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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)塩田の浜大工として

 越智郡伯方町有津(あろうず)の**さん(大正9年=1920年生まれ、71歳)と**さん(明治44年=1911年生まれ、80歳)は塩田廃止まで浜大工(はまだいく)(流下式塩田になってからは塩田主任)として、伯方塩田で働いて来られた。お二人の話をもとに、塩田当時の浜子の人々の生活をまとめてみた。

 ア 塩田で働き続けて

  ① 塩田労働のしくみ

 「私も高等小学校を卒業した昭和12年(1937年)から、伯方の古江浜で『初炊(はつかしき)』として働くようになりました。当時の古江浜では、1塩戸ごとの面積により、それぞれの浜を『特大(とくだい)』(2町2反以上)『大浜(おおはま)』(2町2反末満、1町8反以上)『中浜(なかはま)』(一町8反以下)と分けとりまして、『特大』で5~6人『大浜』で4人『中浜』で3人の浜子がいました。他に『持ち浜』のときに寄子(よせこ)を3~4人集めます。1塩戸ごとの浜の責任者が『浜大工』です。『中浜』ですと大工と頭(かしら)、甫(はなえ)の3人が働くわけです。
 塩田の所有者は『浜旦那(はまだんな)』(浜地主)と言いまして、戦前も戦後も余り代わっておりません。大島出身の人が多く、専売制で国が権利を保障してくれますから、よい財産じゃったと思います。浜旦那が浜大工を雇い、浜大工が他の浜子を雇うようになっとりました。当時はそんなに働き口がなく、浜子になろうとする者は多かったのですが、やはり浜大工の知人や親戚が中心だったです。それで、浜子になるには誰かの口ききが必要で、そんなことから年配の熟練した浜大工さんは大きな力を持ってました。また浜大工の力量一つで塩の生産量が違ってきますんで、生産の少なかった浜大工がくびになることもありました。『炊(かしき)』になったころ(昭和12年)は1塩戸に1つ鉄釜があって、『せんごう』をしていましたが、昭和15年に製塩工場で合同せんごうをするようになって、それまでの釜たきの仕事もなくなりました。それから後は、各上手に18kℓ入りのタンクを置いとって、それに『かん水』を入れて、浜大工立会いで塩業組合の人が『ボーメ度』(濃度数)を計ってから製塩工場に送るようになったわけです。その場合も、『かん水』の濃度によって賃金が違ってくるので、浜大工の仕事の大変さは変わりはありません。
 合同せんごうになるまでは、各浜に集積場の小屋があって、塩業組合から通知があると浜の人が集まり、やってきた『うわに(上荷船)』に積み、専売公社に着くと『なかせ(仲士)』に揚げてもらっていました。その際には、受渡しの時間に浜大工が行って、専売公社で検査を受け、納入書を浜大工が受け取ります。お金は専売公社から伯方塩業組合を通じて浜旦那に渡され、浜旦那から浜大工に賃金が渡されます。ただ塩業組合で納人書を計算して賃金をだしますから、給与面での浜旦那との結び付きはそれほど強くなかったです。」

  ② 修業時代

 「私の父は石工でしたが、兄弟2人とも塩田で働きました。小学校の同級生で10人の内6~7人は塩田に入ったんじゃないでしょうか。残りの者は船乗りか石工で、百姓を継いだ者は、非常に少なかったように思います。戦前で初炊の給金が船の機関長とそう変わらず、伯方島の中では収入のよいことから、浜子になる者が多かったのでしょう。
 休みは年末節季の27日から正月10日までの15日間で、後は年間休みがありませんでした。雨が降った日が休みといえば休みです。戦前は浜子の大部分は浜の小屋で寝泊まりしていましたが、通いの者もいくらかおりました。初炊として入ったころの仕事は、食事の準備と、作業に使う『もっこ』や『あてこ』を編んだり、釜屋の石炭のかすを捨てたりするものです。戦前までは炊が炊事をやっておりましたが、戦争が激化して配給になると、米は各自で持ってくるようになりました。人よりは30~40分早く起きて、朝の1時過ぎには目を覚まして茶を沸かし食事の準備をして、朝の3時には仕事を始めることになります。体力はそう変わりませんので、浜に出ると他の浜子と同じ仕事をやっていて、見様見真似で仕事の内容は覚えていきます。初炊→二年炊→甫江(はなえ)→差(さし)とおおむぬ1年ごとに昇進していきました。大工と炊以外はあまり仕事の上での差はなく、どちらかと言えば体力のある者が大きな顔をしていました。ただ浜大工にだけはなかなかなれなかったです。1年間の浜持ち日(作業日)は180日位だったと思います。雨で仕事が少ないときには、小屋にみんなが集まっていろいろ楽しみました。雨の日には映画に行ったりすることもあったです。」

