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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(4)夫婦親子で活躍する渡海船主

 **さん(昭和15年=1940年生まれ、51歳)越智郡宮窪町友浦在住
 愛媛県から広島県にかけて広がる芸予諸島と今治港を結ぶ「海の便利屋さん」渡海船の協同組合が「今治小型機帆船協同組合」であり、昭和25年(1950年)に15隻の渡海船でもって結成された。それ以来、この組合は島々の渡海船活動のかなめとして今日まで40年余りの年輪を積み重ね活動してきたわけである。
 現在の組合長は宮窪町友浦の**さんであり、組合長に就任してから4期(1期2年)8年目を迎えている。**さんにお会いし、芸予諸島の渡海船主の代表格としてお話を伺った。

 ア **さんの生い立ちと青年時代

 **さんは、父**さん(明治24年生まれ)の次男として生まれた。**さんは女4人、男2人の6人兄弟の末っ子に当たり、今日、長女の姉は70歳を迎え大島で健在である。
 父**さんは半農半漁の農家であったが、大正時代に友浦で渡海船を始めた。**さんがお父さんに聞いた話によれば、「当時は櫓による手漕ぎの渡海船で部落中の者が乗り合わせたそうです。友浦を夜中の午前1時ごろ出発して、潮待ちのため途中船を止めたりしながら進み今治へ午前6時ごろ着いたそうで、夜通し漕いだようです。そのころの今治港は築港されておらず砂浜に船を着けたとのことです。」という状況であった。
 また、70歳のお姉さんの話によれば、幼児のとき次女と一緒に船に乗せられ、海に落ちないよう紐で二人を結んで航海をしたとのことで、大正から昭和にかけて一家をあげて渡海船に乗り組んでいたときの様子がうかがわれる。
 大島を中心として島々には杜氏が多く、特に「大島杜氏」として有名であった。**さんも昭和30年(1955年)4月、中学校卒業後の秋から酒造りの出稼ぎに行李を担いで行くことになった。以下は、**さんの酒造り修業時代の話である。「当時は、中学校卒業後、酒造りに奉公したものが多く、徳島県、香川県、松山など愛媛県内各地の酒屋の杜氏の下で酒造り修業をしました。期間は毎年10月・11月ころから翌年の3月・4月ころまで、泊まり込みで働き続けました。日当は1年目は1日290円、2年目は310円で、しかも1日3食付きですから結構現金収入になり(帰省のとき一括支給)、土木労働の日給よりだいぶましでしたよ。しかし、杜氏の徒弟奉公では先がはっきり見えそうでないので、10年目に出稼ぎ奉公をやめ、やがて畑を処分し船を購入して渡海船を始めました。」

 イ 渡海船の開業について

 「昭和40年すぎに、家内と二人で渡海船を始めましたが、長女が2・3歳のころでした。赤ん坊を船に乗せて渡海船を始めたのは、私たちくらいでしょう。とにかく渡海船を持てたので、もう行李を担って出稼ぎに行かなくてもよいと思い、大変うれしかったですよ。ただ、もし父が途中でやめた渡海船を続けその後を私が受け継いでおれば、仕事もやりやすくもっと大きな業者になっていたかもしれません。最初購入した船名は「友浦丸」ですが、この名前はかなり古いもので、何代も前からついていたそうです。友浦丸を譲り受ける2・3年前から私自身船員として乗り組んだ経験がありました。現在の友浦丸は4隻目で20t、昭和40年進水の中古船を買い替えたものです。途中一度40tの鋼船を買いましたが、維持費も高く腐食しやすいので、2年くらいで売り、また、木造船に買い替えました。やはり、木造の方が手入れしやすいし、手入れ次第で十分長い間使えます。また、20t以下ですから、県知事許可でよく、海運局の許可も受けやすい点もありました。
 渡海船の開業の最初から家内と二人で乗りましたが、船員免許は大長(おおちょう)(広島県豊町大長-大崎下島)にある個人経営の船員養成所に夫婦で70日間泊まり込んで受講した後、広島県の試験を受けて資格をとりました。旧免許の丙種で家内が船長、私が機関長の免許をとりましたが、機関長の免許の試験の方が難しかったです。家内はその後20t未満の船長ができる1級の資格をとりました。一緒に乗っている息子(長男**さん23歳)の資格は4級で5t未満ですので、いずれ1級の資格をとらせたいと思っています。家内(**さん47歳)は、徳島県の出身で、酒造りの出稼ぎの時代に知り合いましたが、体も大きくなかなかの元気者で、地元でも良く知られています。」

