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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)親子2代で担う安居島の一杯船主

 安居島
 
 安居島は、北条港の北西14kmの沖あいに浮かぶ、面積0.3km²の小島である。文化年間(1804~1817年)に松山藩への領有が決定し、それまでは無人であったが文化14年(1817年)より定住が行われ、江戸時代末期より昭和初期にかけては(斎灘の中心部に位置し、付近に島の無いことから)帆船の潮待ち・風待ちのための絶好の寄港地として栄えた。明治20年ころには遊廓の遊女70~80人にも達し、明治末期~昭和初期には、戸数100戸で人口も500人を越していた。しかし動力船への転換により寄港地としての役割が消滅し、戦後の産業構造の転換もあいまって、昭和30年代以降に急激に人口が減少し、現在の人口数は50人を切り高齢者がほとんどを占める(⑥)。

 **さん(大正13年=1924年生まれ、67歳)安居島出身、現在北条市在住

 ア 安居島での生活

 「安居島は小さい島でしたが、夏涼しく冬の風も当たらず、本当に住みいい所だったですよ。私等の若いころは、人口も500~600人おりまして、祭には相撲も運動会もあって、にぎやかでした。戦前には子供が最低でも6人ほどはおって、私の実家では13坪の家に18人住んでおりました。私の家は機帆船を持っておって、船が帰ったら船内でも寝てました。父の若いころは本当ににぎやかで、女郎さんも80人ぐらいおったそうで、御手洗・木江と並ぶ瀬戸内海の歓楽の中心だったらしいです。私の小さいころは女郎さんも3・4人くらいでしたか。
 地面を掘ると安居島ではすぐ水が出てきます。水があるために、参勤交代の停泊地になったんだそうですが、塩分を含まない飲料水として使えるのは、4つほどの共同井戸だけです。後の個人井戸は洗濯や炊事に使います。今でも時々安居島に帰りますが、こちらの水に慣れてしまうと、塩辛くてなかなか飲めたもんではありません。子供は朝4時に起きて、つるべで水汲みをするのが日課でした。戦前は北条に出ることなどほとんどなく、島で取れる芋・麦・野菜の自給自足で、朝・昼・晩と芋飯で、煮干しとひじきをおかずにしてました。
 病気になったら上蒲刈島の医者にかかりました。距離的にも北条とほとんど同じで、広島県側との行き来が多かったです。漁で捕った魚は2~6日生かしておいて、中島から糸崎(広島県)に向かうナマ船(鮮魚運搬船)で、運んでおりました。渡海船も2隻ありまして、北条に運ぶ場合もあったです。大三島の大山祇神社にも、漁船に幟を立ててよくお参りに行きました。
 安居島に一杯船主がようけおったのは、江戸時代からの主要航路であったからじゃないでしょうか。私等のころも『石炭こどり』(石炭船)の帆船がようけおって、帆船は身近なものでしたから、私は今でも帆船の言葉や帆の扱い方を全部知っとります。父は島外に出て船乗りとなり、私が数えの18歳の時(昭和16年=1941年)に、5,000円出して75tの機帆船を買い船主になりました。私もそれまでは漁師をやってましたが、それから船に乗るようになったんです。家族船員で11人の子供のうち4人の男兄弟全員が乗り組みました。小学校の同級生のうち7割が漁師、2割が船乗りでした。
 戦時中は、船が何隻かおったけれど、軍が安居島に探照燈をつけたために、毎日のように空襲を受けました。島が小さいから爆弾はほとんど当たらなかったですが、一度は船に直撃を受けて死者もでました。私は昭和19年の末に徴兵検査を受けましたが、兄がすでに入隊しとるし、石炭船をやっとる関係から、入営は翌年まわしになって、海軍に召集後も直接戦地に行く前に終戦になりました。昭和19年末に、幼なじみの妻は召集中の私の写真の前で、お酒5合で形ばかりの結婚式をしました。当時の安居島では、島外の人との結婚というのはほとんどなかったです。」

