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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)戦前から戦後の宮浦聞き書き

 ア 呉服商として

 **さん(大正3年生まれ、78歳、呉服商)聞き取り
 **さん(同上、元高校教諭)補足
 お二人の話により、戦前より戦後にかけての宮浦新地の変遷と当時の人々の生活をまとめてみた。

  ① 修業時代と戦争体験

 「私が生まれたのは久万でしたが、父がこちらの出身で呉服商をしてまして、種々の事情から宮浦に帰ってくることになったんです。私か10歳くらいの時でした(昭和2年頃)。ところが当時は機帆船でしたが、強風で船に積んだ呉服が全部潮をかぶってしまったんです。我々はもう港についておったんですが、祖母が大変なことになったと、まっ青になって飛んできました。しかし父はくじけずに当時の金で300円ほど借りて、どうにか商売を再開することになりました。この頃は、みんな働いても働いても暮らしは楽にならず、太る者はますます太り、貧乏人はますます貧乏になる不景気の時代でした(昭和2年金融恐慌、昭和5年世界恐慌)。父も呉服商として看板は上げていたものの、内実は火の車でした。私も高等小学校卒業後、伯母が嫁いでいた、竹原の呉服店で丁稚奉公をしましたが、この店にも千円借金しておりまして、なにかというと大三島の家の借金はどうなっとんぞと言われるのが辛いと、伯母はよく私にこぼしたものです。その後18(歳)から徴兵検査まで、私も呉服の行商を必死でやって送金し、なんとか借金を全部払いおえることができました。
 昭和10年に海軍に入営しました。同級生が3人一緒に宮浦港から出征しましたが、生きて帰ったのは私一人です。12年に一度満期になったのですが、13年に再び召集され、18年に海戦で砲弾に片足を飛ばされ、旭八勲章をもらって除隊することになったんです。その時助けていただいた軍医さんの家族には、戦後山口県の小郡(おごうり)まで訪ねていって、御礼を言ってきました。」

  ② 戦後の闇市時代

 「終戦前後の1年ほどは、海軍病院で知り合った島根県の戦友と宮浦で一緒に住み、二人で竹籠を作って生活しておりました。1個3円で1日7個ほど作りましたか。終戦で戦友は故郷に帰りましたが、戦後しばらくしてから、この宮浦でも人が右往左往しだして、闇師がうろうろし始めました。そこで私も昔とった杵(きね)づかで一勝負してみたいと思うようになったんです。父は既に戦争中に亡くなっておりましたが、祖母に話すと3千円出してくれました。戦前ですと大金ですが、当時の闇市の相場の中では、着物一枚買えば終わりでした。そこで銀行で金を借りようとしたんですが、保証人だ担保だと手続きがうるさかったので、個人から月5分の利子で5万円ほど借金しました。月5分というと今じゃったら大問題ですが、私は短期間に大儲けすることが出来ました。まず7人組で漁網を買いましたが、1か月も経たんうちに買手がつき、1万円につき3千円の配当を出すことが出来ました。そんなふうにもうけた金を持って、尾道に毎日行ったわけですわ。
 当時は行きさえすればもうかりました。何でかというと、小さい頃から呉服商いをしとるんで目が利くんですわ。この頃は引揚者や疎開者等の素人が許可をとってやりよる者が多いですから、金に困って皆言い値で売るんです。また相場がないもんじゃから素人が勝手な値段をつけとるわけで、そん中からあれも頂こうか、これも頂こうかと、いい品だけ抜いていくんです。当時はトーカイ(渡海船)が毎日出ておって、それで帰ります。船に乗ったら知人が『**さん今日はいい物がなかったんかな。荷物がよいよ少ないようじゃけど。』と聞くんで『いや本当にええ品がなかった』と答えるけれど、実際は尾道の商売人が私がいい品ばかり買っとるということで目をつけて、私の品の半分以上を物も見ずに指し値で高く買うてくれとったわけです。
 そがいな風にして商いをする一方、紀伊国屋文左衛門みたいな大ばくちを一度打ったこともあります。かなり危ない闇物資を、船一杯分他の者と一緒に買うたわけですが、これが大もうけしたんです。その金で買ったのが、今息子が店をやっとる地所で、参道からバイパスにかかっとる土地です。当時1畝20万円位で買ったのが、今はバイパス沿いで1坪40万位するんじゃなかろうか(1畝は約1aで30坪)。その頃はバイパスができるなど思いもせんかったが、そのおかげで神社近くの元の店舗から移って、今の息子の店が繁盛するようになったんじゃから、世の中というのはわからんもんです。呉服だけでなく古着・貸衣裳・農具・子供用品等、関係するものは全部やりました。」

