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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(4)収入も多く手間も掛かった葉タバコ作り

 大正2年(1913年)に、大三島の宮浦などで始められた葉タバコ栽培は、反収150円というこれまでの畑作物では考えられない売り上げとなった。この実績が物を言って、大正5年には、同じ大三島の瀬戸崎村に、さらに7年には弓削村・岩城村に、また8年から9年にかけては、伯方島(現伯方町)・大島(現吉海町・宮窪町)でも葉タバコ栽培が始まるなど、前述の除虫菊栽培と合わせて、島しょ部の換金作物作りは、一気に機運が高まっていった。
 葉タバコの栽培は、それぞれの地方におけるタバコ専売局が耕作や出荷に係る一切の権限を持っていて、越智諸島での実際の栽培にあっては、農民が当時の所轄であった広島地方専売局に耕作を願い出て、「煙草耕作許可証」を受けなければならなかった。専売制のとられている葉タバコ作りに対し、専売局は細かい指導を行ってきたが、許可証の注意書きにも「移植後の余り苗は、直ちに廃棄すべし」とか「植え付けが終わったら、株数の明細表を提出すべし」など、これまで自由に作ってきた作物とは勝手が違うので、農家もその栽培に当たっては細心の心遣いを必要とした。
 上浦町誌によると、盛口村(現上浦町)では、大正10年(1921年)のタバコ耕作者が170人、栽培面積27町歩に達し、38,000円の収入を得ており、反収141円であった。また昭和3年には、葉タバコ75,000円、除虫菊47,000円(下落年)、コメ92,700円とあり、換金作物としての葉タバコ、除虫菊の占める比率がかなり高い状態にあることを示している。
 昭和に入ると、繭価格の暴落や社会情勢の変化などにより、島しょ部の養蚕は減少し、それに変わって収入の安定している葉タバコが伸びてきた。島しょ部は、陸地部に比べて桑園面積の少ない地帯であるが、それでも養蚕の最盛期の昭和4~5年には、89町歩(89ha)の桑園があり、これを手がける農家もいた。ところが、葉タバコの花粉が桑の葉につくと、蚕に被害が出てくるので、クワと葉タバコは隣接したところでは作れなくなり、価格の良い葉タバコは家の近くに、景気が下向きの桑畑は遠くへ移すといったことなどから、昭和16年には17町歩(17ha)に減少し、戦後は、養蚕業のほとんどが島しょ部から姿をひそめた。
 昭和5年(1930年)のタバコ栽培実績では、岡山村(現大三島町岡山地域)が最も盛んで、耕作者369人、栽培面積101町歩(101ha)に達しており、単位当たりの収入や一人当たりの平均収入も、島しょ部の最高水準であった。大三島は、葉タバコ栽培の導入が早く、技術も進んでいたので、農民の中には専売局から選ばれて耕作指導員に指定され、九州方面へ派遣される人も出てきた。当時盛口村から鹿児島へ派遣された指導員の月給105円は、盛小学校長の75円に比べてもかなり高給であったと言える。
 ところで、葉タバコ作りは、収入も多いが手間も掛かり、とくに収穫後の乾燥は、昼も夜もぶっ通しでまきを燃やす重労働である。上浦町誌には、当時の葉たばこ作りの農家の姿を次のように記している。
 「葉煙草は専売品で収入は多かったが、苗の仕立、小寄せ、大寄せ、虫取、芽かぎ、暁に起きての葉かき、縄はせ、割木を燃料としての徹夜の乾燥と、農家の人々は、この時節が最も労働の激しい季節で、筋肉は落ち、眼だけが光っているという有様で、苦しさは言葉では表現し切れない程であった。」(原文のまま)
 **さんの小学生時代、忙しい葉タバコ作りの作業には、子供たちも一役買っていた。それは、「芽かぎ」と呼ばれる、茎と葉との間から伸びてくる腋芽の摘み取り作業である。タバコは、ナスやトマト・ピーマンと同じナス科の植物で、太りが早い。それに、一本仕立てであるから、腋芽が次々と伸びてくるので3cmくらいまでに芽かぎをするのが原則である。今では、薬剤処理によって、この作業が簡単になっているが、当時は省くことのできない大切な作業であった。**さんと同じ世代の人々にとっては、小学校5~6年にもなると、ほとんどこの作業を子供たちで受け持った体験をもっている。
 昭和35年くらいまでの葉タバコ栽培は、10a当たり943時間の多労働であり、その後の栽培技術改善で大幅に省力化されてきたものの、米作りに比べると、まだまだかなりの開きはある。
 昭和35年くらいまでの葉タバコ作りでは、何と言っても乾燥の作業が大変であった。それを体験した**さんは、「乾燥場は、数人一組の共同利用であったが、いったん収穫した葉の乾燥を始めると80~100時間は、ぶっ続けにまきを燃やさなければならない。交替しながら徹夜の作業であるから眠ることは許されない。そのうえ季節が夏に限られているので、蚊の攻勢も激しい。しかし、これを乗り切らなければ、いくら畑で汗水流して作った葉タバコでも、最後の乾燥仕上げで品質の善し悪しが決まってくるから、手を省くことができない。」と厳しかった作業を振り返る。
 タバコ作りには、こんな苦労がつきまとっていたが、昭和36年ころからは乾燥用燃料・乾燥機器の改良や自動化が進み、栽培技術面でも順次改良が加わってきて、45年の所要労働時間は、ひところの半分以下の437時間にまで、切り下げができるようになった(⑨)。
 島しょ部における葉タバコ栽培の全盛期は、昭和29~31年で、29年の栽培面積325町歩(325ha)は、県内の16.9%、収納代金では17.8%を占めるなど、県内の主要産地に発展していった。
 しかし34年からは、専売公社が葉タバコの減反に転じ、一方ではミカン栽培が急速な進展をみせ、さらには造船業や石材業など、地元産業の発達もあって農業労働力が減少し、次第に労働力の多くかかるタバコ栽培に影響が出始めてきた。そして39年の島しょ部の栽培面積は172ha、46年には50ha、翌47年には26haと加速度的に減少し、県内における葉タバコ主産地としての地位は崩れ去った(②)。