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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(5)新しい生きがいを求めて

 **さん夫婦は、子供たちの巣立った後も、二人で1haの柑橘を栽培している。時代は平成に変わり、中島農業にも一つの転機が訪れようとしているが、島を守り、島で生きていく限りは、柑橘農業を柱とすることに変わりはない。**さんの家でもオレンジ類の自由化を見越して、消費者の好む品質の優れたミカンヘの切り替えを図るため、4年前から新しい苗木の植え替えを進めてきた。そしてボツボツ収穫の始まる矢先のこの度(平成3年)の台風被害は余りにも無惨であり、**さんはもちろん、中島町全体の農家が頭を抱えた。それでも**さんは「都会の生活であれば、仮りに収入が10-8となると、とても生きてはいけない。ところが農業では、たとえ8割の被害があっても、すぐ野菜や作物の種をまけば、なんとかつなぎができてくる。ここが農業の強いところ。」厳しい時代を生き抜いてきた昭和一けた生まれの生活体験がキラリと光る。
 農家の間では、「娘は農家に嫁がせたくないが、息子には嫁が欲しい。」という矛盾した話がいろいろと伝わる。**さんは農協婦入部の活動で、農家の嫁不足がささやかれだした実情から「農家の生活ほど良いものはない。」と呼びかけてきた。ところが、「あなたは自分の娘を農家に嫁がせるか。」と聞かれたことがある。「もらい手ができたらどこへでも。」と答えていた。「その後、娘は学校を卒業した後、そのまま松山に勤めていたが、ご縁があって地元の農業後継者に嫁ぎ、今は楽しく農業をやっている。」とのことである。
 **さんは、前述のとおり松山生まれの中島育ち。子供のころから農業と一緒に育ってきたので、農家の生活が一番心が安まるという。「娘にも農家はいいよ、いいよといっていたら、娘も一人でその気になっていた。」と笑う。「周囲を見ても、農業後継者がいるような専業農家は、農業へ取り組む姿勢も意欲的で生活の内容も安定し、町の人々と比べて、何のそん色もない。むしろ、いま公務員になっている息子の嫁のほうが、転勤、転勤の生活があって、苦労している様子がうかがえる。」とかえってサラリーマンの生活に同情している。そして、「確かに、昨年の台風被害のように、お天とう様相手の仕事では、生活設計の立てにくいときもあるが、子供を育てる環境はどの職業よりも農業は優れている。」と農家生活に自信を持つ。
 「長男も、勤めは持っているものの、農繁期の休日には必ず帰ってきてくれる。嫁も、同じ中島の出身なので島へ帰ることはいとわず、二人揃っていつも農作業を手伝ってくれる。」と顔がほころびる。
 いま**さん夫婦は、農業のかたわら、それぞれの趣味を生かしたボランティア活動に取り組んでいる。夫の**さんは、若いときから鍛えた腕に覚えの剣道をもって、町内の子供たちに週3回の指導を。**さんは得意の料理で、健康づくりに必要な手作り料理を老人たちに奨めている。「振り向いたときに、何もないようなことではいけないので、私たちにできる何かをやりながら、老後を楽しみたい……。」