  ③ 浜子時代

 「昭和16年に召集となり、善通寺の39部隊に入営しまして、3年間兵役につきました。しかし勤務要員、教育要員として前線には行かず、将校下士官集会所に所属して、新兵の訓練に当たりました。戦争が激化してきた昭和19年末に復員できたことを含めて、塩業が国の重要産業であったので、そのような配慮があったのじゃないかと思います。塩田作業のおかげで体力があり、軍隊で特に辛いことはありませんでした。一日中にわたる訓練の最後で、立っとるのは私と中隊長だけということも何度かあったですが、浜で働くことに比べたらしんどいことはなかったです。
 昭和19年末に復員してから『頭』となりました。内地に帰ってからは食物がなく、少しばかりの畑で自給しました。昭和20年に結婚しましたが、当初はなべ・かまさえない耐乏生活で、本当に大変だったです。昭和26年に31歳で浜大工となりました。当時は人が余っている時代で、なかなか浜大工にはなれませんでした。同年齢で何人かなっている者はおりましたが、年齢としては早い方であったと思います。浜大工への昇進は、ふだんの働きぶりを見て浜旦那が抜擢します。浜大工間や塩業組合での評判も大きく左右し、とにかく人より早く起きて一生懸命働いておることが大切でした。浜大工の間でも、あそこの誰々はまじめで働きがええというので、他の浜の浜子の引き抜きをやることも結構あったです。私が浜大工になれたのは運が良かったと思います。それまでに比べ、大工の賃(金)がよくて、生活は少し楽になりました。」

  ④ 浜大工として

 「浜子の労働は前に述べた通りですが((1)のウ参照)、その中で浜大工が必ずやるのは『潮(しお)かけ』『かぶ土(つち)より』『沼井(ぬい)への海水注入』です。これらの作業はどれも熟練を要するもので、その浜の潮のとれ高に影響しますので、浜大工が直接やるわけです。また一番肝心なのは『潮(しお)まり』(浜溝)への海水の入れ加減です。夕方に『ダボ』(海水溜り)から『潮まり』に海水を入れていくわけですが、風が吹きそうだと足して、風が凪(な)ぐようだと海水を減すなど、(風や温度・湿度による蒸発量を考えて)浜が乾きすぎないように、湿らしすぎないように調節しておかねばなりません。また雨が降りそうな時には特に地場を湿りすぎないようにしておかないと、地場が荒れてしまいます。そのためにも天候をしっかり予測して、夜もおちおち眠らんくらい、『潮まり』の海水の入れ具合を考えておかないといかんのです。天候については、私は『山の切れ目に薄雲がかかる』『金ヶ崎(かんざき)から風が吹く(伯方の地名で古江塩田からは東=東風(こち))』『庭がじっとりする』と雨になると判断してました。次に大切なのは『かぶ土ふり』で土を均等に振り分けることと、『浜引(はまび)き』をしっかりやっておくことで、それにより撒砂への塩つきの善し悪しが決まるからです。
 『浜引き』等の作業も他の浜子と同様に、浜大工もやります。浜子と同じように朝3時には作業を始めて、夕方6時まで働き、さらに夜中でも『潮まり』を気にして見に行ったりします。とにかく全責任があるので頭や副頭は休んでも、浜大工は一年中滅多に休むことはできません。私はおかげなことに、体は小さかったですが、丈夫で病気一つしなかったのは幸いでした。しかしつい最近まで島外に出たことはほとんどありませんでした。それぞれの浜大工の塩の取れ高は、年末になると納入証の合計した数値ではっきり出てきますんで、手を抜いとったら、すぐにわかります。また40(歳)をかなり過ぎて体力が落ちてから浜大工になったり、さぼっとったりして、その浜大工の年間の成績が悪いと、1年間でくびになることも多かったです。また給与は日給月給ですが、夏の暑い時と、春秋及び冬では、給与が違っとりました。
 『寄子』は浜の近辺の女の人が多く、私等が沼井堀をしよるのを見たら、いつのまにか十分な人数が集まってきよりました。今日は『浜寄せ』をするとなると棒の先に『あてこ』や旗をつけて、浜の外に立て寄子への合図にしたりもしてました。」

