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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)中世の開幕と伊予水軍の登場

 ア 河野水軍の活躍

 歴史上、組織的な伊予水軍が登場するのは源平争乱の時である。伊予国では治承5年(1181年)、河野通清(みちきよ)が高縄城で反平家の旗をあげ、伊予国内の平家方を攻撃したが、備後の西寂(さいじゃく)ら平家軍によって敗死した。河野通清の子、河野通信は、軍船の操縦に優れた一族の水軍を率いて源氏に味方し、寿永4年(1185年)屋島・壇ノ浦の戦いで、平氏滅亡に貢献した。平家物語は「伊予国の住人 河野四郎通信も百五十艘の大船に乗り連れて漕ぎ来り、これも同じように源氏の方へ附きければ、平家いとど興ざめてぞ思はれける。」と河野水軍の活躍ぶりを記している。河野氏は水軍の弱体な源氏を助け、平氏を滅亡させた功績により、幕府から守護と同等に伊予国東中予地方の御家人32人を統率下に置くことが認められ、伊予国の御家人の中心となって武士団を組織し、勢力を拡大した。
 島々の御家人では、大三島の大山祇神社の神官大祝(おおはふり・おおほうり)氏や、忽那島の荘官忽那氏が地頭として成長し、水軍を率いて各地域に支配を強めた。
 次いで、伊予水軍が中世の檜舞台に登場し大きな足跡を残したのは、元寇における河野通有(みちあり)の奮戦であった。「予章記(*5)」によれば河野通有は文永の役(1274年)(第1回蒙古軍襲来)の後、蒙古軍の上陸を阻止するために築いた石塁を背後にして陣を布き、なぎさで蒙古軍を全滅せんとした。この勇ましい陣立ては「河野の後築地(うしろついじ)」と後世までたたえられた。更に、「八幡愚童記(はちまんぐどうき)(*6)」によれば弘安の役(1281年)では、来襲した博多湾の蒙古の軍船に対し、2艘の兵船でもって奇襲攻撃を加え、撃破するという勇猛ぶりを発揮し、伊予水軍の名を高めた。この戦功により、承久の変で一時衰退した河野氏の勢力を復活させ、再び家名をあげる機会となった。
 その後、通有の子通盛は南北朝争乱の際、河野水軍を率いて足利尊氏を助け、建武3年(1336年)兵庫和田崎の合戦で、新田義貞・楠本正成らを撃破した。高名をあげた通盛は東中予にわたり河野氏の勢力を拡大し、根拠地を高縄城から湯築城へと移して繁栄時代をつくった。
 
 イ  忽那水軍の活躍

 忽那諸島は、伊予灘から釣島水道や津和地瀬戸など各瀬戸の急潮に囲まれ、瀬戸内海の横断ルートと縦断ルートの要衝に位置している。忽那島(中島町)は奈良時代から開発され、平安時代には公認の牧場がおかれ、牛馬が飼育されていた。平安末期には後白河法皇の長講堂領が設けられ、忽那氏が荘官として実権を握った。次いで、鎌倉幕府からは地頭職を安堵(あんど)(土地の所有権が承認される。)され、御家人として忽那島の支配が認められた。忽那島神浦(こうのうら)を拠点とした忽那氏が、歴史上ハイライトを浴びるのは南北朝動乱期であった。すなわち、忽那重清(しげきよ)と弟義範(よしのり)は元弘の乱(1331年)に際して、後醍醐天皇の討幕の綸旨(りんじ)(天皇の命令を伝える文書)に応じて、伊予本土の土居通増(どいみちます)・得能通綱(とくのうみちつな)らとともに挙兵した。
 1333年の討幕後成立した建武新政府は、建武3年(1336年)内部矛盾によって、わずか3年足らずで崩壊し、全国の武士は再び南朝宮方と北朝武家方に分かれ、半世紀に及ぶ南北朝争乱が始まった。
 忽那義範は忽那七島を基盤に勢力を拡大し、熊野水軍とも提携して、瀬戸内海における南朝方の有力な存在となった。南朝方は、瀬戸内海の制海権を掌握して退勢のばん回を図るため、延元4年(1339年)(一説では延元2年1337年)後醍醐天皇の皇子である征西将軍懐良親王(かねよししんのう)が忽那島神浦に来島した。懐良親王一行12人は滞在3年で忽那島を離れ、九州の南朝方の統率に向かった。
 その間、義範は忽那水軍を率いて、1339年周防国大島の加室(かむろ)合戦で北朝方と戦い、次いで1348年北朝方の拠点讃岐国の塩飽島を攻撃して占領した。更に、翌1349年には周防国の屋代島に攻撃を加えた。このように忽那水軍は瀬戸内海一円にわたり、海上ルートの要地を狙って活動し、一時期瀬戸内海の制海権を掌握する勢いを示した。
 また、水軍を率いて活躍した南朝方の武将としては、大三島の祝(ほふり・ほうり)安親(やすちか)や因島の村上義弘などがあげられる。なお、忽那氏は義範以後は一族を率いる強力な後継者に恵まれず、辛うじて河野氏の家臣に連なり衰退の一途をたどった。かつて、瀬戸内海の一方の旗頭であった忽那水軍の勢力も戦国時代には村上氏や二神島の二神氏に移っていった。


*5 河野氏歴代の事蹟を編年体にまとめた記録。15世紀後半ころ成立。
*6 八幡神の神徳を子供に教える目的で平易に書いたもので、元寇の貴重な史料。室町時代成立。