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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(6)個人出荷から共同出荷へ

 夏柑類の産地は、八西地域や南宇和郡がよく知られているが、上浦町の夏ミカンも景気の良かった昭和30年代までは、およそ50haの面積を持つ瀬戸内一番の産地であった。夏ミカンは、他の柑橘類に比べると労力が少なくて済み、収量も多いので、ひところは温州ミカンと肩を並べる有利な作物であったが、収穫期が3月以降であり、果実を木に成らせたまま冬を越すので、3年に一度は寒害を受けて金にならない作物と言われた。
 そのころの上浦町の夏ミカン販売は、俗に「だんな商法」と呼ばれ、自分の家の座敷で果実を買いに来た商人と「今年の値段はいくら」と取り引きをする習慣があった。いわゆる「山買い」と呼ばれる販売方法で、価格を決めた後は、商人が人手を雇って収穫・荷造りを一括受け持つので、生産者は手間が省けて簡単ではあるが、その分だけ、価格が安くなるのが通例であった。またそれ以外の農家でも、ミカンや夏ミカンの果実を、カマス(わらで編んだ袋)や箱に詰めて海岸まで運び、そこで待機する商人に売り渡す「浜売り」と呼ばれる個人売買がほとんどであった。
 そのような中で、**さんたち井口地域の若い仲間の間から、「これでは、いつまでたっても農家の発展につながらない。せめてミカン類だけでも共同販売はできないものか」という声が上がり始めた。そして、昭和28年、井口地域に構成員約30人の自主的なミカン出荷組合が誕生したのである。出荷組合の世話役をしていた**さんは、初めのころを振り返りながら、「共同販売と言っても、そのころには絶対量が少ないので、継続的な市場出荷にまではいかない。そこで、島まで運搬船で買い付けに来る商人売りがほとんどであったが、商人は距離的に近い広島県側の人が多かった。島回りの商人は、どちらかといえば経営規模の小さい人が多く、時には販売した代金が回収できなくて、何度も海を渡り、その金を集めに行ったことがある。ところが、売った先の商人は店が小さくて支払能力がなく、島に帰って組合員にどのように説明すればよいのか、頭を抱えたこともあった。」と、苦労話を語ってくれた。
 生産の単位も小さく、市況などの情報も手に入りにくい段階での共同販売には、いろいろの苦労もつきまとったようであるが、30年代の後半に入ると、栽培面積も、構成員の数も次第に増えてきて、組織力も強くなり共同販売活動が軌道に乗ってきた。そして40年には、これまでの同志的な任意組織を農協系列の組織に衣替えし、さらに前進した越智園芸農業協同組合の一員として、共同販売活動を行うようになった。