坊っちゃんニュース

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最近の夏目漱石関連の話題と
「松山坊っちゃん会」のニュース

当会の記事・写真等すべての無断転載・コピーをお断りします｡

現在は私、頼本冨夫(元県立高等学校教諭 )がお世話をしています。
　小説[坊っちやん]や漱石に興味のある方の入会をお待ちしています。現会員は50名、内県外会員１０名、家庭の主婦、会社員、自営業、医師、元教員、大学教授さまざまです｡年会費は3,000円で、和やかな雰囲気の自由な話し合いの場です。

3月19日更新
台湾　台中七七読書会メンバー33名と本会有志12名
　3月17日松山市内で漱石『坊っちゃん』について懇談会

第96回「硝子戸の中」第8回　3月8日(土)　喫茶「坊っちゃん」にて　
この日午前中珍しく雪降る　寒気大
参加者　伊賀上岩城　岡田　菊川夫妻　佐藤　武内　田鶴谷　藤本　行本　頼本　若山の12名

○三十七回　思い出の母は御婆さんである。たいしてかわいがってくれた母ではなかったが、金之助にとってはなつかしい。母ちゑ　文政9年1826生　質商鍵屋の娘　十年ばかり御殿奉公してから某質屋へ嫁ぐ。後、直克38歳と結婚、千枝29歳の後妻であった。明治14年1月9日死去56歳、金之助は兄大助の麹町の官舎にいて母の死に目に逢わず。この前後　清という老女中がいて可愛がってくれた。清にとっては末っ子であまり可愛がられなかった金之助が不憫でだったのであろう。

○三十八回　母の思いで　悪戯で強情な私は、決して世間の末っ子のように母から甘く取扱われなかった。それでも宅じゅうで一番私をかわいがってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶のうちには、いつでもこもっているる愛情を別にして考えてみても、母はたしかに品位のあるゆかしい婦人に違いなかつた。夢の話　母の思い出と母の声に安心　金銭を多額に消費する夢の話。まったくの夢の話であるが、年をとると母がこいしくなるのは誰しも思いは同じであろう。

○三十九回結末　春　日曜日　作者の精神も静まってゆったりとしている。「軽い風が時々鉢植の九花蘭の長い葉を動かしにきた。庭木の中で鶯が折々下手な囀りを聴かせた。毎日硝石戸の中に坐つてゐた私は、まだ冬だ冬だと思つてゐるうちに、春は何時しか私の心を蕩搖し始めたのである。」
『門』明治43年1月～　二十三最終場面　「五十許の頭を剃つた男と、三十代の商人らしい男が、漸く春らしくなつたと云つて、時候の挨拶を取り換はしてゐた。若い方が、今朝始めて鶯の鳴声を聞いたと話すと、坊さんの方が、私は二三日前にも一度聞いたことがあると答へてゐた「まだ鳴き始めだから下手だね」「ええ、まだ充分に舌が回りません」
宗助は家へ帰つて御米に此鶯の問答を繰返し聞かせた。御米は障子の硝子に映る麗かな日影をすかして見て、「本当に有難いわね。漸くの事春になつて」と云つて、晴れ晴れしい眉を張つた。宗助は縁に出て長く伸びた爪を剪りながら、「うん、然し又ぢきに冬になるよ」と答えて、下を向いたまゝ鋏を動かしてゐた。」余韻をもたせる。

「まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思ひ出したやうに九花蘭の葉を揺かす。猫が何処かで痛く噛まれた米噛を日に曝して、あたたかさうに眠っている。先刻まで庭で護謨風船を掲げて騒いでゐた子供達は、みんな連れ立つて活動写真へ行つてしまった。家も心もひつそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放つて、静かな春の光のなかで、恍惚と此稿を書き終るのである。さうした後で、私は一寸肘を曲げて、此縁側に一眠り眠る積である。」

大家の随筆の終わりに相応しいゆったりとした結末。特に鶯と九花蘭は二度この短い文中に出てくる。静かなゆったりとした雰囲気である。そこに作者の創作的、作為が感じられる。この雰囲気は上掲「門」の結末にも用いられている。漱石はこの雰囲気が気に入ったのであろう。ただし、「門」では「うん、然し又ぢきに冬になるよ」とし「道草」では、下記のごとく「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起つた事は何時までも続くのさ。」と平穏な春の雰囲気に浸っている妻のお米(門)やお住(道草)に、なんとなく、不安感、不得要領な気持ちをいだかせているのは、人生に片付くものはないとする漱石の人生観を表したものであろう。一つの素材を何度反復するところに漱石の力点がうかがえる。

道草百二章最終　「えゝ安心よ。すっかり片付いちやつたんですもの」「まだ中々片付きやしないよ」「何うして」

「片付いたのは上部丈ぢやないか。だから御前は形式張つた女だといふんだ」細君の顔には不審と反抗の色が見えた。「ぢや何うすれば本当に片付くんです」「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一遍起つた事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」

漱石は「硝石戸の中」を記述しながら次の「道草」の構想を得たらしい。←兄姉　母の思い出・病後の安らぎ→最後の結末の部分

「私は今までひとのことと私のことをごちゃごちゃに書いた。ひとのことを書くときに、なるべく相手の迷惑にならないようにとの懸念があった。私の身の上を語る時分には、比較的自由な空気の中に呼吸することができた。それでも私はまだ私に対してまったく色気を取り除きうる程度に達していなかった。嘘をついて世間をあざむくほどの衒気がないにしても、もっとも卑しいところ、悪いところ、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまつた。(略)本当の事実は人間の力で叙述できるはずがないとたれかが言ったことがある。まして私の書いたものは懺悔ではない。私の罪は、─もしそれを罪と言いうるならば、─すこぶる明るいところばかり写されていただろう。そこにある人は一種の不快を感ずるかもしれない。しかし私自身は今その上にまたがって、一般の人をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらないことを書いた自分をも、同じ目で見渡して、あたかもそれが他人でもあったかの感を抱きつつ、やはり微笑しているのである。」
◎ここには、文章を書く人の心得と漱石の寛大さが感じられる。、それは人間性の悪との戦いからつくられたものであり、自分自身への反省から、他人の非はたやすくは難じ得ない鷹揚な態度となっている。
◎すべての現象の上に立って、客観的な眼を走らせている漱石の微笑とは、人間全体によせる愛の心のあらわれではないだろうか。(劇作家　田中澄江　旺文社文庫「硝石戸の中」)
次回「思ひ出す事など」明治43年10月29日東京・大阪朝日新聞掲載

第95回「硝子戸の中」第7回　2月8日(土)　喫茶「坊っちゃん」にて　この日午前中珍しく雪降る　寒気大
参加者　伊賀上岩城　岡田　菊川夫妻　武内　田鶴谷　藤本　頼本　若山の10名

○三十四回　真面目な学生の丁寧で親切な好意ある態度に安堵している。当時の紳士的な学生の態度に好感がもてる。
○三十五回　子供の時分聞いた講釈の思い出。余裕のある呑気な人々のゆったりした生活が描写されている。なつかしい思い出。
参考までに
最後に「漱石の文学には、けれどもこの遊戯三昧、表現三昧のあじが、ほとんど存在してないようにみえることがある。或る「実」を写しとるために漱石は、文学を労作したのであり、或る心理を発見するために、小説の形に人物を論理したような場合もあるようである。また或る記憶を再現するために文章を健筆した気配もある。同時に漱石の随筆も、むしろ自分の生活を告白したわけではなく、自分の生活を、求められるままに売文したのかも知れない。(ここで私はあまりにも、日本古典文学、たとえば源氏物語や、随想日記ものや、つれづれ草などの発想法を尊重しすぎているのだろうか。しかし近代の文学的良心とはいったいなにか)─山岸外史「夏目漱石」の芸術と文学の章
○三十六回　兄弟の話　長兄　大一（後に大助）警視庁翻訳係　英語31歳結核　明治20年32歳
　　　　　　　　　　　次兄栄之助（後に直則）29歳結核　吉原通い　芸者買いの道楽者　父から勘当明治20年30歳
　　　　　　　　　　　　　　　　　　三兄　和三郎　直矩なおかた　勉強嫌いの遊び人　昭和6年没71歳　長男大阪朝日社員
　　　　　　　　　　　四兄久吉　元治2年3歳で没　　三女ちか　元治元　2歳　以上千枝の子
　　　　　　　　　　　　　　　　　長女さわ佐和　明治11　33歳　　
　　　　　　　　　　　次女ふさ房大正4年65歳　　以上先妻こと琴の子　二人の異母姉も派手な生活
　　　　父は結局末っ子に頼らなければならないことを、後から気がつく。復籍となる。
　どうも漱石の兄弟姉妹は羽振りのよかった時代の派手な生活が染付いているようである。明治になって急に衰えても、生活の習慣や気風はすぐに抜けるものではあるまい。それはまだまだ余裕があるからである。漱石の話にもあるように、次兄が書画骨董を売り飛ばす話がある。漱石にしても当時の帝国大学に行ける身分というのは普通の町人ではとても不可能である。
この日武内氏東京漱石山房跡を訪ねその記念館の写真を配ってくれる。タルト1本持参謝謝。　

第94回「硝子戸の中」第6回　1月11日(土)　喫茶「坊っちゃん」にて
参加者　伊賀上菊川隆　重川　武内　田鶴谷　藤本　三本　松浦　頼本　若山の10名
　この日新年早々の読書会、会長の挨拶から始った。新年には必ず和服姿で出席の伊賀上さん、今日は大島の渋い柄がよく似合う。年頭らしい雰囲気。

○二十七回「若冲の御物　鶏の図」ここでは漱石の芸術観が示される。漱石の芸術論は「芸術は平等観から出立するものではない。よしそこから出立するにしても、差別観に入ってはじめて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章もすっかり無になってしまう。」
そこで「文展と芸術」(大正5年10月15日～28日東京朝日)に次の文があるのを参考までに掲げる。
「芸術は自己の表現に始って、自己の表現に終るものである。」─この命題は全４回繰返し出てくる。漱石の力の入れようが示めされている。昨年の日展の理事長の篆刻部門の審査結果に対する「お詫び」の言葉など現在のわが国の日展のありようを物語っているようだ。漱石もいっているが、特に部門によってはこの傾向は強いのではなかろうか。

「外の言葉で言ひ替へると、芸術の最初最終の大目的は他人とは没交渉であるといふ意味である。(略)　全く個人的のめいめい丈の作用と努力に外ならんと云ふのである。他人を目的にして書いたり塗つたりするのではなくつて、書いたり塗つたりしたいわが気分が、表現の行為で満足を得るのである。其所に芸術が存在してゐると主張するのである。。従つて、純粋の意味からいふと、わが作物の他人に及ぼす影響については、道義的にあれ、美的にあれ、芸術家は顧慮し得ない筈なのである。夫を顧慮する時、彼等はたとひ一面に於いて芸術家以外の資格を得るにせよ、芸術家としては既に不純の地位に堕在して仕舞つたと自覚しなければならないのである。」
「けれども人の気に入るやうな表現を敢てしなければならないと顧慮する刹那に、此力強い自己の存在は急に幻滅して、果敢ない、虚弱な、影の薄い、希薄なものがわずかに呼吸をする丈になる。」(略)だから徹頭徹尾自己と終始し得ない芸術は自己に取つて空虚な芸術である。

○二十八回　猫の話　初代有名モデルとなった。　2代短命　家の者が踏み殺した。　三代目真っ黒な今の猫
「私の病気がだんだん快復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなって来た。なにかの因縁があるような暗示を受ける。馬鹿らしいと思って微笑する。漱石はここにいくらかの因縁を考えたらしい。漱石は犬、猫、文鳥を可愛がった。しかし自ら世話をしたということはなかったようである。すべて家人まかせである。しかし犬や猫の死を悼む俳句から強い繋がりを感じている。

○二十九回　里子　本当の両親　下女の声など、諸家の言うように「硝子戸の中」が大正4年6月～9月までの「道草」執筆のための準備段階ともとれる。本編を執筆しながら漱石は頭の中で、道草の構想を煉っていたのであろう。

○三十回　継続ということ。「所詮われわれは自分で製造した爆裂弾を、思い思いにいだきながら、一人のこらず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いてゆくのではなかろうか。ただどんなものを抱いているのか、ひとも知らず、自分も知らないので、しあわせなんだろう。」

○三十一回　喜いちゃんのあわれな身の上が語られる。彼が漢学が好きだつたというのも、普通の長屋の住人ではないようだ。
　父は銀座の役人だったが贋金つくりの嫌疑で獄死したという。教養人だったのだろう。そういう遊び仲間がいたからこそ、少年　金之助も自然と漢詩文に興味を持つようになったのではないか。蜀山人の自筆本を25銭で買わされ、解らないが満足感を得た。
　蜀山人の自筆本を所蔵するというのはいくら江戸時代でもそうざらにあるものでもあるまい。

○三十二回　満足感の裏に、ぼんやりと潜んでいた不快。─不善の行為から起る不快。金之助は喜いちゃんが返すという25銭を受け取らなかった。「僕はやるんだよ。僕の本だけれども、ほしければやろうというんだよ。」少年金之助は「私は何の意味なしに25銭の小遣いを取られた」という。しかしこれは、一般には理解できない一人よがりの行為である。『坊っちゃん』の氷代を連想する。『道草』における養父母の吝嗇でありながら不思議に金銭に寛大であることからは養父母の打算を敏感に見て取っている。第三十八話の金銭消費の少年時代の夢の話、留学時代については「断片」に(一)金の有力なるを知りし事の記述からは、金銭について合理的認識を得たのであり、第十五話には、学習院の謝礼についての、一般には理解しがたい一人よがりな、すっきりしない態度が示され、『こころ』では「金を見るとどんな君子でもすぐ悪人になるのさ」という会話がある。『明暗』の津田と小林のや｢野分｣｢それから｣その他にも金銭にまつわる話は多い。漱石文学の一つの柱が見えてくる。

○三十三回　文末の「今の私は馬鹿で人にだまされるか、あるいは疑い深くて人を容れることができないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に満ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう」これは漱石がいかに生きることに真剣であるかを語る言葉である。正直に自己告白の言葉である。漱石の人間としての弱さも垣間見える。しかし、そこに人間としての信頼性もある。このような不安や悩みがあってこそ小説も生まれるのである。慢性胃潰瘍の漱石は自分自身の身を削って著作したとも言える。「ただ神経衰弱にして狂人なるが為め「猫」を草し、「漾虚集」を出し、又「鶉籠」を公けにするを得たりと思へば、世は此神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの至当なるを信ず」(文学論序　明治39年)と言っているが、このように自分自身を理解し、それを克服しようとした自分自身に対する漱石の自負が感じられる。次回第95回は都合により、2月8日に予定変更する。

第93回「硝子戸の中」第5回　12月7日(土)　喫茶「坊っちゃん」にて
参加者　伊賀上岩城　岡田　菊川　重川　武内　田鶴谷　藤本　三本　松浦　行本　頼本の12名

○二十二回　病気
　「すべて己というものの居りどころを忘れがちな人間の一人として、私は死なないのが当たり前だと思いながら暮している場合が多い。」誰しも自分だけは大丈夫と思っているから安閑として生活できるのであろう。
　「彼が死んで私が生き残っているのを、別段の不思議とも思わずにいる時の方が多い。しかしおりおり考えると自分の生きている方が不自然のような心地ちにもなる。」大正初期、わが国の平均寿命も50歳そこそこであったろうから、漱石も満４９歳も近くなれば　次第に寿命について考えるようになつたのであろす。以下は参考までに。
　　　　漱石49　島木建作42　石川啄木26　樋口一葉24　松尾芭蕉50　正岡子規35　最近の平均寿命79
　　　　セネカBC1～AD65　70歳ローマ帝国の哲学者　政治家「多忙から自由になること」もっとも賢い生き方→心の平安を保ち続けること。
　　　　織田信長　満48「人間50年下天のうちにくらぶれば夢幻のごとくなり」の一曲ばかりを最後に舞ったとされる。
○二十三回　生家
　町名もない田舎であった土地に菊井町と名付け、(生前父が区長であることを)誇りにした父の虚栄心を、「今になって考えてみると、いやな心地は疾くに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。」と往時を偲び父に対する気持ちも変化した。夏目坂も父がつけた。過去の残骸のような家は「早くそれが崩れてしまえばいいのにと思った」とある。どんどん土地開発が進む郊外では、そんなきもちにもなるだろう。─「影参差松三本の月夜かな」明28年 ─残っている松を見て、ありし日の我が家のたたずまいをしのんだものであろう。
○二十四　哀れな19歳の自殺した女の話　─あなたならどうする─「私の心はどうしても、その相手にひき付けられることができなかった」とその男はいう。。若い女は義理のために死んだ。近松の世界の延長である。─哀れな物語　明治の世の中。
○二十五　大塚楠緒子(明治43・11・9没)の思い出　「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」漱石の代表句　詞書に「床の中で楠緒子さんの為に手向けの句を作る」以下は『漱石俳句研究』に収録する上記句についての門下東洋城の批評である。「あるほどの菊─無限の哀悼の情が、追悼の句として模範的なよい句。」同　菊─気高い感　東洋城「投げ入れ世よ─懇意な人が亡くなったという気持ちか捨て鉢なところもあるが反面痛切感もある」。(漱石俳句研究)　同時作　棺には菊投げ入れよあらんほど。楠緒子来訪時「私は妻と喧嘩していた」─正直
○二十六回　郵便脚夫益さんの思い出─母方の従兄─おおかた死んだのだろう。　─いつ死んだのかは知らない。哀感ただよう。当時の勉強法もしることができる。幕末から明治初期の英語の勉強法は江戸時代の漢文学習法と代る所はなかったようである。すなわち素読である。

