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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)椀船行商の沿革

 ア 椋名集落について

 椋名集落は、大島及び吉海町の南西部に位置し、来島海峡に近い近辺の海は潮流の激しい所として知られている。江戸時代は椋名村として、今治藩に所属していた。平成3年の世帯数171戸、人口は478人である(吉海町役場資料による)。漁家・農家も多いが、今治市へ大島下田水(しただみ)港発のフェリーで30分の距離にあるため、今治勤務の給与生活者が増加傾向にある。
 明治45年(1912年)の「渦浦(うずうら)村郷土誌」(渦浦村は椋名を中心として津島・馬島等を含めた行政区画で、明治32年=1899年より昭和29年=1954年まで存続)によると、椋名の戸数は243戸、その内訳は農家55戸、漁家59戸に対し、商業80戸で内漆器販売業が60戸とある。この数字からも、明治末期における漆器行商の隆盛をうかがうことができる。
 椋名で漆器行商が発展したのはなぜであろうか。椋名は四国側における主要海運ルートとしての来島海峡に近く、他地域との交流・接触が多かったこと、また中世の村上水軍の城郭であった来島・中途島・武志島が椋名沖にあるなど、古くから瀬戸内海の水上交通に深い関わりを持ってきたことなどが、その背景として考えられる。少なくとも漆器行商の中心であった桜井は、海峡を挾んで真南にあり、同じ漁村として強い影響を受けたであろう(図3-3-29参照)。越智諸島は江戸時代において出稼ぎが非常に盛んであったが、行商はその一つの発展形態と言えるかもしれない。江戸時代末期から明治期にかけて、塩田のあった津倉、大島の穀倉地であった幸新田、大島石の採掘また漁業集落として発展した宮窪・早川等の島内の他集落に比べ、半農半漁でこれといった主産業のなかった椋名の人々のみが、行商という新しい生計の道に入ったのは、偶然ではあるまい。では次にその漆器行商の沿革を考えてみたい。

 イ 漆器行商の始まりと隆盛

  ① 漆器行商の始まり

 「渦浦村郷土誌」によると、椋名の漆器行商は嘉永2年(1849年)に村上茂吉(文久2年=1862年没)が始めたとされる。彼は椋名に初めて小売店を開くとともに、自ら船を乗りだし紀州黒江塗や京都塗を仕入れて瀬戸内海を行商するようになり、さらに進んで航路を関門地方から筑前沿岸、及び日本海方面特に出雲地方に販路を拡張したと、記載されている。これに対し、村上美枝氏宅に残る宗門(しゅうもん)往来手形では、すでに天保14年(1843年)に、九反帆水子(水夫)共七人乗りの船での諸国商売をしていたことが判明(㉓)する。
 下記の表3-3-17に見るように、桜井における漆器行商の初まりが文化文政年間(1804~1829年)ころと思われ、天保2年(1832年)に「串指(くしざし)法」と呼ばれる独特の桜井漆器の生産が初まっていることから、桜井の影響下にほぼ同時期に漆器行商を行うようになったのではなかろうか。
 養子元吉(後に二代茂吉、明治3年=1870年没)は父の事業を発展させて出雲・筑前地方で活躍し、船も十二反帆(たんほ)のものを新造して行商を拡大したと「郷土誌」に記され、これは慶応4年(1868年)5月改の今治藩船手役所発行の「往来手形」によっても確認することができる(㉓)。この船の筑前地方における船下しはすこぶる盛大であったとその地方の人が語ったと、(「郷土誌」中に古老の言として)伝えられていた。

  ② 行商の発展

 販路をもっぱら九州方面に限って、著しく行商規模を拡大したのは明治初年(1868年)以降からで、養子信太郎(三代目茂吉、明治41年=1908年没)の時期にあたる。このころから九州一円を範囲として、村内に同業者が著しく増加し、椋名の椀船の名称が広く各地に知られることになったと、前出の「郷土誌」に記されている。椋名の渦浦(ごううら)八幡宮に奉納されている船絵馬十数点の大部分が、明治初年~30年(1868~1898年)の銘であること、また集落内の同八幡宮分社(美保(みほ)神社)の鳥居に「明治13年(1880年)旅賣(たびうり)(売)子(こ)中奉納」の記銘があること(写真3-3-37)なとがら、この明治前期の行商の繁栄ぶりをうかがうことができる。
 明治25年(1892年)に、「椋名漆器商業会」が結成された。当時の会員数は33名で、一人が年2円の貯金積立てをして連絡・相互扶助にあたるとともに、年2回の総会を開き椋名漆器商の発達隆盛を計ることを目的とするとしている(「郷土誌」より)。このような明治期に入ってからの行商の発展が、明治45年(1912年)の漆器販売業60戸という数字につながっている。

  ③ 椋名の行商の特徴

 上記のような椋名の漆器行商の沿革について、表3-3-17の桜井のそれと比較してみると、ほぼ行商の発展経過が相似している。しかし集落規模の違いと漆器生産地を持つ強みからか、明治末期から大きな資本力を持つ親方の元で大規模な出張陳列販売を行う中で月賦販売方式が生まれ、さらに大正末期から昭和初期にかけての後の丸井・大丸・丸善等につながる(漆器以外の商品も含めた)月賦販売による大店舗・百貨店の創設が進められていくなど、桜井においては漆器行商者が都市中心の大規模店舗経営に変化・進出して(⑧㉔)いった。これに対し椋名では、無尽講方式や陸路行商の発達もみられたが、明治初年からの椀船形態の行商方式に大きは変化はなかったようである。椋名の漆器行商は、小集落としての制約の中で、行商地域に密着した形で続けられていったといえよう。
 戦前の椋名の漆器行商と睦月の反物行商の聞き取り等を比較すると、より高価であるためか漆器行商では親方の力が強い。また睦月では家・みかん畑等への家単位の投資が進んだが、椋名では親方は地主として土地等の財産の集積があったが、戦後の農地改革でそれも消滅し、集落としての利益還元はあまりないように思われる。同じ行商であっても、椋名は漁業集落、睦月は農業集落から発展してきたことが、その性格に違いを与えているのかもしれない。

図3-3-29 椋名周辺要図

図3-3-29 椋名周辺要図


写真3-3-35 椋名集落遠景

写真3-3-35 椋名集落遠景

平成4年2月撮影

表3-3-17 桜井(現今治市)の漆器行商及び漆器製造関係年表

表3-3-17 桜井(現今治市)の漆器行商及び漆器製造関係年表

(注)「愛媛県史社会経済4」、「愛媛県史地誌Ⅱ東予西部」に基づき作成。

写真3-3-37 「旅賣子中」の記銘鳥居

写真3-3-37 「旅賣子中」の記銘鳥居

平成4年2月撮影