 ウ **さん一家の営業活動

  ① 注文と集配業務、利益について

 「小売店や個人が直接電話で今治の問屋や仲買人に注文しますから、今治に着いてからでないとその日の注文の種類や分量がわかりません。電話の無い時代は前日注文を聞いて回ったものです。また、個人から直接私に注文依頼する場合もあります。
 友浦の出航は午前6時30分発、今治港に7時30分ごろ着で、荷物を積み込んだ後、今治港は12時発、友浦に13時ごろ帰港します。現在は乗客は一人もおりません。少々運賃が高くても渡海船より良い船に乗るからです。荷物の配達は昨年私が交通事故で腕を痛めておりますので、元気者の家内と息子二人でやり、15時ぐらいまでの2・3時間で配達を終えます。品物はすべて配達で、取りに来るものはおりません。
 注文の品物は衣食住の家庭用品が中心で、やはり生鮮食料品、電気製品、プロパンガス、燃料、金物、酒、しょう油、米、洗剤、ティッシュペーパー等いろいろです。消費生活の進展、いわゆる使い捨ての時代を反映して、生活用品、家庭用品が大変増加してきました。運賃は、ミカン用ダンボール1個程度が200円の基準で家庭や店まで配達します(遠い距離の所は300円)。200円以下はありません。例えば米の運賃は14キロ90円と安いので運賃アップが欲しいですね。米で毎日30~50袋運びますから。生鮮食料品では農協スーパーの影響を大きく受けました。結局利益については正直なところ生活するのがやっとというところですね。(写真3-4-14参照)」

  ② 地元特産品の出荷について

 「友浦地区は栽培技術の良い農家5・6軒が共同的にハウス栽培をやっています。以前はミカン栽培でしたが、その後数年前からはハウス栽培のブドウやエンドウ、また最近はハウス・イチゴとなかなか味の良い品物を作ります。今治の市場でも評判が上々で、今治の港に船が到着するのを待っているほどで、シーズンには集中的に運送します。生産意欲が高く、腕の良い農家のお陰をこうむっています。」

  ③ 大手運送業者との連携について

 「私の場合、古くからの付き合いで、直接佐川急便と大島一円の配達の契約をしております。佐川急使は中継店を通さず直接大島へ荷物を送ってきますから、品物の届くのが一番速いのです。大三島では順栄丸の**さんが契約しております。昨年末、他の運送会社の中継店から宅配を頼まれましたのでやってみましたが、配達料が安いのと数が多く多忙すぎて自分の本業にも差し支えますので、年が明けてからすぐやめました。佐川さんとの配達契約があると心強いです。」

  ④ 便利屋さんの便利屋さん-渡海船の下請けアルバイト

 「今治の病院へ薬取りの依頼がありますが、その場合、依頼によって病院を回り、薬を取って来る渡海船専門の下請けアルバイトの人(定年退職後の人)が二人おります。1件につき200円でバイクや車で回って薬を取ってきてくれますし、薬以外の品物(贈答品など)も配達します。菊間町当たりでしたら300円で配達してくれます。まあ、便利屋さんの便利屋さんですかなあ。お陰で大変助かっています。」

 エ 渡海船の今後の見通しについて-組合長として

 「渡海船は今後も廃れないと思います。確かにフェリーが走り、大橋がかかって便利になりましたが、トラック輸送にしてもフェリー代、橋の通行料が商品価格にプラスされますから、運送費はコスト高になります。安い運賃で小荷物を島々の隈々まで配達するのは渡海船のみですから。また、橋がかかるにつれてフェリー便が減少してきますから、小荷物運送は有利になるのではないでしょうか。また、渡海船は業者間の競争はありません。何といっても地域の信頼が一番大切ですから。正直に地道に活動することではないかと思います。しかし、渡海船の悩みは結局後継者ですね。
 渡海船が減ってきた一番大きい理由は、やはり後継者がいないことです。また、子供がいても渡海船をやりたがらないことです。私の場合、一人息子(長女は結婚)ですが、自分の家にいて一緒にできる仕事ということで、中学を卒業してからやってくれています。仕事の面も、実際の労働時間が比較的短く、中身も楽な方ですからなんとかやっています。現在後継ぎのいる渡海船は、有津の正島丸(**さん)、小大下の平和丸(**さん)、小大下の金比羅丸(**さん)と私方をいれて5隻です。現在の総数は9隻ですが、たとえ2隻になっても島民のため商人のためにいつまでも続けたいと思っています。
 昨年6月より豊島(広島県豊町)の豊田丸(**さん)が渡海船をやめましたが、地元は大変困ったため、豊町役場、農協、商工会が組織的に援助することとなり、渡海船を再びスタートさせたようです。やはり渡海船は地域になくてはならないものでしょう。」
 以上、渡海船の組合長として、また、個人としてのお話をうかがっていると、有津の**さんと同じく、渡海船が地域に根ざし、地域をよりどころにして地域とともに歩んできた姿が鮮明に浮かび上がってきた。**さんが友浦という地域の特性を生かし、多様な渡海船経営を多様に展開している姿は、今後の渡海船のあり方の一指針となるであろう。

写真3-4-14 今治港で積み込み中の友浦丸

写真3-4-14 今治港で積み込み中の友浦丸

平成4年3月撮影