第92回「硝子戸の中」第4回　11月2日(土)　喫茶「坊っちゃん」にて
　　　　　　　　　　　　　参加者　伊賀上　岡田　重川　武内　藤本　三本　松浦　頼本の８名
第十六回・第十七回　床屋にて大将との対話─旧居付近の変貌が語られ、知人の死亡が話題となる。身近な人の死亡で「驚いた」「ま　た驚いた」が繰り返され、漱石のかつて親しくしていた知人がもう今はいないという驚きが伝わってくる。
　「私は帰って硝子戸ガラスの中にすわってまだ死なずにいるものは、自分とあの亭主だけのような気がした」には、身近に感じてい　た人がいなくなつたという追憶と愛惜の情がひしひしと伝わってくる。
第十八回　理屈で勝った漱石─内臓の位置がはっきりと自分でわかる人は内臓の悪い人であり、始終内臓を気にする人である。
　「私は病気にはなりません」と女「それはあなたが私より偉い証拠です」と漱石、女は帰った。面白いやりとりで、招かれざる客を　問答で撃退する面白い場面。
第十九回　こどものころの寂しい町の佇まい─お北さんの長唄の声「春の日の午過ぎなどに、私はよくうっとりとした魂を、うら　らかな光に包みながら、お北さんのおさらいを聞くでもなく聞かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をもたせて、たたず　んでいたことがある。(美しい追憶の場面である。)そのおかげで私はとうとう「旅の衣は鈴懸けの」などという文句をいつのまにか　覚えてしまった。」仙太郎さんの声、活気のある「やっちゃ場」豆腐屋の油の臭い　誓閑寺の鉦が漱石の心に染付いていて忘　れられないという。お北さんの長唄の声、活気のある「やっちゃ場」の声、誓閑寺の鉦─ここでは淋しい風景となつかしい人　の声と豆腐屋の臭いと夕暮れの寺の鉦の音が子供の頃の思い出を一層かき立てる。感覚的である。
二十回　場末の豆腐屋の隣の和良店亭(わらだなてい)そこのお藤さんという器量よしの娘、母から小遣いをもらって講釈を聴きに行っ　た少年金之助、薄暗い土手とともに思い出はつきない。「半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋もおのずと目先に浮んで来る。縄暖　簾の隙間からあたたかそうな煮〆の香が煙とともに往来へ流れ出して、それが夕暮れの靄にとけ込んで行く趣きなども忘れることが　できない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木かな」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためで　あった。」(頼本　註)この句碑は現在道後公園北入り口左、子規博の駐車場の傍に立っている。漱石明治28年の暮、鏡子夫人との見　合いのため上京した。明けて29年1月子規庵の句会に出席。会した人、子規、鴎外、瓢亭、漱石、虚子、可全、碧梧桐、鳴雪の八人　、今日文豪と言われる鴎外と漱石をはじめ、名だたる俳人が揃った空前の句会であった。既に名を成していた鴎外と無名の漱石は席　上一言も言葉を交わさなかったという。漱石松山時代の作とされ、昭和61年国際ロータリー大会記念にこの場所に建立された。
　　なお、碑は2句1碑で、子規の句は「ふゆ枯れや鏡にうつる雲の影」である。
二十一回　十九・二十・二十一回は少年の日の思い出が語られる。ガラス戸の中で病後の体をいたわりながら、昔の追憶にふける静か　な落ちついた精神状態であることが窺える。二十一は姉たちの夜中から夜中までの芝居見物の華やかな話を聞かされたことで夏目家　の羽振りのよかった当時を想像している。夜中に舟で出かけ夜中に帰る．着飾った芝居見物の女たちを乗せた屋形船が神田川から墨　田川へ出てゆっくりと上ってゆく、ぼんやりとした提灯が川面にゆれて想像するだけでも美しい浮世絵の世界である。なお、この日　は松浦女史が英文「硝子戸の中」(一部分)、明治現代物価対照表(半藤)他を持参、岡田敬学氏のお菓子の差し入れがあった。
第91回読書会10月12日(土)「硝子戸の中」(第3回)　
　例会との関係で1週間遅れとなった。　参加者は　伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、重川、武内、藤本、松浦、行本、頼本の11名。
　
　まず、前回の「死は生よりも尊い」ということがよくわからないという質問が出た。そこでもう一度考えるとしよう。
　相談に来た女性は自身の恋愛体験を汚さないために、死を選ぼうか、それともこのまま生きていようか、と悩む。意見を求められた漱石は、「生きるということを人間の中心点として考えれば」生きつづけるべきだし、「美しいものや気高いものを一義に置いて人間を評価すれば」死ぬことに賛成するという矛盾した結論になった。しかし、本心ではこの時期の漱石は「死は生よりも尊い」と考えていた。「死は不愉快に充ちた人生」を生きている人間の達することのできる「至上最高の状態」だと信じるようにさえなっていた。しかし一方で先祖代々受けついできた生を断ち切ることはできないで、「この生に執着している」だから他人に向かってする忠告も、どうしても、「この生の許す範囲内」でするということになり、彼女に対しても、「すべてを癒す時の流れに従って下れ」ということになった。しかしそう忠告したあとで、自分の本心と自分の忠告との間の矛盾に苦しくなる。彼は「生よりも死を尊い」と信じながら、なおかつ生きて行けと他人に説いた自分を、実行者としては「凡庸な自然主義者」にすぎないのではないかと疑う。
漱石はこの時期の作品である「こころ」で主人公を自殺させた。「美しいものや気高いものを」身に付けたまま汚れのない魂で人生をまっとうできるということは美しいことであり、尊いことであるに違いない。死によって自己を貫くこともできるのである。
よって「死は生よりも尊い」ということになろうか。
第十一回　原稿指導の話　小説とは平安の昔に紫式部も言っているように、虚構ではあるがその中に真実を語ることである。
真実でないものは嘘である。真実を語ろうとすることは即ち自分を解放することである。こだわりがあっては自由になれない。
　こだわりを捨てて自由になること、そうすれば正直になれる。そのような作者によって書かれた作品は必ずや読者に歓迎される。
そう話すところに誠実な漱石の人柄があらわれている。しかし、厚かましい自分を売りもうとする来客にはさすがの漱石も応対にだんだんいや気がさしたのであろう。
　第十二回　変な男の短冊の依頼の話。世の中には厚かましい人もいるわけで、漱石は「おおかた気違いだろう」といっている。　
愛媛県文化協会の会報「愛媛文化」にも漱石に蔵澤の絵を贈呈して、代りに漱石の絵を貰おうとしたW氏の話が出ている。ただしこの人は厚かましい部類の人ではなかったようだ。
第十三回　同　負けず嫌いの漱石の断面が出ていて面白い。
第十四回　半兵衛さんの頭─おかし味─幕末は物騒な時代あった。「硝子戸の中」には漱石の母の話がしばしば出てくる。母は父よりもしっかりもので子供の金之助から見ても賢そうに見えたという。母のお陰で父も怪我をせずに済んだのだろう。
第十五回　学習院の謝礼10円についてのお話。どうも漱石はきまぐれでごねている感がする。どうでもよいことである。10円をある芸術家に贈ろうと思っていたという話は『明暗』にもある。漱石の一人よがりの気がするが、「畔柳はにやにや笑いながら帰って行った」というところに、漱石も自分の言動を理解して書いているようだ。

第90回読書会　9月7日(土)『硝子戸の中』第六～十を読む
　　今回の参加はは、伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、重川、関、武内、田鶴谷、藤本、行本、三本、頼本、若山のレギュラー14名。
それにはるばる東京新宿区のNPO「漱石山房」会員村上弘月さんの参加で合計15名の参加であった。
○第六回　女の告白　「漱石の思い出」の中には食わせ者として出る。「たくさんある黒い髪の毛も自然私の注意をひく種になった}
のだが、漱石が気にしているように、夫人はハゲであった。自分の妻と比較したのだろう。○第八回「不愉快に充ちた人生をとぼとぼたどりつつある私は、自分のいつか一度到達しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達しうる最上至高の状態だと思うこともある。(こころの主人公を自殺させる。)漱石の人生観「死は生よりも尊い」本来の自分には死んで初めて得られる。

私はついにその人に死をすすめることができなかった。─すべてを癒す「時」の流れに従って下れといった。常に生よりも死を尊いと信じている私の希望と助言は─私は今でも半信半疑の目でじっと自分の心をながめている。
○第九回　旧友　太田達人「東大理科大卒)　出された栗饅頭を持ち帰るものごとに拘らぬ校長。会員藤本氏が資料を示し、この栗饅頭は漱石宅から持ち帰ったものではなく、夏目家に立ち寄る前に訪問した、恩師の家からもらったものであったという記述があり、
そのことを達人は釈明しなかったという。そうとしたら、この随想の虚構性がますますはっきりしてくるのだが。
○「いやに澄ましているな」「うん」私はその時、透明ないい心地がした。人間として謙虚・素直な人物に思える。
『満韓ところどころ』(十三)の中村是公・橋本左五郎に対しての記述は不遠慮で太田とは対照的。
『思い出すこと事など』(二十四)で漱石の風流心に泥を塗った」と評された「岩手の者」もこの太田達人であろう。
そのもの言いとは漱石は理想とする山水画を見て、できればこんな俗世を離れたところに「生涯に一遍でいいからこんな所に住んでみい」といったところが、「岩波全集03年版P535の註にあるOという人」が「君こんな所に住むとどのくらい不便なものだか知っているかと気の毒そうに云った」とあり、「余は成る程と始めて自分の迂闊を愧づると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ」とある。Оは註に太田達人のこととある。漱石の負け惜しみが面白くえがかれている。実際絵画というものは必ずしも実景を描くものにあらず、心象風景もあるわけで、Оのいうことは芸術を知らぬものの言いであるから、漱石の言うのは当然である。
実際には日本でも中世以前の寺院とか、西洋の修道院とかは、人里遠く離れた山中で豆腐屋へ二里、酒屋へ三里という生活をしたのである。漱石の理想とする精神生活の一端が伺えて面白い。漱石は陶淵明の「菊を採る東離の下」が好きだったという。実業家中村是公や
理系の人太田達人には分からなかったかも知れない。

第89回読書会　8月3日(土)『硝子戸の中』第一～五を読む　　
　　今回の参加はは、伊賀上、岡田、菊川夫妻、重川、関、武内、土居、藤本、行本、三本、頼本、若山のレギュラー13名。
それに愛媛大教育学部の佐藤栄作教授が久しぶりの参加で合計14名の参加であった。

○成立　大正4年1月13日～2月23日まで東京・大阪朝日新聞に39回にわたり連載された随想であり、作者は書斎の硝子戸の中から、瞑想にふけり、回想にこころをまかせ、来訪者と対話したりした、日常の心の起伏を思いつくままに書き連ねたものである。
その点では「あやしうこそものくるほしけれ」という吉田兼好の『徒然草』に似ている。
初版は大正4年3月28日岩波書店刊。日本近代文学館発行の複製本1ページの見出しでは「ガラスどのなか」のルビがついている。
　漱石の自装本で、デザインは更紗模様集「はなふくさ｣から取っている。(昭和4年版全集月報17号)
○大正4年1月1日寺田寅彦宛年賀状には「恭賀　新年　夏目金之助　一月一日　東京牛込早稲田南町七番地」その余白に
「今年は僕が相変って死ぬかもしれない」とある。翌年12月の自身の死を予感しているような不吉な年賀状である。
○執筆状況を年譜で見ると「こころ」(大正3・4～8)「硝子戸の中」「道草」(大正4・6～9)『明暗』(大正5・5～12)であり、
『こころ』と『道草』の中間であり、その当時の漱石の思想ゃ感情を知るのには、この安定した安らかな随想の内容は非常に役立つと思われる。ちなみに翌年大正5年の年頭の随想は「点頭録」(大正5年1・1～1月10、同年1,12～14日)であり、漱石の視点は戦争や軍国主義をどのようにとらえるかを凝視している。
○第一回　序「私は今これほど切り詰めた時間しか自由にできない人たちの軽蔑を冒してかくのである。」「要するに世の中はたいへん多事である。」「ただ春になにか書いてみろと言われたから、自分以外あまり関係のないつまらぬことを書くのである。」註　大正3・7・28第一次世界大戦・桜島大爆発・東京降灰・シーメンス事件他
○第二回　写真の話「私は生まれてから今日までに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験が何度となくある。その偽りが今この写真師のために復習を受けたのかもしれない。」この時の写真は確かに口元に修整がくわえられ、微笑した顔になっている。03年版岩波全集第12巻の註によれば、この雑誌はニコニコ倶楽部発行の月刊雑誌大正4年1月号「ニコニコ」である。創刊以来名士の笑顔を掲載している。しかも正月号であるからには、当然しかめっ面はよくなかったのであろう。
○第三回　犬の話　「漱石の思い出」の中では漱石は犬好きで、女中のテルも犬好きで、一匹だけでなく、死ねばつぎつぎに何代も飼っていた。ヘクトーという偉い名前の犬は、(考えて付けている)家族みんなから大事にあつかわれた。そのせいかへクトーの病気も治る。注意を払われなくなったとき犬も死んだ。小品『文鳥』(明治41年)の死に似ている。
○第四回　同やがて家族からも大事にされなくなって犬は病気になる。反対に私の病気はだんだんよくなる。
○第五回　同「車夫は筵に死骸をくるんで引き取って帰ってきた。「私はわざとそれに近づかなかった。」あまりかまってやれなく、かわいそうそうなことをしたという反省の気持ちからか。猫の墓近くに埋めて
「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」わが犬のために10月31日(大正3年)と一句を小さい墓標に書いた。「しかしまもなく二つとも同じ色に古びて、人の目につかなくなるだろう。」犬への愛情と哀愁がある。「文鳥」にも似ている。

第88回読書会　『カーライル博物館』　を読む　　
　　
今回の『カーライル博物館』は、伊賀上、岡田、菊川夫妻、重川、関、武内、田鶴谷、藤本、行本、三本、頼本の12名。
談話の途中で東京へ栄転の光石夫妻が挨拶に来られた。
発表は『学鎧』明治38年1月号
体験　漱石は1901年　明治34年8月3日　池田菊苗とともにカーライル博物館を訪れている。(増補改訂漱石:研究年表)
「倫敦塔」は「帝國文学1月号明治38年1905　「吾輩は猫」は「ホトトギス」1月号で「カーライル博物館所蔵カーライル蔵書目録」は学鐙2月号となっている。蔵書目録を作るこらいだから、関心の大きさが伺える。文中「余は倫敦滞留中四たびこの家に入り四たびこの名簿に余が名を記録した覚えがある。この時は実に余の名の記入初であった。」と記しているが、実際にはこの時以外漱石の記名はないという。漱石より以前にここへ入った日本人は1900年に1名、博物館になってからは、88年に1名、90年に新渡戸稲造が訪れている。新渡戸は1902年にも。(全集註)

「閉そうにも閉しようもなく、日常的な外界は間断なくこの家の内部に侵入して来る。したがって「余」は、カーライルに倣って四階の屋根裏に上がり、僅かに街と切り離された安全な空間を求めようとするが、そこもまた「下界の声が呪いのごとく彼を追いかけて旧の如くに彼の神経を苦しめた」場所であった。

このようにして、『倫敦塔』が、閉ざされた空間に「空想」された詩的・劇的幻想の現存性を証明しようとした作品だとするなら、
『カーライル博物館』は、閉ざすことのできない日常的現実の只中で、幻影を求めるのがいかに不可能であるかを、苦いユーモァをかみ締めながら傍白してみせた散文的な作品だということになりそうである。つまり、この二つの「留学ものは」表裏一体をなしている。あるいは内と外から、過去の現存と不在を照らし出してみせている。(江藤淳　岩波文庫解説)「偉人作を読み、偉人の卓見に同感し、偉人の才能を畏敬する者は、偉人の友なのではあるまいか。ならばカーライルこそ我が友、カーライルこそわがヒーローだ」(「学友」原英文1889・6・15 )と漱石は言っている
○ジスレリーの周旋にかかる年俸を斥けて四角四面に暮す─四角な家─余は倫敦滞留中─四度この家に入り─四度この名簿に(略)上記のごとき四角四面な生活は漱石の理想でもある。漱石は四角四面なカーライルが好きだった。それがカーライル博物館を訪れた理由であろう。「猫」には『衣装哲学』が出てくる。
─銀牌類と寿命の比較─庭も四角、カーライルの顔は四角ではなかった─彼の顔は決して四角ではなかった。懸崖の中途が陥没して─細君は上出来のらっきょのような─婆さんはあんぱんの如く丸い─うらなり　たぬきの『坊っちやん』を思わせる。
○チェイン・ローの街の説明─学者・芸術家の街、二階の窓から見える風景─当時とは全く異なっている。ウエストミンスターもセントポールも見えぬ。書棚には135冊の本がある。書名を写し取って「学鎧」2月号で発表。三階　質素なベットと風呂桶、婆さんの声が「横浜の人の挨拶を聞くように聞こえる。」─ロンドンで漱石と交際のあった渡辺和太郎(横浜商業卒で後に渡辺銀行副頭取)のことか。岩波全集に12本の書簡収録あり。
四階　ここは屋根裏、そこが書斎　彼は彼の文章の示す如く電光の人であった。癇癖の人であった。カーライルを苦しめた声とは街の人々の声であり、ショーペンハウエルを苦しめた声もそうであった。一層を下るごとに下界に近づく心地がする。庭には愛犬ロニが埋められている。
○1時間の後、倫敦の塵と煤と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界の如く遠き方へと隔てた。─カーライル追慕の世界から現実世界へ引きかえさせられた。○尊敬するカーライルの住んでいた町に行ってみると建物調度品はそのままだが、すっかり雰囲気が変わっていた。カーライルの生活ぶりを想像し感慨ぶかいものがあったが、窓から見える景色はまったく様代わりしていた。
○カーライルに惚れこんだ漱石「猫七」の中「カーライルの衣装哲学」が出てくる。
○「硝子戸の中」にも昔の風景を思い出し、懐かしむ章がある。

第87回読書会　『一夜』　を読む　　｜　次回第88回は7月6日(土)13時30分より　　
(6月1日)－終了－　　　　　　　　　　　　　　　　　　　喫茶「坊っちゃん」にて
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　『カーライル博物館』を読む　
　
今回の『一夜』は内容が理解困難とみられたせいか参加者が平常の半分であった。
参加者は伊賀上、戸田、土居、岩城、藤本、若山、頼本の7名。

初出　『中央公論』明治38年9月号
発表当時の世間の評判はどのようなものであったのか、漱石書簡をてがかりに考えてみよう。
野間真綱宛38・9・5「「一夜」の批評難有拝読あれはだれもほめてくれ手があるまいと思っていた」─ここには作者自身
一般の理解が得られぬという予想があったことがうかがえる。
中川芳太郎宛同9・11「一夜」の批評拝見大変なほめ方で少々恐れ入った次第。しかし悪口されるより愉快です。
今日高等学校へ行ったら畔柳がわからないといふたから、わからんでも感じさへすればよいのだといふた。(略)─褒めてくれる学生もいるので素直に喜んでいる。中川は英文科の学生の中では最も秀才であって、漱石の信頼も厚つかった。畔柳に対しての、「わからんでも感じさへすればよいのだ」の言は『一夜』理解上の一つの手がかりになるだろう。
高浜虚子宛同9・17『一夜』御覧被下候段難有候。御批評には候へどもあれをもっとわかる様に書いてはあれ丈の感じは到底出ないと存候。あれは多少分らぬ処が面白い処と存候。あれを三度精読して傑作だといふてくれたものが中川芳太郎君であります。(略)
「あれをもっとわかる様に書いてはあれ丈の感じは到底出ない」ここに漱石の『一夜』に対する一般の小説とは異なる小説にしようという自負と漱石一流の皮肉が込められているとみるべきであろう。漱石の言を素直に聞くべきであろう。
高浜虚子宛同11月11日(坂本四方太)先生大気炎で漱石も一夜を書いてゐるうちはよかったが近頃段々堕落すると云ったさうだ。四方太先生はこんな元気はない人だと思ってゐた。えらい事になりました。僕は秋晴れや秋曇をかいて満足してゐられる様になりたい。其方がどの位個人として幸福かしれない。僕がかくのは、冗談にかくんじゃない。まづくても下手でも已むを得ずかくのである。冗談なら文章を書かずに教師丈でひまがあれば遊んであるいてゐる。
小生今後の傾向は先ず以って四方太先生の堕落的傾向であります。甚だ厄介ですな。小生が好んで堕落するんじゃない。世の中が小生を強ひて堕落せしむるのであるか。──坂本四方太は文科大学卒業の「ほととぎす」の写生文作家で、性格のおとなしい、几帳面な人であったそうだ。「近頃段々堕落」は何を指していったものか。漱石は『一夜』の後、『猫』六(九月)『薤露行』(11月)『趣味の遺伝』(1月)を執筆している。それらが「堕落」とは考えにくいが、それらを「近頃段々堕落」などと評されたのが癪に障ったのだろうか。

現代の評論家による批評

江藤　淳　岩波文庫解説　「私はこの作品は「判じもの」といったけれども、それは『一夜』が文字通り謎のような作品で作者が何をいおうとしているのかかならずしも判然としないからである。しかし、この「判じもの」を解く手がかりは、おそらく一人の女を囲む二人の男という『一夜』の構図そのもののなかにある。これを手始めとして、『薤露行』『それから』『門』『行人』そして『明暗』と、漱石はその短い作家的生涯のあいだに異例に数多くの姦通小説を書いている。だから『一夜』の「判じ物」を解く鍵は、おそらくこの一連の姦通小説のなかにあるはずだと思われる」──二人の男と一人の女が夏の一夜をとある八畳の座敷で過ごす。そのことを以後の姦通小説と結びつけて「解く鍵」があるはずとするのは、説明不足であろう。あゝそうですかと言えるものではない。
三好行雄　別冊国文学No39夏目漱石事典
『一夜』のモチーフの発端は夢を現実に持続するのが不可能だとしたら─「百年は一刻のごとく、一年は一刻のごとし。一刻を知れば正に人生を知る。」その一刻の人生を逆に夢に代えてみせることにあった。漱石自身が朦朧体をみとめたように、とりたててドラマはない。東京のある場所に三人の男女がおちあい、意味ありげな、それでいて含蓄の多い会話をかわして寝てしまうというだけの他愛ない物語である。『一夜』の世界にただあざやかなのは、雅の夢を右から書き、左から描く作者の眼と手であって、漱石一流のタームを借りていえば、『一夜』は低徊趣味を具体化した短編、〈表現すること〉を主題とした作品ということになる。(略)──納得できる説明であると思う。
作者自身の作品の中で、　○『猫』(六)詩人越智東風が「先達ても私の友人で送籍という男が『一夜』という短編をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがないので、当人に逢って篤と主意のあるところを糾して見たのですが、当人もそんな事は知らないよといって取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」と言わせている。越智東風をして送籍という男を「詩人」と言わせている。このことは見方によっては『一夜』は韻文ではないが、詩人の作品であり、詩のような文章であ。即ち言葉を変えると「夢のような文章」と言いえるのではなかろうか。
○八畳の座敷に髭のある人と、髭のない人と、涼しき眼の女が会して、かくの如く一夜を過ごした。彼らの一夜を描いたのは彼らの生涯を描いたのである。(略)人生を描いたので小説をかいたのではないから仕方がない。（『一夜』末尾）

さて、ここからが問題である。漱石はいったい何を描いたのだろうか。一読して理解できることは描かれた素材である。
○まず人物は、髭ある人については「美しき多くの人の、美しき多くの夢を‥‥」二たび三たび微吟したというから、前述の越智東風のいう「詩人」ととれるが、漱石自身がモデルのようでもある。もう一人の丸顔で剛き髪を五分に刈りて髭貯えぬ人物も「脚気かな、脚気かな」と無粋にも髭ある人の話を茶化して腰を折るのだが、髭ある人と同調しないところなど、なんとなく漱石の半身のようである。女性は「暖かき大理石にて刻める頸筋が際立ちて男の心を惹く」「涼しき眼」の女で橋口五葉の絵にあるような美人である。「画になるのも骨が折れます」と女は二人の眼をうれしがらしょうともせず、膝にのせた右手をいきなり後ろへ廻して体をどうと斜めに反らす。丈長き黒髪がきらりと灯を受けて、さらさらと青畳に障る音さえ聞こえる。」美しい女性のポーズである。漱石の絵画的知識が如実に出ている。『一夜』ほど美人を克明に描いた作品は他にないのではないか。女性描写では『虞美人草』の藤尾でもこの女性には及ばないだろう。
○次に作者の美術的知識による素材─調度品　香炉・香、紫檀の蓋、つまみ、掛け軸・蚊遣火・花器、花、蜘蛛、蟻、葛餅、庭、手水鉢、五月雨、団扇、座布団、浴衣、俳句、漢詩、ほととぎす、隣家の合奏─これらを見渡すと漱石が何を描きたかったか明瞭である。三好行雄が言うように「雅の世界」を描いたものであろう。文体は写生文的で写生文ではなく、幻想的要素を持っている。　

