和「聖蹟巡礼の研究成果と課題」(『講座日本の巡礼 第2巻 聖蹟巡礼』 P307 1997)
⑱前出注② P122~127
⑲真念『四国邊路道指南』(伊予史談会編『四国遍路記集』 P73 1981)
⑳前出注④ P194~195
㉑(建設省計画局地域計画官・建設省四国地方建設局企画部『四国のみち保存整備計画調査報告書要約』P18 1979)では約1,126km、(宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人・別冊』 P93 1997)では約1,146kmとする。いずれも国土地理院二万五千分の一地形図による測定である。
㉒澄禅『四国遍路日記』(伊予史談会編『四国遍路記集』 P66~67 1981)
㉓大淀三千風『四国邊路海道記』(大橋乙羽校訂『帝国文庫 校訂紀行文集』中の『日本行脚文集 巻之五』 P551 1902)
㉔前出注㉒(伊予史談会編「四国遍路記集』P67)
㉕前出注⑲(伊予史談会編『四国遍路記集』P115)
㉖前出注④ P196~198
㉗九皋主人写『四国遍礼(八十八ヶ所)名所図会』(伊予史談会編『四国遍路記集』 P235~262 1981)
㉘前出注④ p. 222~223
㉙前出注⑩(伊予史談会編『四国遍路記集』P78)
㉚前出注⑩(伊予史談会編『四国遍路記集』P88・93・95・97・99)
㉛前出注④ P260
㉜前出注㉒(伊予史談会編『四国遍路記集』P52)
㉞前出注⑲(伊予史談会編『四国遍路記集』P92)
㉟前出注⑲(伊予史談会編『四国遍路記集』P94)
㊱前出注④ P243~244
㊲前田卓『巡礼の社会学』P105 1971
㊳前出注① P1028
㊴喜代吉榮徳「資料遍路人数」(喜代吉榮徳『四国辺路研究第2号』 P7 1993)
㊵前出注① P1029~1031 ・ 1045
㊶前出注① P1047~1048所収の注(64)による。
㊷前出注① P1043
㊸前出注① P1043
㊹前出注④ P280~281
㊺山本和加子『四国遍路の民衆史』 P90~91 1995
㊻前出注㊲ P158~159
㊼前出注① P1032~1042
㊽(前出注④ P242)及び(前出注(㊲) P106~107)を参考にした。
㊾前出注⑦(伊予史談会編『四国遍路記集』 P324)
㊿喜代吉榮徳「いわゆる『四国徧禮』絵図について」(喜代吉榮徳『四国辺路研究 第4号』 P14~23 1994)
(51)前出注① P1071
(52)前出注① P1098~1099所収の注(13)による。
(53)前出注① P1075~1076
(54)「幡多郡工事訴諸品目録」(高知県編『高知県史 民俗資料編』 P1152~1153 1977)
(55)(丸亀市史刊行頒布会編『丸亀市史』P56 ・ 86 1953)及び(香川県教育委員会編『新編香川叢書 史料篇(一)』 P1053 1979)による。
(56)愛媛県史編纂委員会編『愛媛県編年史 八』P46~47 1974
(57)前出注① P1077
(58)前出注① P1075~1076
(59)前出注① P1077
(60)前出注① P1077~1079
(61)前出注④ P238
(62)前出注① P1076~1077