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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)睦月島の歴史と行商②

 ウ 戦中・戦後の行商と行商の消滅まで
 
  ① 戦時中の行商の中断

 昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発して以後、衣料を含む生活物資の不足が深刻になってきた。さらに昭和13年(1938年)の国家総動員法及び14年(1939年)の物価統制令制定以降、行商で扱う衣料品の確保が非常に難しくなり、また商売そのものが闇取引(やみとりひき)の摘発等で大変窮屈になってきた。そして太平洋戦争勃発後の衣料切符制(昭和17年=1942年)の実施で、衣料品が完全に配給制となり、睦月の行商者の大部分は行商を中断、或いは転廃業を余儀なくさせられた。一部に反物行商を継続、或いは古着や食料品を行商した者もいたが、多くは徴用労働または零細な田畑にしがみついての耐乏生活を強いられた。また太平洋戦争前後は、商売ができないためほとんどの行商船は売却処分され、戦後には野忽那に3隻残ったに過ぎなかった。ここに明治以来の伝統を誇った船による行商形態は終わりをつげたのである。

  ② 戦後の行商の復活

 戦後も統制経済は続いたが、昭和24年に衣料品の統制が解除されるとともに、睦野村の行商は戦前にも匹敵する規模で復活する。その背景となったのは物資不足と戦災による衣料品への需要の高まりと、戦後の疎開・引揚による人口の過剰に対する余剰労働力のはけ口となったためであろう。また何よりも戦中戦後に窮乏生活を送ってきた睦野村の人々が、生活資金を求めて積極的に行商に乗りだしていったためと思われる。中島町誌によると、「昭和25年の秋売りの行商者数は、野忽那300人、睦月200人と推定される。男女の割合は約3分の1が女子であった。年齢層は17~60歳で、3分の1は家族全員で出ていた。」とある。ちなみに国勢調査による睦野村の職業別人口構成を示したのが、図3-3-19である。図を見てみると、睦野村の商業人口が戦前以上に高く、中島町誌の記載を裏付ける。特に女子の比率は半分近い。戦後はむしろ野忽那の方が行商が活況を呈したと中島町誌にあるが、女性の大部分は睦月であろう。また行商地が戦前に比べ、全国各地に至っているのがわかる。
 戦後の行商の特色は、(船に換わって)陸路の行商になったことである。戦前も「送(おく)り荷(に)」と呼ばれる陸路行商は存在したが、戦後は陸路一色となった。船としての制約がなく、得意先を求めてより遠隔地に進出している。行商期間も長くなり、(新暦の)盆正月にそれぞれ2週間程帰省して、行商先に戻ることが多くなった。また聞き取りにおいて後述するが、1箇所に定着しての月賦販売が徐々に主流となっていった。
 製品については、戦前の反物中心から、洋服・高級呉服の既成品中心となり、また綿製品に代わり、化繊・ウール・本絹・人絹が中心となった。それとともに、仕入れ先も京都の呉服問屋・大阪・名古屋(一宮)・岐阜等の製造元・問屋に代わってきた。
 親方-売り子という販売方式は続いたが、陸路という関係もあって、売り子の数も3~5人と少なく、また売り子の独立・分散が早かった。月賦販売による得意先回りが中心となると、さらに行商は個人単位となり、行商範囲も特定化されていった。

  ③ 行商の衰退と消滅

 戦後の混乱が収まり、商品流通ルートが整備され、中都市のデパートや町ごとの呉服店・洋品店が発達してくるに伴い、睦月・野忽那における行商の衰退が始まった。その画期となったのは、神武景気が始まり経済白書で「もはや戦後ではない」とされた、昭和31年以降と思われる。前記図3-3-19を見ると、昭和30年の睦野村商業者数は342人(行商者数を300人程度としても、不定期の売り子を含めれば400名近くになると思われる)で、行商にかげりは見られない。しかし、睦月の行商者は昭和39年には81人と大幅に減少している。中島町誌によると、同年の野忽那の行商者は100名で両者をあわせて200名程度であり、昭和30年と比較すると39年には睦野村の行商者は半減したと言っていいであろう。これは野忽那の行商者が26年と32年では半減していることからも裏付けられる。中島町誌では39年当時の睦月で、行商継続者の年齢構成が、30歳代1人、40歳代40人、50歳代50人、60歳代5.6人とあり、後継者がいないため、すでに行商は消滅しつつある存在であった。
 この原因となったのは、一つは流通網の発達による行商自体の衰退であり、もう一つは睦月におけるみかん栽培の隆盛・好景気によるものであった。行商先が奄美大島・対馬等の離島中心になっていることがわかる。陸地部における行商の役割は終わりを告げようとしていたのである。
 現在睦月で行商をしている人はいない。表3-3-15は睦月出身で現在も他地域で活動している人を示したものであるが、ほとんどはその地に店舗等を構え住民票も移している。行商経験者もほとんどが70歳を越える年齢となった。永い伝統を誇った睦月の行商も、今消滅しようとしている。ここにその人々の生き様と労苦を記録することで、現在の我々の生活を振り返る一助としたい。