第86回読書会　　『倫敦塔』を読む　5月11日　
　
この日の参加者は伊賀上、岡田、菊川夫妻、関、武内、田鶴谷、土居、光石、三本、松浦、若山、頼本の13名。
　三本氏の司会で進行した。三本氏は簡単な漱石の「創作初期の年表を配布した。他にも松浦氏がが「倫敦中心部の俯瞰図」を配布した。

感想　一般的見学記とは異なる,空想を加えた印象記であるというのが大多数の感想であった。

『倫敦塔』は明治37年(1904)の暮に書かれ、『帝國文学』の38年1月号に発表された。同年1月『吾輩は猫である』(一)「ホトトギス」に『カーライル博物館』を「学鎧」に発表、漱石自身は「猫」よりも力を入れていたらしい。(明38・1・20付皆川正禧宛)
『倫敦塔』読んで二王子の様子など、細部にいたる描写があり、漱石の想像力に驚いたのであるが、漱石自身がドラロッシの絵画が「少なからず影響した」と書いているので、そうだったのかと納得できた。また、私(頼本)は3月26日～5月6日まで開催の『夏目漱石の美術世界』展を見学したが、ロンドン大学蔵のJ・E・ミレーの「ロンドン幽閉の王子」が出品されていて、この絵も漱石は見ていたのであろうと想像できた。ちなみに、増補改訂　漱石研究年表(荒　正人)によると漱石は明治33年10月28日ロンドン　ビクトリア駅着、31日にはロンドン塔を見学し、夜は観劇している。このことから想像すると、
大岡昇平の「「猫」は素手で書ける。『倫敦塔』は歴史的資料が必要で、留学中から『カーライル博物館』といっしょに構想があったかも知れないと思います政治、陰謀のために犠牲になる哀れな人間という歴史的構図です。思想的、社会的といわれる彼の文学の特色が出揃っていますし、また後にかれる「幻影の盾」「韮露行」の中世趣味を予告しています。」というのも頷ける。」

ここで大岡昇平の文の一部を参考までに挙げる。「二年の留学中只一度倫敦塔を見物したことがある。その後再び行こうと思った日もあるが、やめにした。人から誘われた事もあるが断った…」これは多分うそで文飾です。何度か行って印象を確かめ、案内記を参照し、他人の印象記や歴史画を参照して書いたのだろうと思います」「大岡昇平「小説家夏目漱石」「猫」と「塔」と「館」」
確かに2007年発行の江戸東京博物館開館15周年記念展図録を見ると、4冊の旅行案内書、地図類が出ている。これらを片手に漱石が
ロンドン市内を尋ねまわった様子が偲ばれる。ちなみに漱石が留学中見学した美術館、博物館は10箇所に及ぶ。( 「漱石の美術愛」推理ノート
新関公子)
「小説として扱われた─というよりも、一般に「文」として尊重されたのだと思います。(略)むろん『倫敦塔』は時評家に学者の書いた「短編小説」として受け取られたのですが、それ以前から「美文」というジャンルがあったことを忘れてはなりません。(略)「猫」もまた写生文という「文」でした。これは子規が提唱したもので、(略)写生文は目に見える物を、はっきり書くということで、たしかに近代日本のリアリズムの一方の起源です。しかし、「文」の中には「山」がなければならぬ、という変に実際的な主張があって、主旨一貫しないところがあった。子規没後、むしろ主観色の濃い変種が出ていた。『猫』もその一種です。漱石は仲間内のことであるし、楽な気持ちで書いたのでのびのびとした筆運びになっています。そして、そこに含まれていた写実的なもの、家庭生活の描出などが、のちの漱石の作品の主流となつたのは、奇妙な因縁でした。」(同書)
『倫敦塔』は美女斬首が「山」を形づくっており、「カーライル博物館」は死んだ独身思想家の遺宅、遺品訪問記です。その「山」は棺桶みたいな書斎の天井の明り取りを開けたら、今まで聞こえなかった遠い音が聞こえてきた、という日常生活の中の怪奇譚です。ただ『倫敦塔』や「カーライル博物館」は、詩と小説の混交の文ですが、続いて発表した「幻影の盾」には西欧中世風恋愛至上主義があり、「韮露行」には姦通がある。これは洒脱な「猫」にはないもので、しかも「それから」以後、彼の作品群のメーンテーマとなる。文学者の処女作にはすべて含まれている─この言葉には処女作を乗り越えられないとの悪意がこめられていて、テクストと作家の回顧的解釈ですが、漱石が明らかに意識して配列した同月発表の「猫」『倫敦塔』「カーライル博物館」には、彼のロマンチシズム、文明批評、笑いが出揃っていることは事実です。(同書)
「猫」で読者を笑わせるだけではあまり高級ではない、そこで国家と王侯に関し、威厳のある「倫敦塔」を追いかけて発表して見識を示そうとしたのかも知れません。「倫敦塔」に少し美文の気味が、混じっているのは、おわかりでしょう。「帆船」と「艪」を使う「伝馬船」を出して、散文的な蒸気船を出さなかったところが、そうなのです。川を渡って塔へ入るのが第一の「山」、次に「神曲」の「此門を過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ。」の引用が第二の「山」ですが、「神曲」の引用個所は周知のように地獄の入り口のことですから、それに比べるのは、ちょっと大袈裟だつたかな、とあとで反省しています。
　とにかく漱石は『草枕』『野分』『虞美人草』に到るまで美文意識がぬけず、また文章家として人気があつのでした。しかし時代と風俗の変遷は、漱石を男女関係のより真面目な扱いの方へ押しやり、それを心理的に説明するのに適切な『三四郎』の言文一致体を完成させたといえます。(同書)
記述　導入部は過去形で門をくぐって内部に入れば現在形になる。
次は喪服の女が「逢う事を許されてか」と女が問う。「否」と気の毒そうに男が答える。「逢わせまつらんと思えど、公けの掟なれば是非なしと諦め給え。私の情売るは安き間の事にてあれど」と急に口を噤みてあたりを見渡す。女は頚に掛けたる金の鎖を解いて男に与えて「ただ束の間を垣間見んとの願いなり。女人の頼み引き受けぬ君はつれなし」という。(略)「如何にしても逢う事は叶わずや」と女が尋ねる。
ここで森鴎外の「舞姫」と比較してみよう。小説の素材自体、全く違うのであるから、批判を恐れずやってみると。「我が心の楽しさを思いたまへ。生まれん子は君に似て黒き瞳をや持ちたらん。この瞳。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳なり。生まれたらん日には、君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせたまはじ。」彼は頭を垂れたり。「稚しと笑いたまはんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙満ちたり。
前述の漱石の牢番と女のやりとりは原典は沙翁の歴史劇『リチャード三世』だと作者自らが言っているが、「焼き直し」であるのと、想像を描く一場面である点、それなりの幻想的美しさはあねるものの、「舞姫」と比較すると、エリスが出産をひかえ、これから生まれる子の将来を思い喜びと希望に満ちている場面に対して、全く文章の張りが違う、迫力が違う。年齢的には鴎外が6歳年長だが、同様の浪漫主義的小説でありながらこうもちがうのである。
末尾に、断り書きのような、申し開きのようなものをつけたしているのは、「猫」で売り出しはしたもののまだまだ「駆け出し」という自覚があったと思われる。「ややもすると主観の句が重複して、あるときは読者に不快な感じを与えはせぬかとと思う所もあるが、右の次第だから仕方がない。」と断っているのもそれである。しかし、新しい時代に新しいスタイルの紀行文を書くという漱石の意気込みは十分に感じられる。
漱石はジェーン　グレーのような若く美しく、貞節で清純、しかも学識のある社会的女性が好きだったと想像される。漱石の想像力はドラロッシの「ジェーン　グレーの処刑」の絵を見て想像力が一層引き立てられたのである。

○(『倫敦塔』)を見物した折の記憶と英国の歴史や文学に対する豊富な知識とをないまぜることによって、夢と現実とのとけ合った─というよりむしろすべてが幻想化されたような、美しく幽暗な世界がそこには作り上げられている。しかもその世界は、間近に迫っている死の影につつまれた幼い兄弟の、弟はひたすら恐れおののいているのを、兄が聖書を読むことによってわずかに支えている場面とか、その裏にある首切り役人どもの斧を研ぐ場面とか、カーライルのメダルなどとは違った、牢獄の壁にはかなく遺された死に行く者のらくがきとかいう、頼りなく不気味なものばかりに充たされているのである。塔の歴史が英国の歴史を煮詰めたものだという以上、これが作者によって描かれた人生の一つの縮図でないとはいえぬわけだろうし、とすれば、この不気味さと旋律に充ちて、しかも逃れる術のない牢獄生活の幻想は、やがて相似た牢獄に住むかのように、手も足も出ぬほどその立場を梗塞し尽くされいた人間の、鬱屈の底にわだかまっていた実感を、端的に凝縮して見せたものだともいえるわけであろう。その意味でこれは『猫』の世界の奥深くにかくれていた作者の一つの感懐だつたことになる。梗塞される生の鬱屈を苦渋な笑いにぼかかさずにいられなかった作者が、その『猫』の最初の部分とこの作とを並べて発表したのも、だからもとより偶然ではなかったことになるのである。(略)
○そういう世界の消息が、二十世紀の倫敦子である宿の主人と無縁なもののように構想されているところにも、『猫』の持つ一面と共通するもののあるのを感じさせよう。(夏目漱石の作品　片岡良一「出発点における二作品」「猫」と『漾虚集』)
次回87回はは6月1日(土)『一夜』を読む

第85回読書会　　『琴のそら音』を読む　4月6日　
　
この日の参加者は伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、重川、武内、田鶴谷、土居、藤本、光石、三本、松浦、若山、頼本の15名。
　重川氏の司会で進行した。　　　　　　　　　　　

初出『七人』明治38年5月号　日露戦争中。個人的にはこのような死を知らせる不思議な話は戦時中はよく聞いた。例えばアッツ島玉砕後、戦死した兵士達が帰ってくるという話などである。
本文の素材を列挙すると、不気味な話として、次が挙げられる。①迷信婆　②坊主の妄言　③若い女にたたる　④インフルエンザ　⑤鏡の中にやつれた細君の顔がすうっと　⑥極楽水　二人の男と子供の棺桶　⑦青い顔色　⑧赤い火　⑨犬の遠吠え　
10静寂　11巡査の来訪であるが、最後に　12どんでん返し─幸福感─めでたしめでたしとなる。最後に落ちのあるのは落語の影響かとも考えられる。漱石にしては珍しくハッピーエンドで終わる小説であり、その上愛が主題であるだけに後味がよい。

登場人物　主人公　余(靖雄)を「K君」と友人津田は呼ぶ。法学士26歳会社員、7円50銭の借家に下女の婆さんと住む。(ちなみに漱石が借りていた早稲田南町の家は35円の家賃で当初は27円だった。独身にしては家賃が高い。いい家なのだろう))外観を気に掛けないのか露子に言われて鼻の下だけ残して髭をそる。「幽霊だ、祟りだ、因縁だなどと雲をつかむようなことを考えるのが一番嫌い」という。「元来呑気なだけに正直な所、功名心には冷淡な男」という自己批評。そうした余を脅かす一夜の出来事がこの作の中心。　婚約者に宇野露子。四谷坂町に住む。　
津田真方　余の友人26歳ぐらい。高等学校時代の同級生　心理学を研究する文学士、学生時代は秀才。現在は幽霊の研究をし、『幽霊論』を出す。余に動揺の原因の話をもたらす役割。学生時代から超心理的現象に関心があった。『哲学雑誌』に『催眠術』前半の翻訳。(漱石25歳時の文科大学の学生時、翻訳『催眠術』を「哲学雑誌」を掲載したことを材料とした)
「子供の棺桶」から、素材としての、こどもの死をピックアップしてみると、①「門」のお米　三度流産　②『心』の先生のことば「子供はできっこない。なぜならば天罰だから」③『夢十夜』の第3話「お前がおれを殺したのはちょうど今から百年前だね」④「彼岸過ぎ迄」の「雨の降る日」宵子の死(五女ひな子の急死)　⑤『明暗』の清子との温泉場での出会い。子供の死や流産を主人公の運命の転機となる小説的転機となる仕掛けとした。⑥「三四郎」子供の死について─「三四郎は切実に生死の問題を考えたことのない男である」⑦「琴のそら音」人目を忍ぶらしい不思議な葬列。⑧子規宛書簡　明治二四年8月3日付けでの嫂　登世の死を報じる。闇より闇へ」消えた胎児の運命。
○これらこどもの死が素材として取上げられている理由は、縁日の路傍で笊に入れられて泣いていた漱石の生い立ちに関係するのか。Traumaとなっているのであろうか。
結末○余の前途には柳、桜の春が群がるばかり嬉しい。神楽坂まで来て床屋へ這入る。未来の細君の歓心を得んがためだといわれても構わない。実際余は何事によらず露子の好くようにしたいと思っている。○気のせいかその後露子は以前よりも一層余を愛するような素振に見えた。─最後に落ちのある落語的小説。漱石にしては珍しくハッピィエンドで終わる小説。
笑い←→恐の対照があり、　短編としては面白い。

○西欧一辺倒の明治文化批判　風刺　　作蔵君は婆化かされよう、婆化かされようとして源兵衛村をのそのそしているのでげす。(昨夜の靖雄の姿)すべて狸一派のやり口は今日開業医の用いておりやす催眠術でげして、昔からこの手で大分大方の諸君子を誤魔化したものでげす。西洋の狸から直伝に輸入致した術を催眠法とか唱え、これを応用する連中を先生などと崇めるのは全く西洋心酔の結果で拙などはひそかに慨嘆の至りに堪えん位のものでげす。何も日本古有の奇術が現に伝わっているのに、一も西洋二にも西洋と騒がんでもの事でげしょう。
○ 漱石の幽霊批判─床屋の職人の話─なあに、みんな神経さ。自分の心に怖いと思うから自然幽霊だつて増長して出たくならあね」○昔だって今だって、こっちがしっかりしていりゃ婆化かされるなんて事はねえんだからな」……して見ると昨夜は全く狸に致されたかなと、一人で愛想をつかしながら床屋を出る。─主人公の自己反省─漱石らしい結末。漱石作品に流れる社会風刺と自己風刺がこの作品にも流れていて面白い短編である。
次回86回はは5月11日(土)『倫敦塔』を読む

　第82回読書会　夏目漱石『明暗』を読む　1月12日・2月2日・3月9日

　
　1月最初の3連休のこの日、集ったのは、伊賀上、岩城、岡田、菊川隆、重川、高村、武内、田鶴谷、藤本、光石、三本(再入会)、松浦、頼本、若山、それにはるばる東予から駆けつけた行本とよ子氏の計15名。今回は特に司会も以前『明暗』で本会での講演の経験もある武内氏に交代してもらった。
いつものごとく、参加者それぞれが感想を発表、続いて武内氏が自分の過去の論文を読んで、それをたたき台に再度各人が感想、意見を述べ合った。
　ここでは各人の感想、意見等は省略する。

初出　大正5年1916年5月26日~12月14日　東京・大阪朝日新聞大阪は途中休載があり、12月27日まで。188回で中絶。初版大正6年1917年１月26日岩波刊。量的に長編の近代小説。
　結婚間もない津田とその妻お延の物語。津田は痔の病のため一週間ばかり入院生活を送り、退院してから病後の療養のため勧められて温泉へ湯治に出かける。温泉で、かつて親しい間柄で妻となるはずであったが、他人の妻となっている清子に出会う。心から津田を愛しているお延は自分は夫からも同様に愛されたいと思っている。しかし津田の愛情はそれほどでない。お延は見栄っ張りのように描かれているが、それは津田も同様である。しかし、津田から適当にあしらわれて可愛そうな気もする。
　津田は吉川夫人から清子が温泉に療養に来ていることを聞かされ、勧められて温泉に清子を訪ねる。津田は清子に会いに来た理由をいろいろと小細工して述べるのだが、清子はあっさりして鷹揚な態度である。実際にこのような事が起こり得るかどうか疑問である。理屈を捏ね回す津田と単純明快な清子とが対照的に描かれているが、その後どのように展開するのかは残念ながら未完である。

　(伏線)第二章最後の「どうしてあの女ははあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違いない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこの己はまたどうしてあの女と結婚したのだろう。─」「彼岸過迄」の結婚に踏み切れない一郎の胸中を思わせる津田の思いであるが、この思いは、津田自身の問題のみならず、岡本夫婦、継子の縁談、小林の妹、お金の縁談、津田の妹のお秀夫婦の関係等、この「明暗」の中に繰り広げられる様々な結婚問題が織り込まれていて面白い。漱石作品の主要テーマが最後の作品まで続いている。最後に津田が結婚相手として決めていたにもかかわらず別人と結婚した清子を滞在先の旅館を訪れる伏線にもなっている。漱石はかなり綿密に構成を考えていたことが分る。
　結婚談義(二十九・三十・三十一章)あたりは面白い。藤井の叔父が自分のことだから真面目に話すのも、てれくさく面白可笑しく語っている。
　(描写)最後の清子が温泉旅館で林檎の皮を剥く場面の描写はこの一編の最も写実的精緻な場面である。
(素材)　小林医院　漱石の大正元年九月の神田、佐藤病院での痔の手術体験がそのままとりいれられている。
岡本の話　子供の結婚についての感想は、女の子の多い漱石の感想であろう。岡本夫人、朝の話し振りは、鏡子夫人の話ぶりをモデルにした感がある。
湯河原温泉　漱石は大正4年11月、大正5年1月と湯河原温泉へ保養に行っている。天野屋に滞在した。しかし、道後が一番いいと思ったのではないだろうか。漱石の作品、書簡からそう考えられる。
「明暗」その2　2月2日(土)この日の参加者、武内、高村、藤本、菊川夫妻、土居、伊賀上、若山、光石、行本、松浦、三本、頼本の13名。前回に続いて武内氏の司会で進行した。高村氏、光石氏は中途退席。今日は小説の前半が話題の中心となった。
次は私(頼本)の19章～33章　津田が叔父藤井の家を訪問する場面で次のように考える。
この部分は漱石の記述は津田由雄対延子の対決からは離れるようであるが、津田の叔父藤井は物質的不安があり、かつそれは精神的不安の元ともなる「月給というものをもらった覚えのない」(20章)雑誌編集者？であり、その家庭内が描かれ、新聞小説として世間性があり面白いと思う。朝日新聞の読者にとっても興味を引くところであろう。『虞美人草』からはじまった漱石の小説はこの『明暗』で終わるのだが、漱石作品の中でもお延とお秀のやりとりの部分以外は、会話がこなれていて、漱石作品としてはスムーズに流れ、自然体で優れた作品という印象を受ける。その上会話自体に含蓄があるのは、他の作品と同じである。漱石作品(「坊っちゃん」以外で)珍しいのは真事という少年が登場するところである。31章の「お母さん意があるってなあに」という会話など面白い。大正5年純一10歳、伸六9歳このあたりがモデルだろう。
女性登場人物の結婚問題(漱石の家庭と小説の家庭)　お朝は31章で夫の藤井の話から見合い結婚したとわかる。。藤井の二人の娘、長女は4年前に結婚し、夫に従って台湾へ。その結婚と前後して結婚した次女は式がすむと福岡へ。長男の真弓も今年から福岡の大学に。何かと出費が多い。女中のお金は小林の妹で、藤井家ではお金を近々嫁に出すことにしている。その費用の一部を学生時代に面倒を見たお返しに、津田が負担してくれたらよいのにという思惑がある。4人の女の子のいる漱石自身書簡で、「この子らが年頃になった時のことを考えると恐ろしくなる」と出費のことを心配して冗談を言っている。実際夏目家からは、鏡子の従妹になるお房さん、西村涛陰の妹のお梅さんという二人の女中を嫁入りさせているる。半年後にお房さんは離縁、お梅さんは7年めにお産のときに亡くなっている。お房さんは漱石夫婦が親代わりで、お梅さんは親代わりと媒酌人で、何から何まで世話をして二人とも苦労して夏目家から嫁入りさせたのである。お梅さんの場合は兄の西村は大連に行っていて不在だった。この辺が小林とその妹お金の境遇に似ている気がする。藤井の家庭の状況なども自身の体験をふまえているようだ。お房さんの場合は全く相手は見たこともない、知らぬもの同士の結婚であった。(漱石の思い出)高等遊民ばかりが出てくる漱石の小説は珍しくここで小林という下等遊民が出てくる。
第30章の藤井朝の「こればっかりは妙なものでね。まったく見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んできた夫婦でも、末始終和合するとは限らないんだから」という言葉に対して津田は、まじめさを欠いているとしか思えなかった。叔母の朝は「そりゃ楽な身分の人のいい草ですよ」「やれ交際だのやれ婚約だのって、そんな贅沢なことをわれわれ風情が言ってられますか。もらってくれ手があれば、それでありがたいと思わなくちゃならないくらいなものです」しかし津田はやっぱり不真面目という気がした。こういう話も戦前は現実にあった話である。
叔母のお朝の津田を見る目「叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」「いろいろ選り好みをしたあげく、お嫁さんをもらったあとでも、また選り好みをして落ちつかずに入る人よりもこっちの方がどのくらいまじめだかわかりゃしない」ここに出てくるお金さんの見合いは極端な場合であり、お朝叔母さんの場合はおそらく一般的な見合いであろう。漱石自身が見合い結婚であるし、見合い結婚は今日でもあるが、大正期はなおさら見合い結婚が多かったわけで、岡本の継子の見合いにもひき継がれる。
漱石は結婚の形態から愛情の問題を見極めようとしている。
明暗　その3　3月9日　　参加者　武内、藤本、菊川俊子、三本、関、岩城、菊川隆、重川、光石、伊賀上、行本、田鶴谷、
岡田、頼本の14名の参加。武内氏の司会で各自が感想を発表し、それに対して周囲から意見や感想をが述べた。
○「明暗」の結末はどのようになるのだろうか。未完であるからいろいろと想像もしたくなる。描きだされているものは、私の塊としての人間であった。誠実と誠実と、自然と自然とをもって触合う事なしに、我と我と、打算と打算と、体裁と体裁とをもつてのみ触れ合っている限り、人と人との間には闘争があるのみで、平和と安寧と幸福とは、ついには得られない。(略)
しかも、その我と我と、打算と打算と、体裁と体裁とのみをもって触れ合っているのが、津田とお延との夫婦関係である。( 小宮豊隆『夏目漱石』)　
○『明暗』の結末はさまさまに想像可能であるが、お延がさいごに自殺するとする説をご紹介しよう。津田が温泉へ行っている間に、吉川夫人はお延を奥さんらしい奥さんに仕上げるために「教育する」というが、もしこのとき吉川夫人が真相をうちあけたら、お延はどう反応するか。お延はかねて「生きてゝ人に笑はれるくらいなら、一層死んでしまった方が好い」と公言し(87)夫のために「何時か一度此おなかの中にもってる勇気を、外へださなくちゃならない日がくるに違いない」ことを予感している。(154)小宮はこれをひとつの伏線と見て、お延の死を暗示」(三好行雄｢『明暗』の構造」)として、最後はお延が自殺すると小宮説を紹介している。
今回は最終回なので、様々な意見がのべられたが、まとまりがつかないので省略する。それが『明暗』の最終回に相応しいかもしれない。次回は4月6日、読み残している「琴のそら音」を取上げる。司会は会員重川禎三氏。
　