  ③ 宮浦新地の盛衰

 「戦前から戦後も30年代までは(宮浦)新地200軒と言われ、戸数も多かったですよ。参道に面した商店街は、120軒ほど店がありましたか。今はどうかというと、数えてみたら参道沿いには40軒ちょっとしかない。看板は上げてもほとんど商売をしてない家も多いから、実際の店は30数軒でしょうか。江戸時代に新地ができた時が38軒だそうですから、その頃に戻ってしもうたと、(参道の商店については)言えるんでしょうかなあ。戦前じゃったら、ひととおりの店はあって、盆・正月前には大三島の各集落や周辺の島から、みんなが負(お)い子を背負うなどして買いに来よったんです。当時はトーカイ(渡海船)に頼む以外は、今治・三原に買物に出ることはほとんどなかったですから、新地の商店に行くことを『町に出る』と皆言よりました。ちゃんとしたみやげ物店も多くて、昔は5・6軒ありましたが、今は参道沿いにはほとんどなくなってしまいました。最近町美術館前にできた2軒のみやげ店は、互いにはりあって商売熱心にやっておるようです。
 春の大祭の時には、どの店も店頭に戸板を並べ品物を売りましたが、うちも4間ほどの開口に戸板を敷いて売ったら、初日に全部売り切れてしまうくらい、参拝客が来ておりました。今は大祭の客は本当に少なくなってしもうたですね。新地はそうはいっても住み良い所だったですよ。島内外のよその集落から来て成功した人が、私等の代になってからでも何人もおります。食いつめて家族で島を出ようとした知人を、私が港で引き止めて、少しばかり資金をだして商売を始めさしてあげたこともあります。その人も今は新地で立派にやっとります。
 ただ交通が便利になってしもうて、この近辺の人でも今じゃちょっとした品物は今治や竹原に買物に行きますし、新地にも農協スーパーができて、食料品や小物類ならほとんど揃いますから、資本のない新地の小店では、なかなかたちうちできませんな。私はスーパーができる時、商工会の幹事でもあったので最後まで反対したのですが、町議会では反対者は一人だけだったそうです。町全体の発展のためには、そちらの方が良かったのかもしれませんが。
 新地の店は昔から大名商売で愛想があまり良くない。もっとサービス精神がないといかんということで、かなり以前に私や他の仲間でサービス会というのを始め、数百円買上げごとにサービス券1点を上げ、何十点か貯めると旅行等をするようにしてました。これは大成功で、私も何度か幹事で旅行の世話をしました。人の世話をよくして頭を下げておけば、その人たちがお客さんとして返ってきて、そのまま商売につながるもんです。私は片足が不自由ですが、軍人恩給の世話、身体障害者としての種々の会合の世話、商工会、サービス会と、よく外に出ました。今は息子が店を大きくしてやってくれてますんで、あまり心配なこともありませんが、今後の新地の発展を願うばかりです。」

写真3-3-8 現在のバイパス道路(宮浦-井口間)

写真3-3-8 現在のバイパス道路(宮浦-井口間)

平成3年11月撮影