 エ 睦月の社会と民俗

  ① 集落と景観の変化

 戦前と現在の睦月集落の変化を見ると、海岸部の砂浜が護岸工事により消滅し、海岸部に(公民館・消防分団詰所・共同撰果場等の公共施設を中心とした)新しい建物が建ち並んだことがわかる。この砂浜はかつて行商船の「出船」「入り船」でにぎわったところであった。また島をループ状に一周する農業道路は昭和59年に完成したもので、それまで島の北部に農作業で物を運搬するには農船を使うことも多く、冬に海が時化(しけ)ると危険であった。高齢化の進む島の柑橘農家にとっては、今この農道は必要不可欠のものとなっている。
 集落そのものには大きな変化はないが、睦月は昔より(港から見ると)「長屋門(ながやもん)」形式の豪壮な邸宅が建ち並んでいることで有名であった。これらの建物は、行商が盛んであった大正から昭和初期に建てられたものが多い。これをもっても、睦月にとって行商による富の蓄積がいかに大きかったかがわかる。

  ② 行商より柑橘栽培への転換

 睦月は「行商の島」から「みかんの島」へと切り換わった。柑橘栽培の隆盛は昭和30年代以降の瀬戸内海島しょ部全体のすう勢であったが、中島本島の戦前よりのみかん栽培の成功の刺激を受け、睦月は昭和20年代より行商の利益を果樹園の開墾と園地購入、及び苗木植え付けに注ぎ込むことにより、柑橘栽培において他島と比べ飛躍的な発展を遂げることができた。図3-3-22、3-3-23を見れば昭和25年より35年にかけての睦月における樹園地作付面積の飛躍的な伸びと、35年のみかん栽培面積農家構成において、睦野村の経営規模が、他町村と比べ高いことが判明する。睦月のみかん経営への依存度の大きさと転換の早さがわかる。明治42年の睦月村と西中島村の1戸当たりの農家収量を比較すると、睦野村は概して低い。それが昭和35年のみかん栽培面積の経営規模は、睦野地区が西中島地区を大きく上回っていることからも、戦後のみかん栽培を中心とした睦野地区の農業の発展が裏付けられる。
 みかん栽培は、苗木購入に多額の資本がいるとともに、収穫に至るまでに数年かかる。昭和30年代前半までは、他島にはその間の生活資金に対する不安と、十分な資本がないことから、みかんの高収益を知りながら、みかん栽培への転換が遅れていたが、睦野村では行商の利益がそれを可能にさせたのである。
 昭和40年前後には、みかんの収穫期に久万町・広田村等県内山間部から、100人近い臨時雇用があった。一方このようなみかん栽培の成功と人手不足が、行商者の減少に追いうちをかけていったのである。

図3-3-19 睦野村職業別人口構成(昭和25年、昭和30年)

図3-3-19 睦野村職業別人口構成(昭和25年、昭和30年)

国勢調査報告に基づき作成。

表3-3-15 睦月出身者で各地に定住している者

表3-3-15 睦月出身者で各地に定住している者

**氏教示による。

写真3-3-25 現在の睦月集落全景

写真3-3-25 現在の睦月集落全景

平成3年12月撮影

図3-3-22 昭和25~35年の睦野村耕地面積の変遷

図3-3-22 昭和25~35年の睦野村耕地面積の変遷

昭和28年県農林統計協会発行「統計より見た愛媛の農林水産業」及び中島町誌の記載数値より作成(ともに農業センサスに基づく)。

図3-3-23 温州みかん栽培耕地面積広狭別農家構成

図3-3-23 温州みかん栽培耕地面積広狭別農家構成

中島町誌より(昭和35年農業センサスの数値)作成。