  ⑤ 流下式塩田への転換と塩田の廃止

 「私のところの浜は、昭和31年に流下式になりました(伯方全体では32年に全面切り換え)。36歳の時です。それまでは1塩戸に大工1人でしたが、塩田が全て流下式になると2塩戸で1人になりました。この時の人員整理でだいぶ辞めたですよ。流下式になって人員が5分の1ほどに減ったため、造船(工場)の景気が良くなるまでの6~7年ほどは、伯方も若い者が少なくなり、火が消えたようでした。結局熟練した浜大工だけが残るようになりましたから、従業員の平均年齢はだいぶ高くなりました。私も流下式になったおかげで、40、50歳になっても勤めることができました。流下式になってからの定年は55歳で、『大工』『頭』『差』等の名称も、以後『塩田主任』(浜大工に相当し2塩戸担当)『副主任』と言うようになり、さらに製塩工場(煎熬(せんごう)部門)の従業員が20数名いました。
 流下式塩田の生産で大切なことは、風や温度・湿度から判断して、何回流すかを決めることです。枝条架から飛ぶ塩水が周囲の田畑に及ぼす塩害が問題とされるようになり、強い風が吹くと枝条架に海水を流すのを止めるようにもなりました。体はだいぶ楽になりましたが、塩分濃度がちょうど良くなるように気を遣うことは変わりませんでした。夜中も交替で当直があって、枝条架に海水を流しますが、当直の晩は若いころから好きだった読書をすることが多く、公民館の本はほとんど読みました。
 イオン交換(樹脂膜法)への全面切り換えで、伯方塩田が廃止になったのは昭和46年ですが、その時私は52歳でした。従業員は50数名いましたが、30~40歳代の人は、職業訓練校の配管工事や電気工事の部門に行った人が多いです。私は家大工になろうと思ったんですが、年がいって雇ってもらえず、結局それから8年ほど伯方の造船所に勤めました。怪我をしてそこを辞めてから、しばらくは清掃業に従事しました。いまは二人の子供も広島県で独立して世帯を構え、私も年金をもらってのんびりと暮らしており、昔の塩田の事を思い出すとなつかしいような気持ちです。塩田当時の仲間とはいまも付き合いがあり、みんな長生きしとります。塩田のきつい作業で体が鍛えられとるせいでしょうか。」