　　　　結成五〇周年記念文学散歩 ─12月14日(金)実施

午前10時伊予郡砥部町　県立生涯学習センター3F集合。同所にて開催中の「安倍能成展」を学芸員冨吉将平博士の解説により見学。同時に本会展示協力による100冊の「小説『坊っちゃん』様々な形」展も見学。
同10時50分会員山本典男氏邸の漱石・東洋城句碑見学。11時10分坂村真民博物館見学。12時30分伊予市下吾川のウエルピァ伊予でいつもと異なった雰囲気で楽しい昼食。13時30分伊予郡松前町文化センターにおいて係員古川先生のご好意により、漱石真筆の恩師へ松山中着任を知らせる書簡を特別に鑑賞させていただき、お茶の接待までいただいた。
その後日本最初の漱石句碑「蒲殿のいよいよ悲し枯尾花　木枯しや冠者の墓撲つ松落ち葉　漱石」を源範頼墓のある鎌倉宮に訪ねて、小春日和の一日を満喫した。なお、参加者は高村副会長、広島から尾崎会員、東京から光石悦子会員、菊川隆文・俊子会員夫妻それに頼本会長であった。( 今回の文学散歩は都合により、東京方面は中止となり、近場となった。)　　　　　　　　　　　　　　

　　　　結成五〇周年を迎えて ─地域と会員がエネルギーの源―

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　会長　頼　本　冨　夫

　昭和三十七年九月二十三日、坊っちゃん会(当時)は松山市三番町の「きどや旅館」(漱石宿泊「城戸屋旅館」の後身)の「坊っちゃんの間」で、発会の集い兼、第一回の例会を開催しました。　そのときのタイプ印刷の案内状です。

　「坊つちゃん会創設集会の御案内　お彼岸が近づき今朝来はじめて秋らしい気持ちを味合いました。御変りなきことと御よろこび申あげます。
今朝愛媛新聞にて既に御承知のことと存じますが、同紙に「さし絵入り小説坊つちゃん」を連載し、来春には「坊つちゃん展」いわゆる漱石展開催の計画があります。それに先立ち折りよく漱石研究家で有名な東京の小林孚俊氏が来松されますので兼ねて考慮中の「坊つちゃん会」を初めることになりました。　小林氏は昭和十二年より九年間東洋レーヨン松前工場に技師として松山に在住された方で著書に「漱石と坊つちゃん」があります。九月二十三日午後一時半から三番町きどや旅館にて集まることになつていますから是非に御繰合せ御出席をお願いいたします。　　　昭和三十七年九月十九日
　　　　　　　　　　　　　　　　　　坊つちやん会　　　　創設世話役　富田狸通　　　岡　達雄」　　　　　　(以上原文のまま)
　そのときの芳名録を見ますと、トップに名著『漱石と坊っちゃん』の著者小林孚俊(たかとし)、軍人で日露戦記『肉弾』の著者桜井忠温、元朝日新聞学芸部長で郷土史家越智二良、ヤママン百貨店主山本冨次郎、世話役に富田狸通(俳人)、岡達雄(愛媛広告協会長)等、当時松山の文化人十八名の署名がいずれも達筆で認めてあります。
　このときの小林氏の講演は「坊っちゃん遍歴二〇年―松山と漱石、坊っちゃん談義―漱石と多佳女」というものでした。会費は一五〇円、田毎庵の天ぷらそば、つぼ屋の坊っちゃん団子、柳桜堂のなも柿が饗応されました。また席上、桜井忠温氏は名誉会長に推薦されました。発足はこのように和やかな楽しい雰囲気でありました
　第二回は愚陀仏庵跡の料亭「天平」、第三回は道後温泉三階を会場にしました。その頃愛媛大学の蒲池文雄教授、仲田庸幸教授らも加わりますます盛況でした。このように当初から本会は夏目漱石ゆかりの場所を例会会場として選び、それは今日までつづいています。
　松山坊っちゃん会年譜(昭和三十七年九月～同四十九年二月)、昭和三十八年十二月八日第五回例会の記録に「松山坊つちゃん会に次いで発足したる鎌倉漱石の会が、本日同刻に円覚寺帰源院にて漱石忌が行われたので電報にて相互親善を計る」とあり、その頃から既に鎌倉漱石の会とは交流があったことがわかります。
　昭和四十二年二月五日第十七回例会では新野良隆氏が会長に推薦されました。新野氏は松山中学で松根東洋城と同級で漱石に直接教わった方です。当時の会員は漱石の事を詳しく聞きたい、また漱石の事を話したい、という方が多かったようです。中には漱石の事を勉強したいという方もおられました。ただ残念ながら、発足当時の会員はほとんど亡くなりました。しかし、会を立ち上げた旺盛な精神は、時代は変わっても、今も生きています。
　松山坊っちゃん会は、十数年前から、括弧付きで漱石研究会を名乗るようになりました。ご承知のように松山には「坊っちゃん」を名乗る団体が数多くあり、大変紛らわしいので(漱石研究会)と名称に付け加えたわけであります。「研究会」と銘打つ以上もっとハイレベルにというご意見もありますが、地域の会員が自らが研究をするという方針が、発足時からの本会の特色であり、エネルギー源でもあります。ただそれが「井の中の蛙」では自己満足で終わります。時には、例会講演に専門の先生もお迎えして、活性化を図っています。地域に根ざし、密着し、地域発展のために貢献することこそ、会員の励みにもなり、地域の支持を得、共感をえるものであると思っています。
　最後に松山には小説『坊っちゃん』は夏目漱石の「実録」と思い込んでいる人が高校生を含めて、まだまだ大勢います。文学作品の正しい読み方ができるよう努力したいと思います。　　　　　　

漱石読書会『虞美人草』を読む
　　　　10月7日･11月3日・12月1日　　　　　　　　　　　

10月6日(土)松山地方祭。朝から太鼓の音や神輿の掛け声が聞こえる。この日は高村、武内、藤本、菊川夫妻、土居、重川、岩城
伊賀上、若山、松浦、光石、田鶴谷、頼本の14名と愛媛新聞記者高橋氏の取材があり、計15名の参加となった。
はしめに『趣味の遺伝』の補足から。　この小説は厭戦小説、戦争小説、神秘小説、いろいろ読み方があるかもしれないが、読んでみて感じることは、戦争小説としてよりも、凱旋風景、戦場の浩さんの描写、浩さんの老母と若い女性の行動など勘案すると、遺伝という科学的現象に託した漱石の人間愛とか悲しみを
感じる。先祖の愛情が後世の子孫にまで続くという「遺伝」はどうであろうか。あるとすれば「神秘」という他はない。前回にも話したが、戦争で一人息子をなくした淋しい老婆と、若い娘さんが親しくなって、たびたび訪問して話し相手になったり、世話をしたりしているという美しい話である。そこにこそ感動がある。「遺伝」は素材として利用されたに過ぎないと思う。
　虞美人草、朝日新聞に明治40年6月23日～10月29日まで連載。まず題名について、漱石は明治40年３月28日教職を辞し、朝日との契約後京都散策、その体験を取り入れている。朝日の待遇は月給200円と盆暮の賞与。破格の待遇であった。ちなみに先輩格の二葉亭四迷は月100円。
　「『虞美人草』予告」五月二十八日「昨夜豊隆子と森川町を散歩して草花を二鉢買った。植木屋になんと云う花かと聞いて見たら虞美人草だと云ふ。折柄小説の名に窮して、予告の時期に後れるのを気の毒に思って居つたので、好加減ながら、つい花の名を拝借して巻頭に冠らす事にした」とあるが、「最初の20回分原稿用紙97枚はすでに渡してある」(6月17日松根東洋城宛書簡)とあり、はやくから準備していたと考えられる。『虞美人草』は漱石作品によくある単なる思い付きではなさそうである。
虞美人草の「虞美人」は　漢の項羽の愛人で虞は自殺。藤尾も最後は自殺？若しくはショック死する。そんなところが漱石のヒントになったのではないかと複数意見があったのは面白い。これからも夜店で買った花からの急な思いつきというのは事実ではなさそうだ。
前評判の人気も高く、三越からは虞美人草浴衣が、宝玉堂から虞美人草指輪と売り出され、読売にも大広告か一目を引いた。
漱石は人気の勧業博覧会を小説に取り込んで読者を引き付けようと、しばしば見物に出かけた。人目につかぬようにその都度服装を変えたという話が友人の話として伝えられている。冒頭は山登りから始まる。草枕・二百十日も同様だが、山登りというのは一つの最高潮へ向かって進んで行くという目的があるため、小説の冒頭としては都合がよいのであろうか。この小説では甲野と宗近という二人の青年の輪郭を明らかにするという場面設定になっている。やや退屈な会話が進行するが、女主人公藤尾が登場し、小野や藤尾の母、その他が登場すると俄然場面が緊張する。なぜ緊張するのか。それは会話が面白いからである。巧みな会話の進行はこの小説ばかりではない。漱石の作品全般にわたる。

11月3日第80回。本会結成50周年記念読書会。『虞美人草』第2回読書会。武内、藤本、戸田、菊川夫妻、、岩城、伊賀上、岡田、、松浦、頼本それに新入会の楠田、関氏にゲストの愛光学園教諭の和田氏の計13名の参加で一段と盛り上がった。
　まず頼本が壁に橋口五葉描くところの三越呉服店の「此美人」のポスターのコピーを張り出し、着衣が藤の葉ノ模様のようで、制作年代から想像すると『虞美人草』が先だから、小説の前評判と相俟って、この顔は藤尾を意識して描いているとも思える」という意見があった。
ヘアスタイル、着衣、背景と現代とはかけはなれているが、目が大きく、なんとなく知的で意思の強そうな近代的美人である。
ゲストの和田氏は藤尾の人物、家族関係、特に人物設定上の女性関係に注目して話された。
　○　結婚の場合愛情が問題になるが、打算もまた働くだろう。藤尾と小野の場合、小野には少々迷いはあるだろうが、当然ふたりは結婚すべきであろう。小夜子は可愛そうだが。とか、
○小野に藤尾を諦めるよう説得する宗近自身が外交官として自分の妻には藤尾のような女性が相応しいと考えて、その気になっていたのだから、そうすべきではないか。
○漱石は藤尾を死なせて、小野と小夜子を結びつけた。藤尾は漱石に殺されたわけである。藤尾の死は不自然である。
○漱石は義理を重んじた。この作品は勧善無懲悪というが、そうなると藤尾はかわいそうである。漱石に嫌われるタイプである。─といった話が和田氏の話題提供を契機にいろいろ出て盛り上がった。
○しかし、漱石は好んでこのような女性を書いたのである。このような強い自我の女性でないと主人公にはならないだろう。テーマとしてはちっとも新しくない。しかし恋愛小説がある限り、永遠のテーマであろう。その永遠のテーマを狙ってはずさないないところが漱石らしいところだろう。
また、藤尾の死が写実ではなく、直喩で表現されているので、いろいろ誤解されるところもあるのだろう。医師の話では、たとえ24歳でも
ショックにより、心臓麻痺でも、脳梗塞でも起り得るということである。藤尾もそうだつたのだと解釈すればよい。しかし、極端ではある。
第81回12月1日(土 )『虞美人草』第3回読書会。
出席者､武内、重川、菊川夫妻、光石、伊賀上、岡田、松浦、頼本の9名の諸氏
　藤尾＝クレオパトラ的人間という意見は昔から言われている。前回和田氏が持参してくださった朝日新聞のカットにも『虞美人草』の題字にはクレオパトラのカットが添えられている。勿論文中にもクレオパトラはしばしば登場する。前回問題になった藤尾の死に方でもクレオパトラ的に自殺のごとき急死である。その死後枕元には抱一の銀屏風が逆さまにして立ててある。この銀屏風は『門』の中にも出てくる。
　しかし、『虞美人草』の抱一の銀屏風と『門』のそれとは同一ではない。『門』の銀屏風はまん丸な月が銀で描かれている。其一の署名入りの賛もある。「抱一の行書で書いた落款」もあるとしている。『虞美人草』の銀屏風は、まん丸な月ではなく、あたり一面銀で描かれた月明かりに冴え返るぎざぎざの葉が緑青を使って描かれている。新関公子『「漱石の美術愛」推理ノート』によると、ぎざぎざの鋸葉は「あへんげし」であるいう。「あへんげし」はいわずと知れた麻薬のとれる「けし」である。しかも「あへんげし」の花言葉は「忘却、眠り─わが毒」であり、「ひなげし」のそれは「慰め」であり、藤尾にふさわしくない。藤尾に相応しいのは「あへんげし」であるという。(同書)漱石の博識ぶりにあらためて驚かされる。『門』の方は某所蔵の酒井抱一「月に秋草図屏風」を実際に見て参考にして書いたと思われるが、「けし」は描かれてはいないし、銀屏風ではなく、金屏風である。また、東京国立博物館蔵の酒井抱一『夏秋草図』は銀屏風ではあるが、月そのものは描かれてなく、「けし」も描かれてない｡漱石がそれらの屏風を実際に見たけれども現存してないのか、それとも実際に見た屏風をあくまでも参考にして、漱石が作りあげた小説の中の酒井抱一の銀屏風なのか今となってはさだかではない。ただ漱石が描く美術作品は実見したものが多いようであるので、今日そのような抱一作品を我々は見ることができなくなっているのかも知れない。(終)
　

漱石読書会『趣味の遺伝』を読む
　　　　8月4日・9月1日
　　　　　　　　　　　

9月1日(土) 『趣味の遺伝』第2回、天候は曇り、参加者は岩城、岡田、重川、武内、高村、田鶴谷、藤本、松浦、光石夫妻、頼本の11名。
50周年行事が近づいたので、頼本会長から準備要項やポスターの配布依頼があった。今回取上げた項目
○「対称の極」三越陳列場─落柿舎の物干竿、古き銀杏、古き伽藍と古き墳墓と─「美しい若い女」について
　光石悦子氏の方から樹木の下の美人は『三四郎』の池の端の女を思わせるという意見があった。そのほか
○ 「世間には諷語というがある。諷語は皆表裏二面の意義を有している先生を馬鹿の別号に用い、大将を匹夫の渾名に使うのは誰も心得ていよう」について現代も同じという意見多数あり。(苦笑)
○岩波文庫ｐ194「まるで探偵だ」漱石の探偵嫌いが探偵をする。
○ｐ198「人間はその日その日で色々になる」『坊っちゃん』で「人間ほどあてにならぬものはない」と。
○ｐ200「人間はどこか泥棒的分子がないと成功しない。紳士も結構には相違ないが、紳士の対面を傷つけざる範囲内において泥棒根性を発揮せんと折角の紳士が紳士として通用しなくなる。泥棒気がない純粋の紳士は大抵行き倒れになるそうだ。よし、これからはもう少し下品になってやろう」思いきった反語であり、皮肉である。
○ 遺伝
　河上才三〈紀州藩士・留守居・優しい・浩一に生き写し・金を使って風流を〉
　　　　　　　　　　─貢五郎(江戸詰・慷慨家・早死)─浩一(戦死)
小野田帯刀(二百石・屋敷が河上と向合せ・後国詰)─娘(藩中第一の美人・才三に惚れる)
国家老─せがれ〈殿に頼み、その命により帯刀の娘を娶る〉
小野田博士の妹(帯刀の娘に似ている・墓参り・白菊が好き)
○美人は浩一の日記を見た後「それだから私はお寺参りをしておりました。」霊の感応─インスピレーション
○エレーンがランスロットに始めて逢う

○昭和19年6月29日　沖縄近海で特別混成第45旅団(四国出身者で編成)の将兵など3800名を満載した陸軍輸送船富山丸(約7000トン)は米潜の雷撃により轟沈した。船1隻の死者としてはタイタニック号、戦艦大和に次ぐ惨事という。
その時、坂出の開業医で軍医として乗船、戦死した三木氏の妻マツミさんには夫が自転車で帰って来る、いつもの音が聞こえた(2004年7月4日四国新聞 )という。これが「霊の感応」ということであろうか。『琴のそら音』にもそれに似たことが書かれている。

この小説のよいところはラストである。。『趣味(男女相愛)の遺伝』という途方もない題名だが、平岡敏夫氏も「漱石研究」の
〈寺のある作品群〉の中でそう言っているが、この話は:結末がいい。戦争で一人息子をなくした淋しい老婆と、若い娘さんが親しくなって、たびたび訪問して話し相手になったり、世話をしたりしているという美しい話である。「遺伝」は素材として利用されたに過ぎない。
先の大戦でもこんなことがあったかも知れないし、老齢人口が増えた今日に通じる話でもある。
女流歌人柳原白蓮さんは戦争末期に一人息子が戦死した。白蓮さんの戦後の歌に、
「もろともに泣かんとぞおもふ　たたかひに子を失ひし母をたずねて」と一人身となった心境を詠んだ歌がある。
次回は『趣味の遺伝』の補足と、あらたに『虞美人草』を読む予定。　

松山地方もこのところ連日の猛暑で8月4日は欠席連絡も数名あったが、岡田、菊川夫妻、土居、藤本、若山、
頼本の熱心な七人の侍が集まった。｢趣味の遺伝」は前回よりは読みやすい作品である。この日は頼本が持参した土産のお菓子を食べながら語りあった。まずは前回の『薤露行』に関して頼本会長が漱石が見たテート美術館の「エレーン」の絵のコピーを持参、「少女が小舟に乗っているが、憂鬱な表情である。漱石はこの絵を見て、少女の亡骸を老人が小舟で運ぶという場面に作り変えたのだろう」と説明があった。
　まずは題名について、『趣味の遺伝』「趣味」とは各書にあるように、明治39年2月13日森田草平宛書簡に「趣味の遺伝」の「趣味」は男女相愛するという趣味の意味ですとある。明治30年代の「趣味」の意味は今日の読書が趣味とかいう趣味とはかなり違っている。男女相愛となると『盾』の「一心不乱」は「遺伝」にまで増幅されたと考えられる。
　この物語は浩さんの友人が語るという形式だが、新橋駅で、凱旋する将卒を迎える光景が発端である。旅順の戦闘を写した場面も圧巻である。「漱石はこういう集団場面の描写が得意であった。」(「夏目漱石入門」荒　雅人　講談社現代新書『趣味の遺伝』)というのが参考になるが、なぜ集団の場面の描写が得意なのだろうか。この描写は当時の写真、日露戦争記念の画報類が描写の参考になっていると考えられる。明治39年の帝国文学1月号に発表した当時は、このような凱旋風景がしばしば見られたことであろうから、時局を取り入れたジャーナリスチックな小説として人の目を引いたとも考えられる。
○二の「黒い日を海に吹き落そうとする野分」は漱石俳句｢凩や海に夕日を吹き落す｣明治29年の構想を取り入れた。
○同「露助」「夏目漱石事典」(三好行雄編)には(日露)戦争中使われたロシア人に対する蔑称。とあるが、大東亜戦争後
ソ連占領下の満州・北朝鮮では日本人が憎しみを込めて使った。

