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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)元旦と飾り

 ア 門(かど)松としめ縄

 正月の祝いに松を門前に飾る。歳神様(としがみさま)をここに迎えて祭るというならわしで、その起源は中国にある。また、松は長寿の意味があり、「千歳(ちとせ)を契(ちぎ)る」めでたい植物として、年の初めを飾ったものである。『堀河院百首』(平安初期)に「門松をいとなみたつるそのほとに春明がたに夜やなりぬらん」とあることから、日本での始まりは相当古いようである(①)。
 越智郡内の大三島・伯方島・大島などでは、門松としてクロマツとアカマツが使われ、枝が3段になっているのを縁起がよいとしている地域もある。概して奇数が好まれるが、これは奇数を陽(よう)とする古来の考え方によるのであろう。
 門松は神の依代(よりしろ)として用いられている。植物に神が宿るという考え方は、玉串にサカキ(榊(さかき))が使われたり、大楠を神木としてあがめたりすることと共通している。植物に神秘的な力があるとして、おそれ敬(うやま)う考え方も古くからのものである。
 門松として用いられるクロマツやアカマツを、割木(わりき)の中に立てるが、表玄関に立てるところ(大三島町明日(あけび))、裏門に立てるところ(大三島町肥海(ひがい))など地域によって違いがあるが、ほとんどは玄関に立てる。
 門松には、神の依代としての神霊が降臨してこずえに宿り、家族の災を祓(はら)い、農作物の豊作を約束するものと昔から信じられてきた。芸予諸島の島々でも、長い間、この門松が用いられてきたが、昭和28年(1953年)頃からの門松廃止運動(山林資源保護)、昭和48年(1973年)前後のマツノザイセンチュウによる大量の松枯れ病によって、門松が一挙に用いられなくなった。
 しかし、最近の歴史ブーム・風俗習慣を見直す運動が町づくり・村おこしと相まって、にわかに復活した感がある。時代の流れが量から質に転換し、「たたずまい」や「品格」が重視されるようになって、門松も今や家を飾る重要なアクセサリーとなってきた。とはいえ、山野から松が手に入りにくくなったため、大型の立派な門松は商店街や役場のような一部のところでしか見られない。一般の民家では、小枝をびんに挿すか生花に用いて、正月の雰囲気を盛り上げる程度が多い。
 しめ縄は、玄関や井戸に飾るものと、家の中に飾るうちかざりに分かれる。今は井戸がほとんどなくなり、井戸のしめ縄は見られなくなったが、それに代わって、最近は、自動車の前部に輪飾りをよく見かける。玄関でも市販のものを使う家庭が多くなってきた。
 しめ縄は、その年に取れた稲わらで作る。多くは右なわにない、7筋、5筋、3筋ずつ端を垂らしているため七五三縄(しめなわ)とも書かれる。
 元来は、悪鬼を縛(しば)るための縄であり、門前に掲げて、悪鬼が家に侵入するのを防ぐためのものであった。我が国では、米のもつ呪(じゅ)力を利用して、稲わらを使うようになった(②)。
 しめ縄に着けるウラジロは、冬でも新芽を出して上に伸びていく。その勢いのよいことにあやかって、家運長久を願ったものである。葉の裏面の白い方を外へ向けるのは、その殺菌力・防腐力から家族の健康維持を願うためであろう(③)。

 イ 供え物とうち飾り

 三方(さんぽう)に鏡餅を載せて床に供える。シダ植物のウラジロ(大三島・伯方島)やコシダ(伯方島・大島)を、鏡餅に敷くか、大小2個の鏡餅の間に挾む。鏡餅の上にミカンの仲間のダイダイを葉付きのまま載せる。
 ウラジロが使用される理由は前述のとおりであるが、ダイダイを餅の上に載せるのも、代々栄えるという縁起をかついたものと考えられている。
 鏡餅は神の霊魂を形どって丸く作られ、年玉すなわち年霊(としだま)であると考えられている。芸予諸島では、鏡餅以外に小さい丸餅を沢山作り、雑煮(ぞうに)にして神前・仏前に供えた後、家族が揃って食べる習慣がある。これをいただけば、神より生命力を与えられ、その1年を健康で過ごせ、五穀豊じょうになると信じられてきた。
 床の供え物のほか、座敷の上部に神棚を設けてお棚と呼び、しめ飾りや供え物をする風習がある。
 大三島町宮浦では、床の上のしめ縄の端にダイコンを3本つるし、わらすぼの中に魚の干物を入れる。同町明日では、わらを編んでイワシの形にしたものの、ひれに当たる所ヘイワシを入れる。そして、ダイコンを5本・カキ(柿)・ウラジロを重ねる。大島では、わらすぼの中にいりこを入れる。他の地域では、タイ・串柿・ダイコン・稲穂を供える所もあったが、近年はこの〝お飾り〟が少なくなってきた。
 一方、うち飾りで鏡餅を神に供える習は根強く残っている。古来、神前に海の幸・山の幸をお供えする風習は、水産物や農産物の豊漁・豊作を祈る儀式として行われてきたが、化学肥料の普及や栽培・養殖技術の発達に伴って、自然の脅威をまぬかれるようになるにつれ、素朴な「祈り」や自然に対する「おそれ」は稀薄になりつつあるものの、家内安全と五穀豊じょうを願う伝統的行事は依然根強いものがあり、農耕文化を立派に伝承しているようである。
  
 ウ 若水(わかみず)

 水道の蛇口から水を得るようになって、「若水汲み」は見られなくなった。それでも、元旦の朝は、すがすがしい気持ちになって、男が一番水をとる風習が残っている。「福汲む、徳汲む、幸い汲む」と心に念じながらである。
 「若水」は、平安時代に主水司(もいとりのつかさ)が、立春の日に天皇に奉った水のことであるが、昭和の時代には、年男が元且の早朝にはじめて汲む水を、歳徳神(としとくじん)(歳神さま)に供えることをいうようになった(③)。
 生活に欠かすことのできない水も、島々では共同井戸が多く、その運搬の苦労もさることながら、水質・水量とも、今では想像できない程悪く、島の人々にとって水は悩みの種であった。個人井戸の時代になっても、何度か水枯れを経験した島にあっては、水は極めて貴重で、生活用水の確保は人々の祈りでもあった。後述のように、芸予諸島全域にわたって水の安定確保が約束されるに至ったが、水に感謝する「若水」の心を忘れてはならないと島のお年寄りは力説する。