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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)親と子が語る島の生活史

 **さん(大正10年生まれ 69歳)、**さん(昭和24年生まれ 42歳)親子
 **さんは定置網(桝網)の漁師である。現在は島の長老格として、漁業のかたわら亀居八幡神社宮総代も引き受けている。過去には村会議員として村政にも参画し、その間昭和46年5月15日より昭和48年5月12日までと、昭和50年5月10日より昭和54年4月29日まで村議会議長を務めた。
 **さんが島の高等小学校を卒業した時代は、世の中が不景気であった。大阪に嫁いでいた姉を頼って、大阪に出た。貴金属の卸商に奉公して、4年ほど勤めて、ようやく商売が分かりかけたときに徴兵となった。昭和17年1月に入営、松山62部隊に編入されて当時の満州に出兵し、その後、昭和18年末に千島列島のシムチ島に移った。さらに、昭和20年に北海道防衛ということで北海道に移動し、終戦を迎え復員した。
 戦後は、父親が病気であるということで魚島へ帰ってきた。父親の跡を継いで定置網の漁師となった。小学校卒業後すぐに大阪に出たため、漁業は全くの素人であった。最初の10年間は、仲間の漁師のようにうまくいかず、水揚げ不振で悩みもしたし、苦労の連続であった。とくに当時の定置網の仲間は、漁業技術や潮の状況、漁場などについては秘密主義で、互いに情報を交換したり教えたりはしなかった。
 **さんはどのようにして漁業技術を習得したかというと、魚島に入漁する広島県の走島(はしりじま)や忠海(ただのうみ)の漁師からいろいろ教えてもらったという。同時に毎日の漁業の状況、潮汐、海底地形、網の状況、漁獲高を克明に記録していった。記録は何十冊にもなったが、現在は網の構造も昔とは異なり、網を固定するための陸の目標物の松なども松枯れのためなくなって、過去のデータを参考にして操業することはできなくなった。それでも習慣は恐ろしいもので、操業中の記録は現在もつけている。**さんは今までやってきた経験と記録から、30年前のタイの通る道筋が違ってきたといわれる。**さんは今でも研究熱心である。
 現在、島の定置網漁業は**さんを含めて13経営体である。主な漁獲物の種類はタイ、スズキ、ハギ、イカ、サワラなどで島の漁業の3本柱の一つである。漁期は3月から6月末までと、10月から1月末までの二つの時期を持つ。網は潮みどろ(潮が止まる時)に毎日引き上げる。今は機械ローラー巻き上げであるので普段は一人でも操業できる。だから年寄りでもこの漁業を営むことができる。魚が多く水揚げされる時期は、妻や孫も手伝っている。定置網の設置場所は、漁協であらかじめ成績の良い場所と悪い場所を組み合わせ、不公平にならぬようくじ引きで決定している。
 **さんは漁業のかたわら、村議として村議会議長として島の発展に寄与してきた人物であるが、その間の特筆すべきことは、昭和46年に結成された過疎対策協議会の会長に自ら望んで就任し、熱心に後継者問題に取り組んだことである。
 **さんの長男は、中学校卒業後島外に出た。次男の**さんが中学校を卒業したのは、昭和39年で東京オリンピックが開催された年である。島からの人口流出が激化する中で、同年齢の者が8人島に残り漁業を継ぐことになった。せっかく後継者ができても結婚の相手がいなくてはどうにもならない。そこで過疎対策協議会として、村当局に対して後継者が結婚した際の新婚者のための住宅建築を要望した。もう一つは、島外に出ていた娘さんに手紙を出し、帰島すれば役場か漁業協同組合の職員になれるように当局に働きかけをした。
 新婚者住宅は昭和49年に4戸が建築されて、当時は新婚さん住宅ということでマスコミが取り上げ報道されたりもした。また娘さん3人が役場職員として採用された。お陰で後継者の結婚問題も解決することができた。当時を振り返ってみて、あの当時の後継者対策に対する熱意はわれながら感心するほどである。いつまでも自分が会長の座にいることは良くないと考えた。それは島に残る後継者を持つ親がやるべきだと思ったからで会長を辞任した。当時は身内が片付いたから辞めたという批判もあった。現在も過疎対策協議会は存続し、協議会の恒例行事として年1回瀬戸内海の離島へ研修視察旅行を実施している。