読書会『薤露行』読了　　

6月2日75回この日の参加は伊賀上、岩城、菊川夫妻、重川、高村、田鶴谷、武内、土居、戸田、藤本、若山、頼本の13名それに出版会社ナガシマの編集部から松山市文化協会の機関紙の取材に山畑氏の来訪があつた。前回の『幻影の盾』に比較すると各章ごとに題名がついていて字数的に読みやすいせいか、みなさん前回よりは読んでいる感がした。また菊川さんからは手作りの美味しいケーキの差し入れがあった。

『薤露行』「薤上露何易晞。露晞明朝更復落。人死一去何時帰」　古樂府　漢無名氏「行」は詩の一体。もと樂府の一体。(漢語林　大修館)岩波新書。「新唐詩選・新唐詩選続篇」では「行」に「うた」とルビを付す。新樂府は新しい歌謡曲という意味、(新唐詩選続篇ｐ91)「樂府とはもと音楽をつかさどる役所をさし、古代からあったといわれるが、漢の武帝のとき改革され、そこでは音楽に合わせてうたいうる歌詩を製作した。そうした耳できいただけで意味のわかる詩の作品をも樂府とよぶようになった」(新唐詩選続篇白楽天の社会詩についてｐ206)とすると漱石は英文学と西洋絵画の知識の上に部分的ではあるが漢詩のイメージ、それに自作俳句のイメージ等を取り入れ、古樂府をヒントに、詩的文章を書いたのではないか。
題名の『薤露行』は古樂府(中国は漢代の古詩の形で無名氏 )人の命のはかなさをうたったものであろう。古来わが国では和歌において露のはかなさはよく詠まれているが、元はここから来たものか。『薤露行』という題名がなぜついたのか考えてみると、この当時の漱石の「恋愛観」というものが想像できるのではないだろうか。ここには漱石自身の若き日の恋愛がどういうものであったかを考えるヒントが隠されているかも知れない。
『薤露行』はサー・トーマス・マロリー『アーサーの死』のほかテニソンの長詩『ランスロットとエレーン』同じくテニソンの詩『シャロットの女』に基づいていることが明らかである。つまり『薤露行』は、中世ヨーロッパに誕生し、19世紀になつてから復活して、文学のみならず西欧芸術一般に大きな影響を与えたアーサー王伝説を枠組みとしているという点で、日本文学史上文字通りユニークな作品だということになる。(江藤淳　岩波文庫『倫敦塔・幻影の盾』解説)それ以外では日本でアーサー王を扱った本格的な文学作品は皆無と言ってよい。
(序文)「マロリーの『アーサー王物語』は簡潔素朴であるが、小説としては散漫である。事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。」(略)「マロリーの写したランスロットは或る点において車夫のごとく、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。」ここに漱石がこの小説を書いた理由が示されいる。第四で「ギニヴィア一応は罪の意識に悩む19世紀的な人妻として描かれています。しかし、ランスロットの方はどうか。ただ女に可愛がられいたるところに禍を振り撒きながら通過する軽率な男に過ぎません。」(大岡昇平『小説家夏目漱石｢薤露行｣の構造』第六筑摩88年　　上記の意味は　姦通を品位ある者の行為とは考えていない。この点を恋愛「一心不乱」の行動として描いたということか。一方エレーンのランスロットに対する愛はランスロットが自分の許へ帰らないと知って死んでしまうほど熱烈な純粋なものであったが、これも「一心不乱」ということを描こうとしたものと漱石は考えたということか。

ここで鴎外の「舞姫」(明23)と漱石の『薤露行』(明39)とを比較すると、共に男女の愛がテーマではあるが、16年の時代の差がある。「舞姫」は漢文訓読調の擬古文であり男性的であり、歯切れもよい。漱石の『薤露行』は擬古文で詩的な文章である。共に劇的だが『薤露行』の方が女性的である。時代的背景が現実味を帯びていて、主人公が心情を吐露する点では「舞姫」。『薤露行』は原典に捕われないけれど英文学の焼き直しであるので空想が入り、それだけ弱い。「舞姫」のエリスは太田豊太郎に棄てられ、ついに発狂する。それほど一心不乱であり、純粋であった。ひょっとすると漱石は鴎外に対抗しようとしたのではあるまいか。漱石の外国古典の焼き直しよりも、鴎外の「舞姫」の方が現実味があり、現代でも人の心を打つから高校の教科書にも収録されるのであろう。

第一章

カメロットの城では騎士達はみな北の方へ試合に出て行き、王妃ギニヴィアのみ残っている。騎士ランスロットは病と偽って一人試合にも行かず残っている。ランスロットは自分の思いを遂げようとするが、ギニヴィアは皆と同じ試合に行くように勧める。｢行く｣と言い放ってギニヴィアの手に接吻する。「暁の露しげき百合の花弁をひたふるに吸える心地である。」城門の窓から身を乗り出してランスロットを見送ろうとしたとき金の王冠が下に落ちる。ランスロットが槍の穂先にかけて差し出したとき「忌まわしき冠よ」というのは王妃の位などは無いほうがよいという意味か。王冠が安っぽい感じである。ここの百合は白百合か。漱石が作品の中で白百合を好んて扱うのは大方の指摘するところである。漱石の作品にはしばしば登場する。
第二　鏡これは魔法の鏡　はじめ詩的　春恋し、以下「谷を渡り水を渡りて」漢詩「尋故隠君」を思わせる。
シャロットの女は一人鏡の中の浮世のみ見て過ごす女。鏡はくろがねを磨いた五尺ばかり。魔法の鏡に写るは騎士ランスロット。鏡は真二つに割れ粉みじんになる。織りかけた絹はシャロットの女にまつわりつく。「シャロットの女を殺すものはランスロツト。ランスロットを殺すものはシャロットの女」と叫んで鏡の砕片の中に倒れる。─この物語の結末を暗示しているらしい。
第三　袖
可憐なるエレーン(18歳)は人知らぬ菫のごとく　アストラットの古城を照らして、ひそかに墜ちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。訪う人は固よりあらず。共に住むは二人の兄と眉白き父親のみ。─美しい文章だ。ちなみに
岩波俳句集Ｎo276　「菫ほどな小さき人に生まれたし」明治30
同　　　　　559　　「見つけたる菫の花や夕明かり」
小品「文鳥」の中、小鳥が餌を啄む場面に「菫ほどな小さい人が黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いて居る様な気がする」、とある。漱石このときすでに39歳、妻子ある身であるが、その小さな菫の花を見詰めている姿を想像すると、傷つき易い少年のような内面が想像されるのだが。作者の菫を見詰める心中には現実の鬱積したものが感じられる。
アーサー王とギニヴィアの結婚のとき魔法使いのマリーンはこのギニヴィアが後に別の男と関係することを予見して結婚に反対した。(大岡)
第四　罪の最後の行「室の中なる人々は顔と顔を見合わす。只事ではない」とは。人々はランスロットが帰ってきた。王妃の不倫があばかれ、これから大変なことが起るのではないかと顔を見合わせ心配している。
第五　舟
結末。「ギニヴィアがエレーヌの頬の上に落とす「熱き涙」は漱石の発明で、ギニヴィアの嫉妬の解消(少女の死による)と、自らのランスロットへの愛の確認、同時に同じ愛に殉じた小女への憐憫など、多義的な結末なのです」(大岡)
白鳥→これをランスロットの化身と考えれば、死んでエレーヌの亡骸を城へ運ぶ案内をしていると。純愛物語になる。エレーヌも死にランスロットも死にアーサー王夫妻は安泰である。悲劇物語にもなる。
○ ｢薤露行｣は嫂登世への思慕を漱石が隠そうとしつつ顕したものではなく、もともとギニヴィアの姦通物語に具わっていたもの。多淫・複数の男と交わる。(大岡)
｢薤露行｣は明白な筋があり、緊張とそれからの解放という劇的な構造をもっている。(大岡　漱石の構想力四)「　漱石の想像力は概して劇的であったと思います。それは影響を受けた19世紀後半のイギリス小説がそうだつたからであり、また明治30年代の日本の小説がそうだつたからでもあります。」同五)
○「(ギニヴィアの)一滴の熱き涙はエレーヌの冷たき頬の上に落つる。十三人の騎士は目と目を見合わせた。」→どういう意味があるのか。十三人の騎士はギニヴィアを「罪ある女とみていたのだが、エレーヌの死によって何事もおこらず、宮廷は安泰であると互いに安堵した時の目か。
76回7月7日(土)早朝雷鳴とどろき大雨となったせいか女性方の欠席が目だったが、午後雨も上がり、参加したのは岡田、高村、武内、重川、菊川隆、藤本、頼本、梅林、それに紅一点若山の皆さんの参加があった。今回は『薤露行』の補足となったが内容的にも、
いろいろ意見も出て盛り上がった。
まず頼本から ①『夏目漱石の美術』富士美術館平成元年7月20日発行図録　漱石所蔵書籍の紹介の項47－2に東北大学付属図書館蔵としてテートギャラリーのカタログ中の「シャーロッﾄの乙女」も紹介されている。絵画の実物も見ているはずだから、留学中から漱石にとっては印象深い絵画であったらしいということと。
②『漾虚集』の復刻本を示し、上記『夏目漱石の美術』を示して、文庫本の江藤淳の解説を利用して、挿絵やカットその装丁を見ながら『漾虚集』にいかに漱石がエネルギーを注いだかということを理解してもらった。『漾虚集』はエキス・リブリス(蔵書票)の付いた日本最初の本であり、森田草平をして「『漾虚集』の前に『漾虚集』なく、『漾虚集』の後に『漾虚集』なし」(『夏目漱石作品の装釘』図書館雑誌昭和13年9月)と言わしめた美しい本であることを堪能してもらった。また、この『漾虚集』の表紙は「藍染木綿布装本」と言い、この装丁は漱石を尊敬してやまない芥川龍之介によって受けつがれ、「藍染細織木綿布装本　黄色紙箱」という装丁となり、(龍之介羅生門自装　題字　菅虎雄)となり、その後、堀　辰雄によって「藍染木綿布装本」(堀　辰雄『芥川龍之介論』170部限定　自装)となって出現した。明治、大正、昭和へと近代日本文学を代表する作家によって受けつがれたわけである。橋口五葉の挿絵など今日見てもすばしい色彩である。
　つぎに重川氏からは前回も問題視されたが、最後の十三人の騎士は目と目を見合わせた。」はどういう意味があるのかという疑問が再度提示された。十三人の騎士はギニヴィアを「罪ある女とみていたのだが、エレーヌの死によって何事もおこらず、エレーヌの一心不乱は貫かれ、宮廷は安泰であると互いに安堵した時の目か。(前回頼本など。)それともやはり騎士たちは王妃ギニヴィアを疑っている目か(重川)という意見があった。そのように解釈もできるであろう。だがそうなると「一心不乱」の純愛は皮肉へと転換することになるが、そうなってもよいだろうか。
次回から『趣味の遺伝』の第1回となる予定。

漱石読書会『幻影の盾』を読了
　　　　
　　　　　　　　　　　

第73回読書会花も満開の4月7日(土)喫茶「坊っちゃん」にて『幻影の盾』を今月から取り上げることにした。参加者は、田鶴谷、武内(新)、藤本、菊川俊、梅林(新)、岩城、若山、松浦、伊賀上、久野(新)、菊川隆、土居、頼本、光石の計１４名の皆さん。久野さんは読書会とはどういうものか見学に来たらしい。梅林氏は直前に明屋書店でテキストを買い求め参加した。真面目な人である。武内氏は平成10年ごろ勤務の都合で一度退会し、再入会された。熱心な人である。今回の「幻影の盾」第一回はよくわからないという感想が多かったのはやむをえないだろう。
今まで読んできた漱石の小説とはまつたく趣が異なる神秘的幻想の物語だから。
本会では、①どこが面白いか。②それはなぜか。ということを参加者全員に聞くことにしている。よく読みこんで、それが答えられるようにならなければ、読書会はおもしろくない。解説書を読んで来たり、インターネットの他人の論文を紹介するだけでは面白くない。まあそれも熱心な勉強のうちではあろうが。それでも皆さんが熱心に話し合いに参加してくれるということは漱石先生の魅力であろうし、主催者としてはありがたいことである。
「幻影の盾」は「遠き世の」「今代の話ではない」話なので、とりつく島もない、お話を承るばかりなのである。伊賀上さんが、大人の童話のようだと発言したが、童話以上に幻の世界である。漱石を敬愛する大岡昇平の小説「愛について」(昭和45年新潮社刊)は純粋な恋愛小説で、(帯に「純粋恋愛小説」と銘打っている)しかも死後の世界のことなどが書いてあり、当時の新聞評などに「大家の遊び心」が感じられるという意味のものがあつたのを記憶している。私(頼本)は「盾」を読んでいて、ふとその当時読んだ、大岡のこの小説を思いだした。「純粋な恋愛」ということからの連想だろう。明治38年「ホトトギス」4月号巻末附録に「幻影の盾」は発表された。『猫』第三回も併載であり、帝大講師漱石としては書くことが面白くて、あまりの苦労は感じなかつたのであろう。しかし、『猫』よりは苦心したという。留学中に吸収したイギリス中世文学の知識、特に「アーサー王伝説」を材料として、純粋恋愛小説に仕立てている。話が単純なのは、そもそも原材料の中世騎士物語が単純素朴なものであるから仕方あるまい。わが国の「源氏物語」とは格が違う。紫式部などはノーベル文学賞でも不足であろう。さて、話をもとへもどそう。①どこが面白いか。漱石の作品でこれほどハッピーエンド的に恋人同士が熱い接吻を交わすのは他にはあるまい。まるで昔のハリウッド映画的でロマンチックである。しかも「二人の唇の間に林檎の花の一片(ひとひら)がはさまって濡れたままついている」とは漱石先生写実的で芸が細かい。(ただしこれは現実の世ではなく、まぼろしの世界であるが )現今のアニメ的である。②それはなぜか─なぜ漱石はこのような作品を書いたのであろうか。若き日の漱石の心の中にはロマンチックな恋愛を夢見るところがあったらしい。漱石ならずとも世の中の若い男女は誰しもそうであろう。漱石は鏡子との結婚生活にはかならずしも満足していなかったようである。その証拠として漱石の作品のほとんどが互いに理解し得ない夫婦(例「行人」の一郎とお直)が登場するし、甘いラブシーンは皆無である。漱石はこのような純粋な恋愛を描くのには慣れていなかったとみえて、「幻影の盾」の怪力の力を借りずにはおれなかったと思われる。怪力とは関係ないが、白城主と夜鴉城主の仲たがいにより戦となり城主の娘と息子が恋に苦しむというストーリ-はシェークスピアの「ロミオとジユリエット」の物語を連想させる。
第74回読書会は『幻影の盾』の第2回。連休の関係で特別に第2週の土曜日開催となつた。その関係か今日5月12日は藤本、岩城、若山、伊賀上、、菊川隆、土居、頼本、高村、重川の9名の参加となった。
シワルドの計略ではクララとウイリアムは南の島へ逃げ延びることになりそうであるが,戦闘場面、集団場面(坊っちゃん)は漱石はうまいといわれている。城攻めの場面で櫓が焼け落ちたりするのは、日本の城攻めの場面のようで、石つくりの
ヨーロッパの城ではこのように炎上するのであろうかと疑問に思う。
『一心不乱』ということを目の前に写し出そうと考えてこのストーリーを得たそうであるが、男女の愛の「純一無雑」は恋愛至上主義＝恋愛が人生最高のものとする考え方に通じる。そう言えば純一は漱石の長男の名前でもある。「純一」は漱石の好きな言葉でもあるのだ。男女の愛が社会の束縛を超越するという考え方は、恋愛と結婚は一致すべきという考えであろうが、現実には破綻もある。漱石は鏡子との結婚生活に満足しないで、ロマンチックな恋愛を夢見ていたらしい。「幻影の盾」という小道具によって願い事がかなうこの小説はSpectacleから甘美な幻想へと展開する通俗的な内容だが。
ここで『猫』との関連を考えたい。①「猫十」雪江さんの「馬鹿竹の話」で「尤も是は御夫人に限った事ではない。明治の代は男子と雖も文明の弊を受けて多少女性的になつて居るから、よく入らざる手数と労力を費やして、是が本筋である。紳士のやるべき方針であると誤解して居るものが多い様だが、（略）御婦人にあつては、(略)いざといふ場合にはどうか馬鹿竹の様な正直な了見で物事を処理して頂きたい。あなた方が馬鹿竹になれば夫婦の間、嫁姑の間に起る忌まわしき葛藤の三分の一は確かに減ぜられるに相違ない。(略)多くの婦人が平均男子より不幸なのは、全くこの魂胆がありすぎるからである。どうか馬鹿竹になって下さい。といふ演説なの」「へえ、それで雪江さんは馬鹿竹になる気なの」「やだわ、馬鹿竹なんて」と雪江さんに一蹴される。馬鹿竹は『坊っちやん』の正直さ、素直さ、誠実さ、純粋さの尊重に通じる漱石の基本的な主張の一つである。『盾』の恋愛の誠実一途な美しさに対する傾情とも通じる。漱石の人柄の反映である。しかし、馬鹿竹の話は雪江さんから笑われるごとく、大衆には通じない。そこに漱石の大衆に対する人間観、そこに人間一般との対立があり、それはそのまま神経衰弱・主人公苦沙彌・坊っちやんのかんしゃくとなって爆発する。
『猫』との関連②　神秘的な恋愛の情を追求して、ロマンチックな一面を発揮した作品であるが、その彼が「猫」では細君や姪や、金田の令嬢などをふくめて、女性の優美さ、ありがたさなどから面をそむけ、もっぱら皮肉な見方による女性蔑視を強調して評家から「無恋愛小説」の作家などといわれている。しかし恋愛そのものに対する憧憬は、漱石の胸の底にやどっていたのである。(夏目漱石全集2ちくま文庫解説　「美文調と江戸軽文学の二つの流れ　吉田精一」
こうして考えると当然のことながら、『盾』は突然うまれたものではなく、多くの述べるごとく『猫』執筆中から漱石が
考えていたことであり、『猫』によって表されなかった別の一面を描いたということが明白となる。
それにしても『盾』発表当時の世間の評判はどうだったのであろうか。「当時の漱石の高い声価を如実に物語るのは、『ホトトギス』五月号に、摘要された、同誌第百号記念号たる四月号についての一般の雑誌や新聞の批評である。そこには「本誌前号の評」と題して、「国民新聞」「東京日日新聞」「毎日新聞」「日本」など、新聞16紙、「スケッチ」「中央公論」など雑誌12誌の『ホトトギス』評がとり上げられてあるが、それらの殆ど全部が、四月号『ホトトギス』の収穫として『猫』「続続編」と『幻影の盾』を挙げ相応に賛美のことばを書き連ねている。漱石が38年初頭の文壇に如何に新鮮な刺激を与えたかの一端がここで知られるのであって、それは漱石にとって単なる文壇的成功であつたに留まらず、身辺に多くの同調者が集まった他に、比較的遠い立場にあって漱石に真の理解を示すものもあつた。」『漾虚集』の問題〈内田道雄〉日本文学資料叢書　有精堂出版　昭和45
以上で『幻影の盾』は終了する。次回は6月2日(土)『薤露行』を読む。

　　愛媛銀行から助成金(20万円)─本会創立50周年に弾み─

　　　　　創立50周年記念行事案と平成24年度行事予定
　　　　　　　　　　　

平成24年度例会予定

春182回例会(済み)　平成24年4月22日(日)　市立子規博物館会議室
　　　　　　　　　平成24年度総会　決算・予算・行事報告・年間予定・役員改選等
　　　　　　　講師　愛媛大学教授　顧問　佐藤栄作　氏　「漱石と漢字のヨミ」
夏183回例会　7月29日(日)　市立子規博物館会議室
　　　　　　講師　会員　光石連太郎・悦子氏夫妻「漱石が愛した落語家」
秋184回例会　10月月27日　創立50周年記念行事を兼ねる(下記参照)
冬185回例会　12月9日(日)　市立坂の上の雲ミュージアム会議室
　　　　　　　講師　会員　松浦　淳子　氏　「漱石の文学観」(仮題)

