データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)中島における一杯船主と海運

 **さん(大正14年=1925年生まれ、66歳)湯泉郡中島町在住

 ア 戦前における中島の海運と**さんの青年時代

 「私は中島の大浦集落の出身です。中島では粟井の集落が江戸時代から海運の中心地として有名ですが、私の家も祖父が晩年に近いころから10トンほどの小船で海運を始め、明治38年生まれの父は帆船を持って、ずっとこの商売をやってきました。このころの積荷は県内が主で、長浜からの材木や雑貨等が多かったようです。広島・大阪の方に運んでおりました。粟井の船は3本マストのやや大型の船が多く、宮崎県油津等から木炭を運ぶ炭船や石炭船が中心で、同じ愛媛県でも地域や船の大きさによって運ぶものが違っておりました。
 小学校をでたころ(昭和14年ころ)に父の船もエンジンをつけましたが、中島の海運業者の中では遅い方でした。そのころで、中島に機帆船は20隻余りおったでしょうか。私も高等小学校を卒業すると父の船に乗りましたので、私には帆船の経験はありません。家族中心の4~5名の乗組みでした。私も18歳の時に、三津の講習会で免許を取りました。
 私は戦争末期の繰り上げ召集で、満19歳で陸軍に入りましたが、山口県の柳井・徳山の船舶工兵部門で上陸用舟艇を造るのが仕事になり、鉄砲の撃ち方もろくろく知らないまま終戦を迎えることになったんです。」

 イ 戦後の海運業者としての歩み、みかん船・自動車専用船への進出
 
  ① 機帆船から小型綱船へ

 「私は25歳で結婚しましたが、戦後しばらくしてから父は船を降り、私と妻と若い衆の3人で、機帆船をしばらくやっていきました。120tほどの船を2回建造しましたか。その後松山のオペレーターから、雑貨の定期便をやってくれないかという要請もあり、昭和35年に鋼船を建造しましたが、中島では最も早かったんじゃないかと思います。当時機帆船が500万円程度でしたが小型鋼船は、1,500万円ばかりかかり、3倍ほど価格がはねあがるため、私も建造の際はなかなか苦労しました。自己資金だけでは無理なため、造船所で3分の1の費用を5年ほどの延べ払いにしてもらい、銀行や保険会社から3分の1の融資をしてもらって、何とか費用をまかなったんです。総トン数は350t、船名は『福吉丸』で、回漕店のオペレーターが集荷してくれた、食料品や引越し荷物等の小物の雑貨を、大阪・広島・博多等の瀬戸内海一円に運ぶのが仕事でした。私等より大型の船は石炭船が多かったですが、そのころから昭和40年代にかけて、火力発電所が石油に切り換えていくにつれ、石炭船からタンカーに転進していく業者が増えました。」

  ② 自動車専用船への進出

 昭和40年に、自動車専用船『ダイハツ丸』(総トン499t)と、みかん運搬船『第3福吉丸』(総トン350t、積みトン750t)を、ほとんど同時期に建造しました。専用船は積荷が一定しているので、経営的にはありがたかったです。ただダイハツは大阪を基地としての出荷なので、地元の船員が集まりにくく、大阪方面から人員を確保するのも難しいため、45年にマツダから新造船をやってくれんかという話に乗って、『ダイハツ丸』を売却し『28東洋丸』を新たに購入しました。マツダの本社が広島ですので、船員に休暇を与える際にも、中島等に帰るのに便利が良いのです。このマツダとの関係は、昭和61年にさらに新しい『東洋丸』(総トン699t)を購入するなど現在も続いています。

  ③ みかん運搬船の中島農業への貢献

 みかん船を建造したのは、当時中島町の各農協の統合が行われ、この大浦に日本でも有数の共同撰果場が(昭和40年に)できたからです。当時みかんの輸送は機帆船でやっておりましたが、それですと輸送に何隻も必要で、また小船で馬力も小さいため時間通りに帰って来れない等、効率が悪かったんです。そこで、農協の幹部にこれだけの大規模な撰果場を作るからには、それに応じた輸送体制を整えないといけないんじゃないかと話をしますと、非常に乗り気になってくれて、農協からの資金もあって、他の一業者と農協の専属船を1隻ずつ建造し、ピストン輸送することになりました。これは現在も続いておりますが、県内の他地域では鉄道ストや道路事情等で出荷に大きな支障が出ることがあるのに対し、中島ではこの2隻があるため運送体制に問題が起こったことはなく、その点では地域のために役にたつ事ができたんじゃないかと思っています。
 第3福吉丸には10年乗りましたが、出荷の際に数十人もの農家の人が集まって積込をし、山積みなので下のみかんは駄目になって、自分から値段を下げよるようなもんだったので、何かいい方法はないかと考えておりました。名古屋等各地を視察して、パレットかコンテナ方式がいいのではないかということで、パレット方式の船幅の広い『いよ』(総トン199t、積みトン650t)を建造したのが、昭和50年です。平成2年には、それまでの2段積みから3段積みにして、それまでの24,000箱から、40,000箱積めるようにした『いよえーす』を建造しました(写真3-4-8参照)。大阪に出荷してますが、そこからトラック便で東京・名古屋に行っておるようです。みかんの時期は12月から4月までで、それ以外の時期は、みかんの揚げ荷でも世話になっているオペレーターからの運航により、鋼材関係の積荷を運んでいます。
 昭和45年に、鋼材専用の『イヨサキ』(総トン499t、積みトン1,600t)を購入しました。これはクレーンや橋げたなどの大きな鋼材を積むための船で、呉や新潟、苫小牧等に出ておりました。しかし購入したすぐぐらいにオイルショック(昭和48年)があり、景気悪化のため、そのような需要の多かった北海道での運送を中心にするようにしましたが、地元出身の船員が遠隔地での労働を嫌い、人が集まらないため、結局売却することになりました。ですから、一時は3隻持っておったんですが、現在は自動車専用船とみかん運搬船の2隻です。私も昭和44年ころまでは船に乗っておりましたけれども、3隻になると経営上種々の問題が出てきて、それからは船を降りて中島と三津の事務所で仕事をしております。」

 ウ 中島の海運の現状と課題

 「今の海運における一番の問題は船員不足でしょうか。船舶過剰による船腹調整も、最近の好景気でむしろ不足気味で、また新しい船を造る場合には、それまでの船をスクラップにして調整すればいいので、自分の会社の枠内で何とかできます。最近の船員不足に加え、週休2日制になると、8人の人員にさらに2人ほど必要になるので、人件費等が一番大変です。
 中島の一杯船主の人達は、199tの小型船に夫婦2人で乗ってますから、景気が悪くなっても自分等で必要経費の切り詰めができますし、需要の枠内でこれからも生き残っていくんじゃないでしょうか。今でも十数隻ありますが、結構若い人も多いです。ただ後継者がなかなか残らないのが悩みのようです。中島の会社形式の海運業者は、十数年前までは5~6社あったのですが、今は私の所を除いたらほとんど止めてしまいました。粟井出身の海運関係の人等は、多くが三津、松山に出て、海運業者や他の事業をやっておるようです。私の息子も、松山でホテルを経営しております。今後息子が帰って来るのであれば、もっと事業を拡大しておかねばとも考えています。」
 以上のように、愛媛海運の一翼を担う中島の海運業者について、**さんから貴重なお話をうかがうことができた。中島の柑橘生産と一体化して業績を上げてこられた、地域に密着した堅実な経営姿勢を見ることができた。

写真3-4-8 みかん運搬船「いよえーす」

写真3-4-8 みかん運搬船「いよえーす」

平成4年2月撮影