 イ 一杯船主としての苦労と変遷

 「戦前に購入した75tから、120tの中古の機帆船に昭和30年ころに乗り替え、ずっと石炭船をやってきました。宇部・若松から大阪(岸和田)へ運ぶのが主な航路でした。戦後しばらくしてから父は船を降りてそのすぐ後に亡くなり、兄弟もそれぞれの道を歩むようになって、私が船主を引き継いだんです。中古の機帆船でしたので、収入の大半が船の修理代にかかるような状態でした。これではやっていけないと思い、国に船を買いあげてもらって、昭和40年から3年間、高松市の屎尿処理船で働いて資金を貯め、昭和43年に199t(積みトンは380t)の小型鋼船秀峰山丸を造りました。その後、昭和47年に北条に家を建て、こちらに住むようになりました。
 鋼船になってからのオペレーターは辰巳商会でした。積荷はソーダ灰(ほとんどガラスの製造に使う工業用原料)で、宇部から堺に運ぶ航路が主でした。機帆船の時と違い、名古屋・長崎方面までいくようになったです。このころ(昭和45~49年ころ)はチャーター料が月ごとにどんどん下がって、2人雇っていた人も辞めてもらい、私と妻と長男の3人で切り盛りする状態がしばらく続きました。人もおらず長男は中学の卒業証書ももらわずに、船に乗せました。」
 奥さんの**さんは「一緒に船に乗っとった時分は、夫よりも私の方がようけ働いたんじゃないでしょうか。洗濯炊事等一通りの家事をして、港に着いたらソーダ灰の積み込みをして、運搬中はエンジンルームに入って油差しもしよりました。本当は機関士等の免状を持っとかんといかんのですが、船の借金抱えて、1日でも船を止めるわけにもいかず、海上保安庁にも何度も注意されました。悪いのは十分わかってましたし、罪をかぶり刑務所に座る覚悟はありました。じゃけど食べていかんといかんのやからどうしてもしょうがないことじゃったんです。長男の結婚式の時も、本人はさすがにおらんといけませんが、夫は式の直前まで船に乗って、あわててかけつけるような生活でした。」と当時の苦労の様子を語られた。
 「昭和47年から、三菱化成が荷主でその系列に当たるオペレーターの菱化海運にはいりました。積荷はコークスで、大企業ですから注文に上がり下がりが無く、それまでに比べ経営は安定してきました。昭和54年に同じく199t(積みトンは700t)の新造船を1億8,000万円で造りました。船名は菱(りょう)峰山丸です。私は6年ほど前に陸に上がり、今は長男が船主船長として、その船を動かしています。若松港等は、幅が狭いのに船が多く風・潮の関係もあって、1級の免状を持っとっても事故を起こします。やはり操船は経験が大事で、その点では私等の腕を信頼して、オペレーターからも大事な仕事を任してもらいました。私等も必死でやってきましたが、今日までやってこれたのは、オペレーターの世話のおかげです。」

 ウ 現在の海運に対する思い

 「昔は月に4航海(往復)もすれば良かったんですが、今は月に10航海はせんと採算がとれん時代になってきました。そんな関係で、息子もなかなか家には戻れません。休む時には、私が代わりに乗り組むこともあります。一杯船主というのはある意味で割に合わん商売です。高い金を出して10年~13年間位で借金を払います。借金を払うためにも無理をするから、船体・エンジンは10年~15年間ちょっとで寿命が来ます。私等の今までの生活も、借金を返すために必死で働く毎日でした。
 安居島出身で、今も家族船員で一杯船主をしとるのは、私のとこだけです。タンカー等を数隻持って、会社方式で経営しておるのは何人かおります。他の一杯船主の多くは、ここ十数年で止めてしまいました。後継者がおらんのと、先ほどのような理由で、一杯だけではなかなか利益が出かねるからです。会社を持っておる者も、今は船員不足でなかなかしんどいらしいです。しかし自分たちの子供は全部銀行員等の陸の仕事をさしとって、船員がおらん、おらんと嘆くのはおかしいと長男は言いますが、私もその通りやと思います。
 次男は現在外国航路の船員をしておりますが、8か月連続して乗って3か月の休みで、タンカーですから直(接)に陸には着かないため、船上生活ばかりです。法律上の頭数をそろえるため、船長・機関長以外の大部分は外国船員で、言葉の問題もあって十の仕事をさせるために百も二百も説明が必要で、一方で事故が起こった時の責任は船長等にかかってきますから、なかなか大変なようです。そのうちには操船等もっともっと自動化が進むんでしょうが、今は機械の進歩に人間の方がついていきかねる状態のようで、人も楽な仕事ばかり流れていってますから、これで大丈夫だろうかと心配です。なんと言っても海運は日本の交通のかなめですから、その点の配慮をもっと政治の上で行っていただけたらと思っています。」
 以上のように、かつて瀬戸内海航路の主要コースであった安居島出身の**さんから、その一杯船主としての歩みを語っていただいたが、夫婦親子で苦労を重ねながら一生懸命生き抜いて来られた誠実な姿をうかがうことができた。