創立50周年記念行事(予定)　文学散歩・祝賀会以外は入場無料

一　記念行事　平成24年10月27日(土)午後1時30分～2時
二　記念講演会　
　　　　講師　元愛媛大学教授渥見秀夫氏　　演題「漱石と結婚」(仮題)
　　　　場所　松山市道後姫塚　にぎたつ会館　2F楓の間　
　　　　時間　平成24年10月27日午後2時10分～3時10分　　　　　　　　
三　記念シンポジュウム(鎌倉漱石の会事務局長菅佐原智治氏
　　　　　　　　　　　　　　　くまもと漱石倶楽部代表崇城大学教授今江正知氏
　　　　　　　　　　　　　　　京都漱石の会代表　丹治伊津子氏
　　　　　　　　　　　　　　　松山坊つちゃん会会長頼本冨夫氏　による)
　　　　テーマ　「市民レベルでの文学研究会のあり方」
　　　　　　　　　　司会　愛媛大学教授　佐藤栄作氏
　　　　　　　　上記同場所　午後3時20分～4時20分
四　夏目漱石「坊っちゃん」本展　
　　　　50周年に因み『鶉籠』他50冊の展示予定、都合で100冊展示も。
　　　　①10月27日28日2日間上記　にぎたつ会館
　　　　②10月30日(金)～11月10日(土)　愛媛県立図書館3F(松山市堀之内)
　　　　③12月1日(土)～3月10日( )　愛媛県生涯学習センター(松山市上野町)
五　会報特別号の発行(平成25年4月1日)
六　記念読書会(実費)場所喫茶「坊っちゃん」11月３日(予定)午後1時30分より、
　　　　ゲスト招聘予定。
七　記念文学散歩(実費)場所・日時(①砥部町・松前町・伊予市②県外計画中)
八　祝賀会　　平成24年10月27日午後5時～7時　にぎたつ会館　1F芙蓉の間　(有料)
九　寄付金一口2000円、一口以上のご寄付をお願いします。　　　　　　以上

　
　『坑夫』読書会終了　
　　　　　　　　　

　第70回　『坑夫』第1回、1月7日(土)暖かい小春日和に誘われて、岡田、重川。高村副会長、藤本、初めて参加の矢野、菊川隆、若山、岩城、伊賀上、土居、松浦、頼本の計12名の参加であった。はじめに新潟の会員勝山一義氏から贈られた「坊っちゃん」の「越後笹飴」が会長から全員に配られた。この飴は口に入れたままではとてもしゃべれない。
最初に全員が読後感の発表。岡田、人の心がよくわかる。高村、特殊な職業を書いている。藤本、前半読みにくい。菊川、何故こういう小説にしたのか。おもしろくない。岩城、だらだらと引き延ばして書いている。漱石に似合わない。若山、周囲の状況で運命が決する。伊賀上、坊っちゃん育ちの人が苦労して望みが適うという話。差別用語がある。土居、　この会のお陰ででこういう特色のある小説が読めてよかったと思う。松浦、暗い小説。プロレタリア小説を思わせる。第一人称「自分」が漱石の主要作品では100以上使われている。当時の自然主義主流の中であえて反自然主義の立場とった漱石は写生文を基調とした文体の中に人間本性としての「ブルジョア」的要素とそれに対する「プロレタリア」的苦悩の要素を合体させたようだ。頼本、ああいいな、さすが漱石だと感銘を受けたのは「安さん」の登場するところ。この少説は安さんの登場で明るくなる。安さんが出なければ暗闇のままだ。安さんという人間の描写、発言から漱石の倫理性が感じられる。ここで『坑夫』は漱石らしい作品となって一応成功している。
「本当に人間ほどあてにならないものはない」というのは『坑夫』の大事なキーセンテンスである。小説『坊っちゃん』の中に出てくるこのセンテンスは作者の脳裏に強く焼き付けられていて『坑夫』にまで場所を変えて押し出されている。小説『坊っちゃん』ではマドンナ他の登場人物に対して言うのであるが、『坑夫』では自戒を込めて反省している。登場人物が成長している。
第71回は2月4日(土)72回。参加者、岡田、重川、藤本、矢野、若山、岩城、伊賀上、菊川隆、菊川俊、松浦、それに頼本の計11名。
今回は第12章から30章までを中心に話し合う予定であったが、話が予想以上に発展し予定を逸脱し小説全体の半分くらいまで進んだ。
第12章「事の起りを調べてみると」と「道行」場面から変わって主人公が今までの自分の過去を語る。大きく変化する場面。第13章は清算のため自殺を考えたができない。そこで逃亡(かけおち)を考えるが逃亡で清算できないので自分だけ逃亡しながら葬られる覚悟をした。過去の話だが工夫事件だけを話す。第15章、汽車賃も持ってないくせに目的地まで一人で行くという。そこを19歳の青年であるのにそんなことも分らないのかと読者は思うが、主人公は「そういう自分が可愛らしい。」と思う。要は主人公も告白しているように、一瞬人の力に頼らずに自分ひとりの力でできると思い込む「坊っちゃん」であったのだ。そのときは純粋な自分であつたが今はそんなことはないと回想しているが、それは世間を知ったというべきか。第16章では汽車賃はありますとも、ありませんとも云いにくかったので、「少しあります」と。がま口ごと渡す。少々ずるくなった。第13章、駅を出て緑の山に眸が吸い寄せられる。それはなぜなのか－汽車は文明の産物であり、反自然的である。緑の山を見て心が和む作者の心境であろう。第14章一本道、真っ直ぐな道、向こうへ行くに従って屋根が低くなっている描写は西洋近代絵画の遠近法だろう。真っ直ぐな一本道というのは─主人公の心情でもあり、漱石の精神を象徴しているのか。第16章、長蔵さんは赤毛布の男をつかまえる。「お前さん働く気は」芸がない、一本調子である。しかし、第17章の誰にたいしても長蔵の公平な扱いに主人公は、虚栄心を持っている自分に気づく。このあたり、長蔵さんの人格描写が単純なようで、世の中を百も承知しているような人物であるところがなかなかおもしろい。第22章　赤毛布や小僧の安請け合いを見て少なからず驚く。自分も同様であることに気づく。「白状すると当時の赤毛布でも当時の小僧でも、当時の自分より余っ程偉かった様だ」と。旅をして主人公は少し世間がわかった。第24章　主人公は昔は神妙で今は横着なのが天然自然の状態。喉元すぐれば熱さ忘れる。忘れる方が当たり前、忘れない方が嘘だと思う。坊っちゃんとして大人しく成人したならこんなことまで考えなかったかも知れないと─今までの自己への反省。
『坑夫』第3回通算72回3月3日喫茶「坊っちゃん」にて、参加者高村、菊川隆文・俊子夫妻、戸田、土居、矢野、光石、岩城、若山、伊賀上、岡田、重川それに頼本の計13名。冒頭頼本会長より助成金のこと。50周年記念のアウトラインについての説明があった。
今回は小説全般について話題とすることにした。
　冒頭光石氏から安さんの人格について話があったが、安さんの人格は漱石好みの人格であり、漱石の人生観を代弁しているようだ。「日本人なら日本の為になるように」とか「学問のあるものが坑夫になるのは日本の損」という考えは、明治の帝国大学の卒業生漱石ならずとも
みんなが等しく持っていた考えであり、天野祐吉さんがラジオの「隠居大学」で「今でもそういう人が居るのかねえ」と感心していたが、国家の公務員・議員たるものそういう信念も必要ではないだろうか。最近は東京大学を出たお笑い芸人というのもいるらしいが。
重川氏からは最後の「その証拠には小説になっていないんでも分る」とはどういう意味かと質問が出た。漱石は小説中の「自分」になって
物語ったわけで、自分は事実のみ語り、その語りの部分を小説とした。「小説になっていない」とは普通の起承転結のある小説という意味か。この小説は事実のみを書いたという。「事実のみ」は小説ではあるまい。ただの記録に過ぎない。だから小説にはならないということか。一般論として「小説論」を問うている。とも言われる所以であろう。
頼本から第80章について、「自分は元来小説的の人間じゃないんだが、まだ年が若かったから、今まで浮気に自殺を計画したときは、いつでも花々しく遣ってみせたいと云う念があつた。短銃でも九寸五分でも立派に──つまり人が賞めてくれる様に死んでみたいと考えていた。出来るならば、華厳の滝までも出向きたいなどと思った事もある。然しどうも便所や物置で首を縊るのは下等だと断念していた。その虚栄心が─尤もこれは死んで銅像になりたがる精神と大した懸隔もあるまいから、・・・・自分は発作性の急往生を思いとまって、不束ながら今日まで生きている。全く今はの際にも弱点を引っ張っていた御陰である。(滑稽感)「人が賞めてくれる様に死んでみたいと考えていた」のなどは若さの言わしめるところであろう。自殺者にはそんな甘い考えは通用しないのではないだろうか。「どうも便所や物置で首を縊るのは下等だと断念していた」というところはいざとなっても死に場所を選んで、汚い場所はいやだとだだをこねるようで滑稽である。切羽詰った状況を想定しながら、なおそこに余裕をもたせて、どうせ死ぬのなら、臭い便所はいや、汚い物置はいやだのだだをこねさせるところがこの小説のユーモアであろう。漱石の小説にはたえず滑稽やユーモアがつきまとう。この余裕を漱石は虚栄心としているが、このお陰で今日まで生きていられるというわけで、二重の滑稽感がある。「その虚栄心が─尤もこれは死んで銅像になりたがる精神と大した懸隔もあるまいから」というのも漱石は銅像になるのは、自分がなりたがると思いこんでいるのではないか。銅像は自分がしてくれと頼んでなる人も今日ではいるかもしれないが、普通の場合は周囲の人々が当人の死後、褒め称えて銅像にするのであろうから、「銅像になりたがる」というのはどうであろうか。この時分漱石は「広瀬中佐」を念頭においていたらしい。『それから』の中でも「死んで銅像になるより、新聞人として生きてる方がよい」という意味のことを言っている。広瀬中佐は好んで戦死したわけではないのだから虚栄心というのはいかがなものか。次回は『幻影の盾』を読む予定。

12月3日(土)『吾輩は猫である』終了

第60回は伊賀上、岩城、岡田、重川、高村、戸田、藤本、頼本、若山の9名の参加であった。この日から『猫』を読むこととなる。
簡単に参加者の感想を紹介する。(発言順)
重川　捨てられる猫あれば拾われる猫あり、猫の運命は様々であり、そのどちらかというのも人間次第であわれである。
高村　案外むずかしいと思う。読みづらい。
藤本　迷亭がおもしろい。しかし一気に読みおおせるというわけにはいかない。読んでいると始の方を忘れる。何度も読み返す。
岩城　作者の他の作品のように気負ったところがないのが面白い。
若山　作者の分身が猫である。
伊賀上　金田夫人は大いに皮肉られている。
岡田　一読して大変面白い。猫にも言い分はあるが人間には伝えられない。そこが面白い。
戸田　猫の人間観察が面白い。「吾輩」よりも車屋の猫が偉そうにし、車屋の黒から見れば教師よりも車屋のほうが偉いところが面白い。
頼本　猫が人間を観察し、皮肉たっぷりに、猫の視点で語るのが、なんといっても滑稽味があって面白い。単なる作者の筆の遊びではなく、
　　　　人間と人間社会への批評である。しかも「吾輩」という語句が示すように、この猫は偉そうに高い位置から人間を見るばかりでなく、
　　　　こ難しい漢語を使ったりするのも面白い。また作者の考え、時代背景、家庭内の日常生活を読者が知ることができるのも面白い。
その他
○「吾輩は猫である。名前はまだない。」日本の小説にありふれた冒頭であるが、名前はまだない」と否定しているのが　面白い。明治の書生が肩を怒らしていう「吾輩」などという語を猫がいうのが滑稽。
○主人の職業は教師で「教師というものはじつに楽なものだ。人間と生まれたら教師となるにかぎる」というが、
　「主人に言わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来るたびになんとかかんとか不平をならしている。」　と対照的なのが面白い。
○不折の尻尾をぶら下げた絵が面白い。
○珍野苦沙彌は漱石自身を面白おかしくモデル化している。俳句・新体詩・英文・弓・謡・胃腸病・水彩画など。
○車屋の黒猫との対話の妙─描写が生き生きしている。
○日記の「通人論」や芸者の話・水彩画なども。
○車屋の黒のその後　まとめとして話がしんみりする。第一章で終わる予定だつたことがわかる。
第61回は4月2日、参加者田鶴谷、高村、藤本、若山、岩城、伊賀上、岡田、菊川夫妻、頼本の9名。
第二章を中心に意見を述べ合った。
○新潮文庫p28、「ちよつと読者にことわつておきたいが、元来人間がなんぞというと猫々と、こともなげに軽蔑の口調をもって吾輩を評価する癖があるのははなはだよくない。人間の糟から牛と馬ができて、牛と馬の糞から猫が製造されたごとく考えるのは、自分の無知に心づかんで高慢な顔をする教師などにはありがちのことであろうが、はたから見てあまりみつともいいものじゃない。」教師漱石が自分自身を皮肉たっぷりに笑い飛ばしていると見ると面白い。続いて牡蠣的人間が出てくる。「性の悪い牡蠣のごとく、書斎に吸い付いてかつて外界に向かって口を開いたことがない」とあるが、漱石はそのような人間ではない。例えば鶉籠序文を見ても日本の青年に向かって発信しているのである。青年に対して発信することは松山中学での「愚見数則」から第五高等学校、そして小説発表へと続いている。
○日記の中の芸者の羽根突きの描写─美人芸者だが、声は烏のように悪い。『漱石の思い出』によると漱石は机の上に芸者の写真を飾っていたそうである。そのころ評判の美人芸者の写真を参考までに回覧して参加各位に見ていただく。一様にその美しさに賛嘆の声が上がったのは漱石ならずとも頷ける。
※要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で彼らはへちまのごとく風に吹かれて超然とすましきっているようなものの、その実はやはり娑婆気もあり、欲気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼らが日常の談話中にもちらりちらりとほのめいて、一歩進めば彼らが平常罵倒している俗骨どもと一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。(二p82 )⇒太平の逸民の気取屋的風貌を皮肉っている。漱石の二面性でもある。もう一面は「維新の志士的気概をもって文学をする」という面である。『猫』11回も書いた事自体が世間へ働きかけようとする漱石の心の現われと見られる。「太平の逸民」は後の高等遊民に通じる。人間世界をよく見極めた猫であり、作者である。
○三毛子の死─軽少なお経─僧侶の俗っぽさ─今日のペットブームを見通しているようだ。
第62回は『猫』第三章中心となった。　　参加は田鶴谷、高村、伊賀上、藤本、頼本の5名、若山氏早退。
苦沙彌先生の人柄が話題に。○「しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ。・・・まあそんなに不平を言わんでもいいでさあ。こうやつて不足なくその日その日が暮してゆかれれば上の分ですよ。苦沙彌君などは道楽はせず、服装にもかまわず、地味に世帯向きにできあがつた人でさあ」と迷亭の批評。なんだかんだと偉そうにいっているが、はたからみれば善良な庶民ということである。○元来ここの主人は博士とか大学教授とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度はきわめて低い。事実作者がそうなんだから、さすが漱石自分の事がよく分っている。以下も同様
○主人の評判が気にかかるのはやはり夫婦と見える。「何と書いてあったんです」苦沙彌の評「苦沙彌君の文は行雲流水ごとし─出ずるかと思えばたちまち消え、逝いては長えに帰るを忘るとありましたよ」「ほめたんでしょうか」「偏屈は少々偏屈ですね、学問をする者はどうせあんなですよ」─自己を徹底的に客観視し、滑稽化し、笑い飛ばすところはこの時代の文学作品としては類がないのではないか。
○月並みの定義について、細君がしつもんすると、迷亭が返答に困ったのに対し、細君が「なんでも自分のきらいなことを月並みというんでしょう」とはうがった見方と誰ともわからぬ者が批評しているが、これは作者に近い人物であり、猫ではない。これがこの小説の奇妙な語り手のはつきりしないところである。
○番茶について、苦沙彌先生の誤訳のように扱われているが、実際松山中時代漱石がそのように生徒に答えたという。
同僚の弘中氏の証言がある。諸本の註にあるように必ずしも誤訳とはいえないようだ。
○俳体詩について、「俳体詩を知らないのか。君も随分時勢に暗いなあ」と主人は鈴木君に行っているが、自分の名づけた「俳体詩」を出してくるのは面白いる実際には、「俳体詩」は「ほととぎす」の読者しか通用していなかったと思われる。漱石は連句を変化させた俳味のある新体詩と考えているようだが、虚子は「三句以上連続のものは之を俳体詩と呼ぶ」(俳体詩論)と言っている。
第63回は6月4日(土)晴れ。午後1時30分から喫茶「坊っちゃん」にて。『猫』第四章を中心に。参加者は田鶴谷、高村、藤本、岩城、若山、伊賀上、菊川夫妻、頼本の9名。戸田健氏欠席連絡。
第四章の原稿料は「ホトトギス」から15円で、評判のわりには、大学講師の片手間としてしか評価されなかったのである。
参加者一同が面白いと言ったのはハゲの話でこの部分の会話の妙は漱石ならではのユーモアがあふれている。漱石がロンドンから
妻の鏡子に宛た手紙の中でも妻のハゲを気にして、なるべく「まげ」を結わず洗い髪にしたらどうかなどと言っている。
事実家庭内ではこれに近い会話もかわされたかもしれないと思うと面白い。漱石作品を通じて言えることであるが会話が実にうまい。
本当に感心する。三角術(三角主義)─義理欠く、人情を欠く、恥をかく─というのも面白い。
鈴木君の昔話の中に出てくる石塔の文字、「安永五年辰正月」とある。『夢十夜』には「文化五年辰年」とある「五年辰年」に漱石のこだわりがあるのだろうか。ちなみに安永五年1776年は申で、文化五年1808年は辰である。この鈴木君の会話で「ハハハ教師はのんきでいいな。
ぼくも教員でもなればよかった」というセリフがあるが、「なんだか上品で、気楽で、暇があって、すてきな勉強ができて」と共に外から見るほど楽ではないのが現今の教員で、特に戦前と戦後では比較にならないであろう。
第64回は7月2日、伊賀上、岩城、岡田、重川、田鶴谷、菊川隆、頼本、若山の8名の参加。
多々良三平─卒業の日は浅いが法学士　六つ井物産の役員　月給30円　かつて珍野苦沙彌先生の書生をしていた。
(岩全93年版p194－13L)「是は筑後の国は久留米の住人多々良三平君が先日帰省した時御土産に持って来た山の芋である。」これは原稿より稿をおこしたもので、俣野義郎の苦言により、再販以後は「肥前の国は唐津の住人」と改定した。現行の漱石全集も踏襲。モテルにされたという実在の俣野は明治37年法科大学卒。三井鉱山(三池炭鉱)入社。月給40円。明治41年同郷のハツヨ(20歳)と結婚。長女ミドリの名づけ親は漱石。満鉄御用の撫純炭特売人になり、第一次世界大戦で四，五十万は手にいれたというが、すぐに又亡くしたという。(秦郁彦『漱石文学のモデルたち』)
田鶴谷氏の感想「世間を見渡してみたまえ。きのうもらった花嫁もきょう死なんとも限らんではないか、(略)おめでたいことを並べて心配らしい顔もせんではないか。心配せんのは、心配する価値がないからではない。いくら心配したっ法がつかんからて゛ある。吾輩の場合でも三面攻撃は必ず起こらぬと断言すべき相当の論拠はないのであるが、起こらぬとするほうが安心は万物に便利である。安心は万物に必要である。吾輩も安心を欲する。よって三面攻撃は起こらぬときめる。」吾輩の変な三段論法であるが、この考えは今日の原発事故にも通用する。「想定外」＝「起こりえない」＝「安全」と電力会社も国も決めていたのではないか。漱石の警句は生きている。
第65回はは8月6日(土) 参加者は伊賀上、岩城、岡田、菊川隆、重川、高村、田鶴谷、松浦、光石、頼本、若山の11名。第五章の追加として　盗難届けの場面は落語「花色木綿」がヒントという。(徳川夢声「漱石のユーモア」河出文庫) )─被害品(返品は実際には洗い張りがしてあった)─事実あつた話で、盗品とは言え、洗い張りがしてあったというところに、当時の国民の堅実な生活ぶりが感じられる。
第六章では「俳劇」が面白い。俳劇とは作者の着想を寒月君に言わせているのだが、─俳句趣味の劇ということであろうが、「長たらしくて毒悪なものはいけない」といって縷々説明している。「行水の女にほれる烏かな　虚子」この句は　(明治33年8月ホトトギス所収)で虚子の句を揶揄する意図があるようだ。第一に陸軍の御用達のなりをした虚子の格好が普通ではない。俳人とか雑誌編集者のそれではない。第二に句の素材の行水をしている女はともかく、行水の女を見て烏がほれたという趣向であり、それはとりもなおさず作者の虚子が行水の女にほれているからだと寒月君の解説があり、「自分だけが感じたことを断りもなしに烏の上に拡張して知らん顔するのなど、よほど積極主義じゃありませんか」に対し主人は「説明だけは積極だが、じっさいあの劇をやられたひには、見物人はたしかに消極になるよ」と゜「俳劇」消極論で茶化している。
そこで問題になるのが「たったそれだけで俳劇」はすさまじいね。上田敏君の説によると俳味とか滑稽とかいうものは消極的で亡国の音だそうだが、敏君だけにうまいことを言ったよ。そんなつまらないものをやってみたまえ。それこそ上田君から笑われるばかりだ」と東京帝大の英文科の同僚好敵手の実名を出して、漱石の愛好する俳味とか滑稽を批判させて、上田敏をからかうという念の入れようであるところが、これまた面白い。上田敏は明治7年(1874)～大正5年(1916)漱石と同年に尿毒症で没した。小泉八雲から1万人に1人の秀才と激賞されたこの天才詩人は43歳の若死にだった。
※裸体画論「先生方がそんな事云った日には日本もまだ駄目です絵画だつて演劇だって、おんなじ芸術です。」─当時の知識人の認識を示している。子規と漱石の裸体画論争もあったりしたが、漱石自身絵葉書ではあるが、裸体画を描いている。絵画愛好家であり、自分も絵筆を執った漱石は「私は生涯に一枚でいいから人が見て崇高で、あり難い気持ちのする奴をかいて死にたいと思います。」と言っている。大正2年1２月8日津田青楓宛
第66回は9月3日(土)12号大型台風四国縦断のさなか開催。参加者、伊賀上、岡田、菊川夫妻、重川、田鶴谷、高村、土居、頼本の以上9名。今回は新しく土居由里果氏が参加。今までにない若い雰囲気が漂い全員が活気づく。
はじめに第六章の虚子の「行水」の句について、頼本会長から、この句は江戸期の女の行水を描く浮世絵をヒントにして詠んだ句と思われるという意見がのべられ、関連して第七章の「石榴口」の絵を提示した説明があった。
大町桂月については(明治2年1869～大正14年1925　帝国文学創刊直後に編集委員。漱石は明治36年設置の評議員『倫敦塔』など発表)　「雑言集」(『太陽』明治38年12月で漱石を評して)「気取りたり衒ったりさるところなきは、今の世の文人に珍しき気質也。」「詩趣ある代わりに稚気あるを免れず」と言っているが、第七章の晩酌の場面のやりとりは桂月の批評を皮肉っている。桂月は「現今一流の批評家」と称えられているせいかこの『猫』の文には文句も言わなかったそうである。これほどまでに材料にされると、桂月ならずとも、めったなことは言えぬと思うのではなかろうか。
第八章の鈴木藤十郎について　実業家、苦沙彌先生の旧友で、かつて同宿して自炊をした仲間、　身なりは英国製のツイードを着てスマートな青年。月給250円で盆暮れに配当がつき平均4～500円?　多々良三平と金田富子との仲人をする。世間的には利口な男(独仙の言)という。
鈴木の処世術は「人間は角があると世の中ころがって行くのが骨が折れて損だよ。丸いものはごろごろとどこへでも苦もなしにゆけるが四角なものはころがるのに骨が折れるばかりじゃない、角がすれて痛いものだ。」人生観・社会観は明らかに現実的で「実利」中心である。複雑な社会において見事に波を乗り切っていくわけで、明治の実業界の人物として一つの典型的なあり方を示していよう。（別冊国文学　夏目漱石事典　作中人物事典）以上参考までに。
漱石の精神修養─精神安定の方法─逆上を静める方法として─
鈴木の藤さんは金と衆とに従えと主人に教えた。「精神的高尚な人物も経済力と俗物根性には勝てぬ」
甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言。─しかし効き目なし(通俗的療法の限界)
最後の珍客{八木独仙}は消極的の修養で安心を得ろと説法した。(西洋人の積極主義よりも東洋哲学的対処法に帰結)─主人公はいろいろ悩んでいるようだが、このところに帰結したようだ。
初参加の土居氏①「猫が主人を気の毒だと思ったり、身の上を案じたりするようになった。」ということ　②「主人が、自己の神経症を気にし、世の中の渡り方を模索するようになった。」ということ。そして８章末で、主人が書斎へ這入り「鈴木の藤さんは金と衆とに従えと主人に教えた。甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言した。最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法した。」これら３人から諭されたことを思い返し、いずれの道を択ぶべきか考える場面などから、③「漱石は、神経症に煩わされる自身のことを、主人の視点、はたまた猫の視点に重ね合わせ、描いているのではないか。」と述べた。
第一章では「吾輩」の視点は主人や書生、仲間の猫に限られていたが七・八章では銭湯の客とか中学生とか戸外の多数を描いて風刺することに広がりをみせている。漱石の構想はこのとき、ふと松山中学を思い出したのかも知れない。坊っちゃん同様昂奮気味である。
第67回は『猫』第9章を中心に読む。参加者は岩城、光石、松浦、菊川夫妻、頼本、高村、田鶴谷、重川、岡田、若山の11名。
はじめに8章の「催眠術」について、漱石は学生時代アーネスト　ハート医師の実験口述の翻訳(漱石全集掲載 )があることを頼本会長が
紹介。漱石は若いときから科学的理論では解明できないような分野にかなり興味をもっていることが紹介された。同時に精神の安定化にもかなり、苦労していることが覗える。
第九章はいきなり猫が見た主人の「あばた面」からはじまる。自己のあばたについて気にしている。漱石の見合いの時にも相手の鈴木家では話題になったそうだ。顔中心に見ていくと第二に鏡。頭髪を長くして左のほうで分ける。これもあばた隠しのためという。鏡を見詰めて「きたない顔」を自覚する。第三に顔を横に向けたりいろいろな表情をしたりする。ここで猫の見解に従えば、「主人は見性自覚方便としてかように鏡を相手にいろいろなしぐさを演じているのかも知れない。すべて人間の研究というものは自己を研究するのである」と。第四に「鏡はうぬぼれの醸造器である」と「同時に自慢の消毒器」と言い、「主人は鏡を見ておのれの愚を悟るほどの賢者ではあるまい。しかしわが顔に印せられる痘痕の銘ぐらいは公平に読みうる男である。顔の醜いのを自認するのは心の賎しきを会得する階梯にもなろう。たのもしい男だ。」ついにここで猫は主人を揶揄しながら褒めている。『猫』の中で主人を褒める個所はこの個所以外に一箇所あるばかりである。第五に充血した瞼第六に髭と話は茶化されながら展開して話題転換となる。
　次は本日の参加者松浦氏の発言を抄録する「　漱石による読み手を誘導するための「敷石」をうまく埋め込んでいる文章技法には感服する：「事象物としての鏡から心の鏡へ、そして自分／自己／自我／の研究へ」という具合である。当章の初出トピックは「あばた」だが、主人を含めた「あばた面」をした他者の心理描写を客観的に分析する「吾輩」が、『発達心理学』の分野における「鏡像自己認知」という側面から切り込んだ手法である。人間が鏡に映る「自分」を認識することは、「視点的対義語」の機能と同様に、主体と客体を反転させることで「自己分析」を行なうという喜劇的に大衆化した描写はかなり興味深い。」
第68回読書会は11月5日(土)喫茶坊っちゃんにて。『猫』の第十章を読んだ。参加者岡田、重川、高村、藤本、菊川夫妻、光石夫妻、岩城、伊賀上、土居、松浦、戸田、頼本の14名。はじめに土居さんが、第1節を朗読した。なかなかうまい。手始めに頼本会長から、○漱石は『猫』を発表し、文名は大いに上がった。一方大学の空気は、漱石にとって少しも快いものではなかつた。義務としての講義・採点・卒論審査と多忙で「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さへ出来れば夫丈で天に対しても人に対しても義理は立つと存候。自己に対しては無論の事に候」(明治三八年九月一八日高浜虚子宛)という気持ちになって来た。また「僕大学をやめて江湖の処士になりたい。大学は学者中の貴族だね。何だか気に喰はん」(明治三九年一月十四日　菅虎雄宛)と教職と創作の板挟みから来る激務の上に、自宅裏の中学の寄宿舎の生徒が近所迷惑を顧みず大騒ぎをすることで漱石は「イリタブルになり、じりじりしてゐた」(『夏目漱石』小宮豊隆(1984～1966)　岩波　昭和一七年)という精神状態の中で『坊っちやん』は一気呵成に二週間ばかりで書かれ、『猫(十)』と共に『ホトトギス』(明治三九年四月一日第九巻第七号)で発表された。漱石のこのような苛立ちは小説では主人公の性格となり、素材として中学校における事件となり、また結末では赤シャツ一味に「天誅」を加えるという「懲悪」となっていったと考えられる。又ここに文名大いに上がる漱石を利用しようとする虚子の商才も評価されるべきであろうとの発言。加えて、
○角川文庫p374「人間も返事がうるさくなるくらい無精になると、どことなく趣があるが、こんな人に限って女に好かれたためしがない。・・・親兄弟に見離され、あかの他人の傾城に、かあいがられようはずがない。以下の部分は猫が読者に「申し添える」という形だが面白い。人間がよく分った猫(漱石)である。とか○角文p375何が無意義であるというと、この細君はたんに掃除のために掃除をしているからである」と漱石作品には掃除の場面が多い。漱石自身は苦沙彌先生と大いにちがって神経質な掃除好きといしう感がする。夫人も漱石が雑巾がけをしたと言っている。○猫は下女に対して「この女はつんぼかも知れない、つんぼでは下女がつとまるわけがないが、ことによると猫の声だけにはつんぼなのだろう。世の中には色盲というのがあって、当人は完全な視力を備えているつもりでも、医者からいわせると片輪なのだそうだが、このおさんは声盲なのだろう。」セイモウが面白い。○「役人は人民の召使」─今日の感覚である。○人間の定義─いらざることを捏造(でつぞう慣用読みはねつぞう)してみずから苦しんでいるものなどおもしろい。○とん子、すん子
坊ばなどに対する放任主義については「放任主義」の是非については参加者に教員が4人もいていろいろ意見が出た。
菊川俊子さんからは「主人などはいくじのないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。」という弱者の立場で正直で平凡な人間を愛する作者が鮮明であるとの意見も。