 イ 浜大工の労働と生活

  ① 修業時代

 「私の家は農家で、私も小学校を卒業してから17歳までは、百姓をやっとりました。昭和2年(1927年)に塩田に入って炊となり、その後大島の津倉塩田に1年、大三島の盛口(もりぐち)村(現上浦町)井口塩田に5年、(現大三島町の)口総(くちすぼ)塩田に1年、それぞれ働きました。そのように転々と動いたのは、叔父の**さんが浜小作(はまこさく)(浜旦那=塩田所有者の本業が別にあって、経験が深くある程度資金を持っている浜大工に全面的に経営を任せること。)をやっており、その**さんの小作している浜で仕事をしとったからです。叔父は浜小作で大きな収益を上げて、無尽(むじん)からも金を借りて当時のお金で2万円ほどで、昭和11年ころに伯方の瀬戸浜塩田の一番浜を購入し、浜旦那になりました。叔父は伯方合同製塩の専務もやり、伯方で最初に流下式塩田を取り入れた一人です。叔父の引きもあって、私もそのころに27・8歳で、伯方瀬戸浜塩田の浜大工になったわけです。
 炊のころの仕事は、皆と一緒に浜を引くことと、皆の食事の世話をすること、水桶を担いで風呂をたくことです。他の所では、浜子から厳しく仕込まれることもあったようですが、私は叔父のところにおったので、あまり厳しくはやられませんでした。朝は3時ころには起きて、4時に仕事始めで、沼井堀は7時半ころでした。若い者は釜たきもやらんといけませんでした。釜たきは2交替制で、夜釜たきもありましたが、一番の仕事は石炭ガラを出すことと、火を弱くせんように一定の温度を保つことでした。夏の暑い時にはなかなか大変なものでした。」

  ② 浜大工として

 「昭和11年ころに浜大工になりましたが、19年の末に海軍で召集を受け、鹿児島の鹿屋で終戦を迎え、また浜大工に戻りました。戦前も戦後も瀬戸浜の12番浜で働きました。
 年間の浜持ち日(採かん作業のできる日)は180曰くらいでした。休みは正月3日と盆の1日くらいで、特に大工は年間休みがないのも同然でした。1日の作業で一番しんどいのは『すくいこみ」((1)のウの②採かん作業の手順の四参照)で、浜寄(はまよ)せした砂を沼井に入れる作業です。砂を『すくいこみ鍬』にいっぱい入れて、重さ30~40kg近くあるのを持ち上げる作業を、真夏の炎天下の2時から3時すぎまで何十回も続けると、足腰立たんようになります。
 浜大工として一番肝心なことは『潮まり』(浜溝)の海水の量で、水が少なすぎると取れ高が少なく、水を入れ過ぎると土地が冷えて濃度が薄くなってしまい、またニガリが多くなり過ぎて駄目になります。『潮まり』に目盛を刻んだ棒を入れ、天候を見て目盛にあわせて海水を入れます。古江浜等には『ダボ』(海水溜り)があって、干満にあまり関係なく海水を入れることができましたが、瀬戸浜には直接入れていたので、満潮に海水を入れ干潮に出す時期を間違えると、大変なことになりました。また各塩戸で『せんごう』してできた塩は、私が浜子のころは『かます』に詰めて、上荷船が入川(いりかわ)(塩田内の川)に入ってくると、みんなで積み込みよりましたが、(昭和15年に)合同製塩になって、そんなこともなくなりました。
 戦前には、浜大工の成績のいい者には、奨励金で賞金が出よりました。私も41軒ある塩戸の中で、1~3位の中には入っとって何度かもらったもんです。特に夏ころに何日も晴れて浜持ちが続くと、『日和代(ひよりだい)』として浜旦那が鯛やさわらを買ってくれて、皆で食べました。7日浜持ちになると『ホンダレ』と言うて、浜旦那から祝儀(しゅうぎ)が出よりました。また昔は旧暦でしたが後には新暦の10月10日に、塩釜神社の祭りがあって、浜子や近所の人らが境内に集まって酒を飲み、相撲をしたりしよりました。
 流下式になってからも、昭和38年に55歳定年になるまで、瀬戸浜の塩田主任として働きました。定年後も嘱託として勤めておったんですが、まさか伯方の塩田が整理されて塩田が消えるとは、思いもよらんかったです。塩田の廃止後、『伯方塩業』で、平釜をたく技術のある人がおらんということで、3年ほど働きました。釜をたくのに、ちょうどいい火の加減があるわけです。工場長さんは、さまざまな困難がある中を、よく耐えしのんで今日の伯方塩業を築いてこられ、私も大変お世話になりました。平成元年に妻を亡くしましたが、今は町内に子供等が4人おってくれますので、一人暮らしでのんきに暮らしております。」