 戦後の島の人間関係や習俗は大きく変容して行った。従来の封建的な網主層を中心とした親分と子分の身分関係が崩れるとともに零細ではあるが自営漁民が成長してきた。**さんなども先頭に立って、島の生活の合理化に努め、古いものを島の因襲として打ち壊す側に居た。今になって思うと当時の老人たちは苦々しく思ったことであろうと反省させられる。昔から島に伝わってきた生活の中での習俗には、それが受け継がれてきた当然の理由があることに気がつく年齢になってきた。とくに宮総代を引き受けるようになって、島の行事や伝承を後世に伝え継いでいく責任のようなものを感じる。亀居八幡神社の境内には、江戸時代の立派な灯ろうが多く奉納されている。にもかかわらずタイ縛り網漁業や朝鮮出漁などで、魚島の漁業が盛況であった明治・大正期に氏神である亀居八幡神社に石造物などの寄進や奉納がなされていない。ましてや昭和のものは一つもない。そこで、昭和36年に壮年会、老人会にはかって、鳥居の前に立派な灯ろう1対を建立し、昭和の人々のモニュメントとした。壮年会の人々によって、昭和48年8月には海中にあった毘沙門天碑(びしゃもんてんひ)を引き上げ再建した。昭和52年8月には江ノ島の吉田磯大漁記念碑を23年ぶりに海中より引き上げ再建した。昭和63年2月に吉田磯小島の記念碑のそばに松苗木を植樹した。昭和57年6月に集落の東にえびす神社の祠を建造し、タイムカプセルを埋蔵した。その外に伝承芸能や行事として、昭和49年から村ぐるみのとんど焼きの復活、毎年盆の15日に篠塚伊賀守が魚島に落ちのび再起を期して行った調練の名残といわれる「テンテコ」の勇壮な行事、旧盆の盆踊りなどの行事は、島外に出ていた人々の帰島によって一層のにぎわいを呈するようになった。お盆の時は墓参のために島の人口は一挙に倍にふくれ上がる。先人が遺した行事や伝承を掘り起こし継承しようとすることはありがたいことである。
 **さんは**さんの次男である。小型底引き網漁業を営む島の中堅漁師である。**さんが父親の跡を継いで漁師になる決心をしたのは中学校卒業後である。卒業をしたときに同級生8人が島に残った。7人はそれぞれ長男であったが**さんは次男であった。次男ではあったが子供のころから船が好きで、中学生のころには港内で漁船を操作できるほどであった。技術は父親から教えてもらった。親のやり方を見て覚えていった。
 23歳の時に今の奥さんと恋愛結婚をした。親父さんが過疎対策協議会の会長として後継者対策に取り組んでいたときである。他の仲間もそれぞれ島外から嫁さんを迎えて結婚していった。島外から魚島に来た嫁さんたちは、島になじむのに時間がかかった様子であった。
 **さんは結婚と同時に独立した。父親から中古船を1隻譲り受けるとともに、漁協から資金を借りて船を購入していった。**さんの場合は新婚者住宅ではなくて、父親の家を改築して住むことになった。両親は母親の実家の方へ移った。
 独立とともに小型底引き網漁業を中心にして、春の期間は父親の定置網も手伝っている。父親の時代と違って、こぎ仲間(小型底引き網)は漁場や漁法も秘密にはしない。お互いが無線で漁場の魚群や市場価格について情報交換をして助け合っている。
 定置網の場合には、水揚げは漁協の鮮魚運搬船もしくは地元の魚問屋(1業者)の運搬船に集荷し、夕刻魚島を出航し夜中に広島鞆ノ浦市場に着き、朝市に間に合うように午前3時に魚をしめて市場の競りにかけている。底引き網の場合は直接市場出荷している。漁獲高は年々減少しているようである。
 **さんの長男は今年3月弓削高校を卒業し、大阪の専門学校への進学が決定した。そこで後継者の問題について**さんの考え方を聞いてみた。**さんは「私が漁業を継いだ時代と今は大きく違ってきている。私が中学校を卒業した時は、後継者がいないというので父親たちが動いた。しかし今は違う。仲間が一人も島に残らない。仲間のいない島に自分の子供だけ残すことは親としてはできない。将来に対する不安はあるが、どうすることもできないのが今の状況である。」
 漁業に対する見通しについては、定置網漁業にしても、底引き網漁業にしても、ノリ養殖にして必ずしも悲観的ではない。漁場としては魚島は恵まれている。
 **さんも結婚して20年、高校生の子供を持つ父親である。**さんの時代に後継者となった8人の仲間がいる。お互いが助け合う仲間がいることは大きな力であり幸せなことである。真剣に島の将来について仲間と討議して、行政が取り組んでいる「日本一の島作り」に仲間とともに貢献されることを期待するものである。