12月10日第69回(例会の関係で3日を変更)は第十一章を読む。参加者頼本、高村、田鶴谷、重川、藤本、岩城、伊賀上、若山、松浦、土居、菊川夫妻、それにオブザーバーで三好の各氏計13名。このところ参加者も毎回10名を越して盛況である。

○苦沙彌「女といふものは始末におえない物件」「女というものは全然不必要なものだ」に対して、東風の「人間が絶対の域に入るには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは、芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間はぜひ結婚をして、この幸福をまつとうしなければ天意にそむくわけだと思うんだ」という理想論。迷亭の「どうせ夫婦なんてものは闇の中で鉢合わせをするようなものだ。」ということは無駄なこと。誰が相手でもよくわからないの意か。誰が相手でも同じ事であるの意か。作者は正と負を対立させている。
○探偵という言葉を聞いた主人は急に苦い顔をして「不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。(探偵をスリや泥棒と同列にあつかっている)独仙は「探偵といえば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どういうわけだろう」「物価が高いせいでしょう」と寒月君「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君。「人間に角が生えて、金平糖のようにいらいらするからさ」と迷亭君。主人「ぼくの解釈によると当世人の探偵的傾向は全く個人の自尊心の強すぎるのが原因になつている」(略)寝てもおれ、さめても俺、このおれがいたるところにつけ回っているから、人間の行動言語が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、(略)ちようど見合いをする男女の心地ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々とか従容とかいう字は画があって意味のない言葉になってしまう。この点において今代の人は探偵的である.泥棒的である。(略)今の人はどうしたら己の利になるか。損になるかと寝ても覚めても考えつづけだから、勢い探偵泥棒と同じく自尊心が強くならざるをえない。独仙君「昔の人はおのれをわすれろと教えたものだ。今の人はおのれを忘れるなと教えるからまるで違う二十六時中おのれという意識をもって充満している。二六時中太平の時はない。いつでも焦熱地獄だ。天下に何が薬だといっておのれを忘れるより薬なことはない。(現代人は周囲に気を遣いすぎて神経衰弱気味である。といっても周囲が何をしようが全く我関せずというわけにもいかず、特に何事も競争社会であってみればその解決は東洋的哲学しかあるまい。ということであろう。)
○自殺の話で苦沙彌の「この勢いで文明が進んでいった日にゃぼくは生きてるのはいやだ」「今から千年もたてばみんな実行するに相違ないよ」という言葉は今日を見通している。今日の年間自殺者数は大東亜戦争のインパール作戦3万人の戦死者数をこしているという。
○個性・夫婦・芸術
「遠き将来の趨勢をトすると結婚が不可能のことになる。」「今の世は個性中心の世、誰もが個性を主張しだし、個人が強くなった。個人が平等に強くなつたから、個人が平等に弱くなつた。強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛でも人を侵してやろうと弱いところは無理にでも拡げたくなる。苦しいから個人と個人との間に余裕を求める。かくの如く自業自得に苦しんで案出した第一の方案は親子別居の制さ。親子兄弟の離れたる今日、もう離れる者がないわけだから最後の方案として夫婦が分かれることになる。
　「夫の思い通りの妻なら人形だからね。賢夫人になればなるほど個性はすごいほど発達する。ここにおいて夫婦雑居はお互いの損だということになる。」「今代において二個の個性が普通以上に親密の程度をもって連結されうべき理由のあるべきはずがない。」東風「いやしくも人類の地球に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅することはなかろうと思います。」苦沙彌「芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するさ。個性の発展というのは個性の自由という意味だろう｡個性の自由という意味はおれはおれ、人は人という意味だろう。その芸術なんか存在できるわけがない。芸術が繁盛するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。君の詩を読んでおもしろいという者が一人もいなくっちゃ」
突き詰めてかんがえれば作者の言うとおりだが、世の中というものは実際にはこれほど突き詰めない。妥協を許さなければ人を寄せ付けない夫であり、妻であり、芸術となる。そうなると芸術は崇高となるが親しめるかどうか。夫婦間は妥協(言葉を変えるとそれは「理解」)があるから済んでいるのだろう。なければ当然離婚だろう。「妻を持つて、女はいいものだなどと思うととんだ間違いになる」とは、そんなことをいうのは一時の迷いだという皮肉であろうか。苦沙彌先生の個性を際立たせようとして発言であろう。
女の悪口　女性蔑視「すると女などは浅はかなものだから」その他の発言があるが、小森陽一氏は「漱石を読みなおす」(ちくま新書)で「漱石の小説の男たちは、明治に入ってあらたにつくられた、近代的な父権制社会、学校や軍隊、官僚組織や会社などでつくり出された
ホモソーシャルな関係から、ことごとくドロップアウトしていくように方向づけられています。」例えば「明暗」の津田など。といっているが、漱石作品の男は「退化」した男といっている。そういう男から見れば女性は「あたらしい女」ということになろうか。そういう女を「退化」した男たちは蔑視するのである。
主役総退場　のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。(偉そうなことをいっても所詮この場だけのインサイダーならぬアウトサイダーとしての悲しみ。滑稽に見えたこの小説も読めばなんとなく物悲しい。勇んで書き始めた作者の心境も最後に至って人間のありようを考えたらしい。)
　悟ったようでも独仙君の足はやはり地面のほかは踏まぬ。(現実からは離れられぬ)気楽かもしれないが迷亭君の世の中は絵にかいた世の中ではない。(これも現実離れしているようにみえるが現実を離れては成立しない。)寒月君は珠磨りをやめてとうとうお国から奥さんを連れて来た。これが順当だ。(最も現実的だ) (略)東風君も今十年したら、むやみに新体詩をささげることの非を悟るだろう。(ふわふわした地面に足が地に付かない状態でなくなり、現実的になる。)三平君に至っては水に住む人か、山に住む人かちと鑑定がむずかしい。生涯シャンパンをごちそうして得意と思うことができれば結構だ。(堅実な仕事でなく投機的相場師的職業で大学教師などから見れば埒外の人) (略)鈴木の藤さんはどこまでもころがってゆく。ころがれば泥がつく。泥がついてもころがれぬ者よりも幅が利く。(あくまでも実利を追う商社マン的将来有望の人) (略)吾輩のようなろくでなしはお暇をちょうだいして無可有の境に帰臥してもいいはずであった。(自嘲的悟りの境地)主人は早晩胃病で死ぬ。(結果としてそのとおりだが、本気ではないから余裕がある。)(略)死ぬのは万物の定業で(略)
◎エピローグ　役者総退場し、猫も死ぬ　南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。という気持ちで死ぬのは幸せな死に方。吾輩の死をめでたく締めくくっている。このエピローグがあってこそ『猫』が生きてくる。プロローグも良いが、最後は作者が一気呵成に面白くしようと書いている。最後は締めくくるという意識もあるようだ。
3月の60回よりつづいた『猫』読書会も69回で参加者皆さんのご協力でようやく終了した。『猫』に10回を費やすのはやはり『猫』の魅力の
賜物であろう。「じっくり読めてよかった。こうでもしなければ途中で放棄するところであつた」(藤本氏)という感想もあった。
次回第70回は、1月7日(土)午後1時30分より「喫茶坊っちゃん」にて開催予定。「坑夫」を読む予定。

『野分』読書会は終了

今回は伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、田鶴谷、高村、藤本、頼本、若山の10名の参加であった。

(一)成立　『二百十日』は明治39年10月号の「中央公論」に掲載、『野分』は翌40年1月の「ホトトギス」に掲載された作品。つまり、『坊っちやん』「ホトトギス」4月号『草枕』「新小説」9月号の次で翌年の『虞美人草』のあいだにはさまった中篇小説。表題自体は季語のひとつ。題名は(七)の新体詩に「いたづらに、吹くは野分の、」とある。この部分から題名をと考えられるが、実は前作『二百十日』との関連から白井道也の激しい「精神のシンボル」(紅野敏郎)と考えられる。39年10月16日『野分』の構想を練っていたらしい。「「現代青年に告ぐ」を書くか、その主意を小説にしたい」という。12月10日『野分』起稿題名未定。12月16日『野分』80枚、予定の半分にも達してない。虚子に題名は『野分』でどうだろうかと答える。
(二)時代背景　漱石はこの頃大学がいやになっていた。「僕大学をやめて新聞屋になろうか」といっている。白井道也も学校を辞めて「文学者」になろうとしている。白井道也も漱石の分身である。漱石明治40年4月1日朝日入社。
明治39年8月1日東京市電4銭均一に値上げ認可される。9月5日日本社会党有志の値上げ反対運動。日本橋・神田付近一部暴徒化。その件についての8月11日都新聞記事中、「夏目氏の細君是に加わり」とあるが、これは事実ではない。しかし、漱石はこの値上げ反対デモには好意的であった。
登場人物　白井道也の経歴　七～八年前大学を卒業、田舎の中学を2～3個所流して歩いて去年の末、東京へ．文学者。
1、最初は越後のどこか。石油会社の役員が幅をきかす。演説会で金力と品性と題して両者の必ずしも一致せざる理由を説明し、会社役員の横暴と青年子弟の黄白万能主義信奉を戒めた。生徒も父兄の意見を聞いて身の程知らぬ馬鹿教師と言い出した。
2、次は九州、世の中がこうの、社会がああの、未来の国民が何のかのと白銅一個にさえ換算のできぬ不生産的な言説を弄するものに存在の権利のあろう筈がない。権利のない者に存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩く学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々の幾片の紙幣は、どこから湧いてくる。(略)　金の力で生きておりながら、金を謗るのは、生んでもらった親に悪体をつくと同じ事であるというのが周囲の見方である。
3、「第三に出現したのは中国辺の田舎である。」－『坊っちゃん』参照―「只土着の者が無闇に幅を利かして、他県の者を外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、色々に手を廻わしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味を並べる。生徒にからかわせる。」「ある時藩主が学校を参観に来た。ところの者から云えば神様である。この神様が道也の教室へ這入って来た時意にもとめず授業を継続していた。これから事がむずかしくなった。」─これに似た話は各地にある。松山中学で文部大臣森有礼の視察があったときの渡部政和の授業態度が堂々としていて大臣から褒められた話とか、熊本県内では逆に欠礼の似た話があり、それらを材料にしたのであろう。要は道也の俗世に馴染まぬ生き方がよくあらわれている。
(三)登場人物
　　白井道也の文章　妻は評して「道楽文章」と。また「人格論」を著述中。彼は学校をやめて文筆で立とう　　　　　　　　　　　としている。収入は「江湖雑誌」の編集で二十円。英和辞典の編纂で十五円。他に執筆で2円ぐらい。
　　　　　　合計37円。当時の中学校中堅教員程度の給料で、悪くはないが、固定給ではない。中堅として現在に
　　　　　　換算して37万円。女中を一人雇っている。しかし当時としては普通である。それに兄に百円の借金。
　　　高柳周作　作家志望の青年。東大文学科を今年卒業。新潟出身。父郵便局員で公金横領の罪で服役中肺病死。
　　　　　　　母は健在。白井道也の教え子。中野輝一の友人。肺病にかかっている。
　　　中野輝一　青年文学者　東大文学科で高柳周作の同級生。号春台。父は会社社長。秀才、美人の娘と結婚。金縁眼鏡　　　　　　　をかけ秀才らしい風貌。「高柳君の眼に映ずる中野輝一は美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁え　　　　　　　た秀才」
　　　その他白井　政(十)白井道也の妻　　　足立　白井道也の友人、大学教授　　　白井道也の兄　会社役員、その社長は中　　野輝一の父。　　　中野輝一の恋人
四　中野の恋愛論(三)「我々が生涯を通じて受ける煩悶のうちで、尤も痛切な尤も深刻な、また尤も激烈な煩悶は恋より外にないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度この煩悶の炎火のうちに入ると非常な変形をうけるのです」「変形？ですか」「ええ形を変ずるのです。─今までは只ふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないので、のんべんだらりんに暮していたのが、急に自分が明瞭になるのです」「自分が明瞭とは？」─自分の存在がです。自分が生きている様な心地が確然と出てくるのです」「この煩悶を経過しないと自分の存在を生涯悟る事が出来ないのです(略)只楽天だって仕様がない。恋の苦しみを嘗めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。」
五　時局性　(十一)明治は四十年たった。(十一)この間の電車事件を煽動した。明治39年8月11日　都新聞　「電車賃上げ反対行列」─「夏目(漱石)氏の細君是に加わり各自浴衣に尻端折或いは筒袖に草履履きといふ遠足式軽装を為し婦人連も小褄をキリと引き上げて頗る身軽に見受けられたり」─事実無根の記事
六　表記　「しるくはっと」　ｐ231　　生肉の「ビステッキなど食っちゃいられない」ｐ109ビステキ
　　　　　　
　表現(一)　p92「鳥の身になっては相当の弁解があるはずじゃ」口語体の会話体。地の文では珍しい。
　　　　　『行人』「こうじん」とある。(四3行)『行人』の読み方の参考になる。(二)121「翻訳もはかが行くぜ」
　　　　(三)誇張表現ｐ104「午に逼る秋の日は、頂く帽を透して頭蓋骨のなかさえ朗らかならしめたかの感がある。」
　風刺(一)p92「無駄口を叩く学者や、蓄音機の代理をする教師」「脳天と頭骸骨がみえる」など
(教育観)　文庫ｐ98白井道也は「学問は綱渡りや皿回しとは違う。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上がるのが目的である。大小の区別のつく、軽重の等差を知る、好悪の判然する、善悪の分界を飲み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。」─現今の教育ははたしてどうか。(ハタシテドウヤ)
第58回読書会『野分』第2回参加者　伊賀上、大沢、岡田、菊川夫妻、重川、田鶴谷、高村、藤本、松浦、頼本それに時事通信の光石氏夫妻計13名。
結末について、中野君の好意により療養転地のため、手にした100円を高柳は道也先生に進呈し、引き換えにもらった先生の「人格論」の原稿を中野君に渡す。これは美しい友情と恩師に対する敬愛を表そうとしたものであろうが、そこに漱石の倫理性は感じられるが、最後のどんでん返しのような結末は安っぽい感じもする。このような大団円は次の『虞美人草』へも続いている。『虞美人草』の藤尾の死など唐突な感がする。それはなぜだろうか。

