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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)父が取り組んだ農業経営の基礎づくり

 ア 長男と同じ年のミカン園

 **さんの家には、長男の**さんと同じ昭和30年生まれのミカン園が1.5haある。昭和29年に結婚した父の**さん夫婦が、開墾につぐ開墾によって山畑を開き、ミカンの苗木を植え付けたものである。「**ちゃんのお父さんは、あんたが生まれたころには、毎日毎日朝早くから山へ出かけてミカン畑を開いておった。真夏の暑いときには、このあたりの農家は皆2~3時間は昼寝をして休むのだが、お父さんの姿が見えんと思うたら、もう山で仕事をしておった。」**さんが、子供のころから何回となく聞かされた祖母の思い出話である。
 **さんは、もともと大工職人であったが、**家の長女であった**さんと結ばれた。そして結婚を契機に、農業一筋に生きる意志を固めたのである。義父は、昭和12年の日中戦争で、すでに戦死という家庭環境にあった。当時家には、40aの水田と65aの畑を持っていたものの、女手ばかりの家庭ではどうにもならず、そのほとんどを親族などに預けていた。**さんの就農に際して、「お前が農業をやるのであれば、土地は全部戻してやるぞ。」という親族の励ましとともに、**家の耕地は2~3年の問に、ことごとく彼の手元に戻ってきた。土地への執着心の強かった農地改革直後で、その貸借をめぐってのトラブルが絶えなかった時代であるが、親族の人たちはその返還に快く応じた。このあたりの潔さは、中島に生きる人々の〝心意気〟であり、古くからの同族意識の強さを物語っている。そして**さんも、その好意に報いるためにも農業経営の基礎作りに精を出したのである。
 始めのころは、麦・ショウガ・タマネギ・スイカなどを作っていたが、収入の道をなかなか開くことができない。そのころを振り返って、「隣の家は、私の家より耕地面積が少ないのに現金収入が多い。中島に住むからには、このままではいけない。何とか収入を増やすことを考えなければならないと目覚めた。」という。このことが、**さんをして、そのころの中島町一帯で急速に伸びつつあった、ミカン栽培への取り組みを動機付けたのである。祖先から受け継いだ山林が6ha程度あったことも幸いした。
 いったん思い立ったら「何が何でも」という、男の気概もあった。そして開墾・新植・開墾・新植の毎日が続いたのである。**さんの生まれた日も、彼はミカン山へ苗木の手入れに出かけていた。「夕方、家に帰ってみたら長男が生まれとった。」と、今はたんたんと語る。言ってみれば、長男の**さんと、父母の植えたミカンの木は同い年の間柄である。

 イ どうせやるなら、むら一番に

 父の**さんが、家を継ぐようになったとき「自分は大工をやっても十分生活はできると思う。しかし農業をやるからには、誰にも負けないような農業をやってみたい。」と家族に話した。その背景には、昭和30年当時の中島町の一農家当たりの平均耕地面積は、およそ60aであったのに対し、**さんの場合は、その時点ですでに1ha以上の田畑を保有していた。しかも、その気になれば開墾可能な山林もあったことからの強気発言である。
 大工から転職した、百姓一年生の彼にとっては、まず農業で生活のできる経営の基盤づくりを目標に「10年間は百姓一本に打ち込む」ことを念頭においた。ところが農村集落には、区長をはじめ農協関係の世話役、神社・寺総代、各組長など大小様々な役職があって、地域の社会秩序が保たれている。元気いっぱいの**さんのところにも、消防団長就任の話が持ち込まれてきたが、「今は、開墾の途中で、それに全力を注いでいる。経営が軌道に乗るまで、しばらく持って欲しい。」と頼んで回ったことがある。
 ともあれ、**さんが執念をかけたミカン農業は、30年代の上昇気流に乗って、順調に発展していった。全町をあげての面積の拡大も、極めて効果的で、作れば売れる好環境が中島農業全体を活気づかせていた。**家のミカン園も、そのころには約2haの若木が育ち、一年ごとに収量を増していく喜びは、流した汗が多かっただけにひとしおのものがある。
 水田までも掘り起こしたミカン景気は、中島町においても例外ではない。町内で最も水田の多い大浦集落でも、昭和38年ころまでには、ほとんどの水田がミカン園に換わり、米を作ってもスズメの集中攻撃を受けて、まともに収穫することができなくなってしまった。「米作りよりも、ミカンを作って米を買ったほうが得策」と言われた時代である。食糧はできるだけ自給を望んでいた**さんも、ついに米作りをあきらめ、水田転換を思い立ったのである(写真3-1-14参照)。
 そして彼が考えた、水田の利活用方法は30aを伊予カンに、残りの10aを宅地に転換することとした。それまで山の中腹にあった家屋敷を、立地条件の良い平坦部の水田跡にまで移動する計画である。確かに家屋新築の経費は高くついたが、これまでの生活に比べると、その便利さは例えようもない。家族みんなの顔が明るく輝いた。

写真3-1-14 大浦地域の水田転換風景

写真3-1-14 大浦地域の水田転換風景

平成4年3月撮影