○白井道也の世に妥協せぬ厳しい生き方は屈原の生き方にも似ている。古川　久は漱石は『草枕』執筆前に『楚辞』を読んだという。「『草枕』は『楚辞』を裏返しにした形で発想されたものではないか。「孤村の温泉」「春宵の花影」「月夜の低誦」等「どれも芸術家の好題目」で春の季節感に満ちている。」という。また「『楚辞』は志を得ず自ら身を殺した楚の屈原を巡る失意の辞賦を集め蕭条たる晩秋の気にうたれるもので、このような対象にこそ作意も働いたのでは」といっている。白井道也は死にはしないが、あくまでも自分本位のきびしい生き方で家族のことまで考えはしない。その倫理性は儒教的で漱石のものでもあり、『心』の先生にも通じ、道也の妻、政の考え方は「こころ」の奥さんに通じる。
○屈原自身は汨羅に飛び込んで自殺するが、屈原の作とされる『漁父辞』は屈原自身と漁父の立場が示されている。
一方『野分』では周囲に同調しない白井道也を描く一方で、その反対の世俗的意識もある妻の政と道也をやや滑稽味をもって描く漱石自身の姿は相対する二者を描くという点で共通するといえよう。しかし自殺はしてないのだから、そこに政治責任者と小説家の違いがあり、あくまでも小説は虚構だということになる。また維新の志士のように命がけで文学をやりたいという漱石の社会的意識は二百十日より一段と先鋭化したと考えられる。
「『猫』の冒頭　「吾輩は猫である。名前はまだない」猫により主人が滑稽化され、嘲笑される。主人も猫も作者の戯画化。何度も棄てられる(何度も勤務する学校を変える)ところも似ている。
○『野分』の冒頭「白井道也は文学者である。」真正面から真面目に。教師でも小説家でもない。芸術家でもない。文　　学を生命とする人。
○教師をやめて、常識を欠いた道也は現実には生きがたい存在─「坊っちゃん」と同じである。
○道也は決して理想的人間ではない。滑稽なピエロと同じ。「猫」の作者はよく知っているはずだ。作者は妻を一方的に　非難して、道也を一面的に理想化し、悲劇化した。
○「白井道也が教師をやめて『江湖雑誌』の編集者になり、「憂世子」という名で文章を書き、社会主義者とともに演説　したのは、御上を後ろ盾にする権威主義に抗して、「江湖の処士」＝民間の言論人として戦ったのです。大学をやめて　朝日に入社する漱石の精神には道也に通じるものがありました。しかし、漱石は道也のように、理想に向かって直進す　る精神主義者ではありませんでした。」(『夏目漱石』伊豆利彦 )
　朝日入社では給料について細かい点まで交渉している。経済については細かい漱石であった。
　第59回2月5日(土)　今回は伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、、高村、藤本、頼本、若山の9名の参加であった。
前回欠席の一人から結末が急転直下大団円となるのは物足りないという意見があつた。欠席者が意見を蒸し返すのは時間的に無駄のようであるが、確認の意味ではよいかもしれない。ここで漱石の当時の作者の身辺をみると　①多い来客、②虚子の原稿取りにせきたてられて、書き直すひまがない。③借家の持ち主から返還をせまられても、転居先がきまらない。④家族がインフルエンザみな寝こんでいる。⑤講義のための登校⑥不眠状態。という心身ともに疲れ果てた状態は作者をして早く切り上げたいという気にさせたようだ。それに何よりも大学をやめて、朝日入社の決断時期であり一身上の大事な時期で一短編にいつまでもかまっておれなかったと考えられる。一方『虞美人草』の方は入社第一作であまりにも張り切りすぎて、評判もそれほどでもなく、自分自身もいやになって主人公をさっさと殺してしまって、死に方に関するかぎり、結末を無理につけた感がする。しかし、おことわりしておくが、『虞美人草』はそれなりにまとまっていて内容的にも演劇的で面白い作品である。あといろいろ意見があつたが省略。次回は3月5日(土)同時間同場所にて『吾輩は猫である」第1章について話合う。

第177回例会は12月5日(日)坂の上の雲ミュージアムにて開催
　　　　　　詳細はトップページを御覧下さい

11月6日 (土)晴れ　今回は愛大佐藤栄作教授が久々のの参加、それに伊賀上、岩城、岡田、高村、田鶴谷、藤本、頼本、若山以上9名のメンバー。例により各人　一言づつの感想で始まる。
座席の左周りでまず田鶴谷、気の会った2人ずれの旅で気楽な感じで、固い友情が感じられる。二人の会話が面白い。高村、文中、足にまめができると煙草の灰をすりつけて治療するのだが、これは私も経験がある。煙草の灰を飯粒で煉って足まめに塗りつけると不思議と痛みが取れる。子供の頃親がよくやってくれた。岩城、1日2合の食事というのでは当時としては少ないのではないか。若山、『草枕』の方が小説としては面白いと思う。藤本、圭さん碌さんの会話が中心で進行するが、特に碌さんという人物がはっきりしない。「半熟卵」が面白い。
岡田、『坊っちやん』でも卵はでてくるが生卵である。こちらは半熟卵であるところがおもしろい。佐藤、全篇作者のエネルギーが表れていて、『坊っちやん』同様筆がのっている感じがする。頼本、舞台が秋の暴風雨と阿蘇の噴煙、山鳴りという荒々しい自然の中を圭さんに引っ張られてしぶっていた碌さんも共に最後は山頂を目指すという「前向き」な物語である。かつて画家岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言ったが、荒々しい二百十日の自然の中、漱石の作家としての芸術精神が社会批判と相俟って強烈に爆発している気がする。『猫』から『虞美人草』へと続く漱石初期作品の流れるような乗りに乗った魅力であろう。
その他の問題点①快楽があるか。
この作品を漱石自身はどう評価していたのであろうか。明治39年9月11日高浜虚子宛書簡に「読み直してみたら一向つまらない。二度よみ直したら随分おもしろかった。」といっており、まんざらてもないようである。そのころ大谷尭石あてには「二百十日はかねての約束にて不得已執筆夫故可成骨の折れぬ様会話に致し候略」と努力の跡をしのばせる。ただ社会批判を頭からぶっつけるのではなく、大人の圭さんが出臍で気炎を吐くなど想像するだけて噴き出してしまうのだが、出臍の圭さんと相手役の碌さんの弥次喜多的登山旅行、それに都会人から見れば間の抜けたような、それでいて憎めない宿の女中など配して会話も工夫している。
　大岡昇平は『小説家　夏目漱石』の中で『坊つちやん』について、「この文章の波間にただようのは、なんど繰返してもあきない快楽である。傑作なのである」といっている。私には『二百十日』『野分』には「強さ」や「面白さ」を出そうと努力している漱石の苦心が感じられる。その点においては『坊つちやん』と同一線上にあるようだ。しかし「快楽」ほどではない。
問題点②田舎の人間の描き方
女中にみられるように田舎者の行動にユーモアを感じ、「単純でいい女だ」と言い、「田舎者の精神に文明の教育を施すと立派な人物が出来る」といっている。また、チップを払って「あの下女は単純で気に入ったんだもの。華族や金持ちより尊敬すべき資格がある。」と素朴な人柄を礼賛している。『彼岸過迄』でも「一筆書きの女中」といって女中の素朴・単純さを褒めている。『草枕』他でもみられるように、汽車に代表される近代文明により、江戸以来の質朴な庶民の人柄が堕落させられ、ごてごてした「油絵的」なものになってしまったところを漱石は嘆いているのである。『坊つちやん』においては田舎者を馬鹿にしているが、これは田舎者にこ狡さをみているからである。(以下省略)

愚陀仏庵復元は文学遺跡としての見地から　　会長　頼　本　冨　夫

去る七月十二日朝の松山地方の豪雨により、倒壊した愚陀仏庵の復元場所が今問題になっている。
愚陀仏庵は漱石の松山における二番目の下宿である。当時の上野家の離れで明治二十九年八月には正岡子規も約五十日同居した。昭和二十年七月戦災により消失したが、昭和五十七年愛媛県により現在の一番町三丁目県立美術館(旧久松邸)裏に復元された。その時もこの場所が適当か否か問題になった事である。文学遺跡である以上、ありし日の夏目漱石の生活が偲ばれる場所、即ち二番町の個人の所有する駐車場が最適と言わねばなるまい。
　しかし、ここは現在、周囲を飲食店に囲まれ、文豪を偲ぶ環境とはほど遠い。それに地価も馬鹿になるまい。環境面と地価をクリアーできれば話は別だが、それが困難ならば、私は万翠荘裏の倒壊した場所が一番良いと思う。
　静かな雰囲気であり、何といっても漱石の最初の下宿『松風亭』跡と地続きであり、漱石と無縁ではない。すぐ近くには『松風亭跡』の碑や松山到着を知らせる書簡碑もあり資料的にも重要である。県当局も昭和五十七年復元に当っては、そのことも勘案してこの場所を選んだはずである。先人の努力も無にすべきではない。自然災害はどこでも起こり得る。今日の技術で十分な地盤補強をすればよい。
　復元場所は人寄せ経済効果ばかりを考えるのではなく、あくまでも文学遺跡としての価値と、できれば環境を考えてほしいものである。

　　
　　第55回読書会『草枕』を読了　　　　　　　　　

　　　　　平成22年8月8日(日)於喫茶　坊つちゃん　　都合により日曜日開催

　伊賀上、岩城、重川、菊川夫妻、高村、田鶴谷、藤本、頼本、若山、以上10名参加
最初にに参加者の自由な感想。岩城「このような小説が人気があったということは、かなり教養のある読者の支持を得たということか」田鶴谷「レベルの高い小説だ。漱石は最初建築家志望だったのだが、地形の見方などは理系の人物らしい見方だ」菊川「始めに処世訓」から始まっているのが漱石らしい感じ」高村「俳句が素料となつている」藤本「これは小説論としておもしろい。水に浮ぶ那美さんの顔が描けなくて困っていると、最後に元の夫を見送る場面で那美さんの顔にあわれの表情が表れ、それで決まりとなるなど、テーマは「非人情」で首尾一貫している」など。
CommentⅠ　明治18年、坪内逍遥(1859～1935)が『小説神髄』(「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」)を発表以来、これが文学のもっとも大切な価値とされ、近代日本の小説の主流となつた。漱石は敢えてこれに反して「非人情」をテーマとしたのである。その意味で画期的な小説である。これを反俗的ととらえるならば、このテーマは『猫』『坊っちやん』にも観られ、『二百十日』『野分』にも見られ、形を変えて以後の作品に続いている漱石の特色である。

CommentⅡ　漱石自身この小説は俳句的小説といっているが、ストーリーそのものはいたって簡単で、人生哲学、俳論、絵画論、能楽論等に俳句的感覚を中心とする美的感覚が添えられたものである。その上に、作者の漢詩、俳句の実作が披露され、英詩をはじめ英文学の知識、万葉集など古今東西の幅広い知識が縦横に織りなされている。その豪華さは衒学的ともとれるが、いかにも新進気鋭の作者らしい感じがして『虞美人草』の張り切りようにも通じる。
参考○成立前後　明治38年1月『猫』発表。39年4月『坊っちやん』明治39年9月1日発行の『新小説』に『草枕』を発表、10月「中央公論」に『二百十日』を40年1月「ホトトギス」に『野分』を発表。

作者自身は次のように言っている。「余が『草枕』」(全集第二十五巻)明治39年11月15日「文章世界」1巻9号「一体小説とはどんなものか(略)世の中に立って、如何に生きるかを解決するのが主であるらしい。(略)私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ─美しい感じが読者の頭に残りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそプロツトもなければ、事件の発展もない。」
小宮豊隆は『草枕』の人気について─語彙・材料が美しいだけでなく『草枕』が西洋趣味に対峙するものとして、東洋趣味を高唱している点にある。(略)漱石は美を生命とする俳句的小説とも言っている。(新潮文庫)
○非人情とは　小説家大岡昇平は次のように言っている。「恋愛も含め、人情にからまれて、人生の深刻な葛藤には囚われないという一種の審美的な超越的立場。つまり恋愛しているんだか、してないんだかわからない。(『小説家夏目漱石』「水・椿・オフィーリア」)
CommentⅢ最後の那美さんの顔に「憐れ」の表情が浮ぶところなどは「非人情」とは言えないのではないか。「憐れ」の表情があって、「それが出れば絵になりますよ」というのは「非人情」小説の破綻を物語るものであろう。そもそも水死体に「憐れ」の表情などはない。ミレーはオフィーリヤを描くときモデルに無表情をさせたのであろうが、この方は生きている人間をモデルにしたのだから美しい。
○9月4日第54回草枕第2回　出席　岩城、岡田、高村、戸田、藤本、若山、頼本それにゲストの
愛光学園教諭丹田氏の計8名　。久々に岡田和尚の出席。ゲストの丹田氏は大洲市から遥々おいでくださった。はじめに丹田氏が中世から近世にかけての英語がフランス語の影響を強く受けたものであったという語学的な話と、氏が暗記しているシェークスピァの14行詩ソネットを朗誦。今までの読書会とは一味違ういい雰囲気であった。次いで漱石の漢籍読書の蓄積が漱石の人格を作りあげているという話に移った。この件については会員から八犬伝などの愛読から来る儒教的倫理性が漱石の倫理的性格に強く影響しているとの指摘もあった。
　続いて頼本からオフーリヤ絵画の話になり、漱石は学生時代からハムレットゃメレディスを熟読しており、水に浮ぶオフィーリヤのイメージは頭に叩き込まれていたと考えられる。(雲雀についても同様)水中のオフィーリヤは常にイメージ化され、その上テート美術館でミレーの絵画を観て一層の感銘を受けたにちがいない。それがここに素材としてとりいれられている。漱石か謡曲「通盛」が好きだったのも水中の美女に漱石がこころを奪われたその証拠。一の谷で戦死した通盛の愛人小宰相は恋人通盛の死をはかなんで入水する。その波間に沈む黒髪の美女はオフィーリヤのイメージであったのだろう。ここで4枚のオフィーリヤ絵画を紹介した。オフィーリヤ絵画というものは多いが中でも先述のミレーのオフィーリヤが出色。水に浮くオフィーリヤの描写の翻訳は1坪内逍遥2野島秀勝岩波文庫3大岡昇平「ハムレット日記む他多数あるが、ここで坪内逍遥訳のプリントを配り皆さんによんでもらった。これはまつたくの歌舞伎・浄瑠璃調で明治演劇の雰囲気が伝わってくる傑作で、版を現代まで重ねた理由がよくわかる。
○10月2日(土)第55回草枕第3回　出席　岡田、高村、藤本、松浦、若山、頼本とゲストの岡田偉子氏計7名。始に岡田偉子氏が作中のシェリーとメレディスの作中の二つの詩を朗読して一同を魅了した。そしてそれぞれの詩人とその押韻について説明があった。
次に冒頭の漱石の芸術論について、我々が写真や絵画を展覧会に出品したりするのは何のためかとう話になり、文中の画工はどうなのか考えた。
○詩人や画家の使命－越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人といふ天職が出来て、ここに画家という使命が降る。
○あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人のこころを豊かにするが故に尊い。(芸術家は人々の心に安らぎと豊かさをもたらす存在だと語る。しかし、文p12「詩人は常のひとよりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多かろう」「詩人に憂いはつきものかも知れない」などと芸術家は常の人以上に苦悩する存在としてとらえられている。したがってこの画工が欲する詩は文p12「余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵芥を離れた心地になれる詩である。」それは「超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心地になれる」芸術である。それは王維や陶淵明の詩に「汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐっすりと寝込むような功徳である」と感じ、この山里にやって来たのも「少しの間でも非人情の天地に逍遥したい」からだという。)

　
　第52回読書会『道草』読了
　　　　　　　　　

第51回読書会　出席者　伊賀上、岩城、菊川夫妻、重川、田鶴谷、戸田、頼本、若山、珍しく高村の10氏
『道草』の第1回につき参加者が感想を発表。
感想
　ここには後期3部作に登場するような、かなりの地位にある資産家の長男でもなく、働かなくても優雅な暮らしができる人物でもなく、毎日をどうにか暮らしている大学の教授の日常が描かれている。それは作者自身がモデルの部分が多数あることは自明である。作者の描くキャンバスは気取らずに大衆の目線に合わせている。自然主義の作家がこの作品を褒めたというのも肯ける。しかし、夫婦を描く場合は作者のスタンスは自己批判もあり、相手の視線にもなっているし、相手へのいたわりもある。単なる自然主義とは異なる。　
　主人公健三はかつての養父島田から証文をかたに金銭をせびられて、どうしようか悩み、結局昔の義理から100円を贈る。余裕があるわけではなく、金を遣りたくはないが、考えた末に渡す。妻のお住にも馬鹿にされながら贈るところに義理堅い人間漱石が表れている。少し名が出たり、社会的地位を得たりすると親戚中が寄ってたかってすがってくる一昔前の日本の家族制度の一面をまざまざと描いている。しかし健三はなんだかんだと言いながらそれができるのだからまだましかもしれない。人に頼らざるを得ない老後の保障の何もない人々よりも。健三は月給130円だが、現在に換算すればざっと130万円。それに著述の収入もあったわけだから、それなりに苦しみもあったけれども、明治の生活水準からすれば結構な生活といえる。だから島田やその代理人は「これだけの構えをして・・・」といっている。明治を生きる義理堅い真面目な人間の生活を描いているところが共感できるところである。
　最後に「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ。・・・・」余韻を持たせたエピローグである。『門』の結末部を思わせる。漱石の人生観であろうか。一見何の変哲もない小説のように見えるが、夫婦を中心として人間対人間のドラマが展開する。そして我々は生きている限り終わりのないドラマを一人一人必死で激烈に演じていると知らされると考えれば、この作品は静かな中にも大きな感動を秘めている。漱石はこの作品でそれまでの人生を見つめ直しているようだ。最後に一つお住は『三四郎』の美弥子、『彼岸過迄』の千代子、『行人』のお直の系列に属する部分的には近代的思考力を持つ女性として描かれている。『虞美人草』の藤尾も少しはこの部類かも知れない。漱石がこのような女性を主人公とした小説を考えなかったことは、時代性があったとしても惜しいような気がする。もしそうしていれば、女性を描く文学において、漱石は欧米の文学を超えていたかも知れないと思う。
第52回読書会　伊賀上、岩城、菊川夫妻、重川、高村、戸田、藤本、頼本、渡部以上10名参加。
種々の問題が提起されたがその一つに前回に田鶴谷氏から提起された問題について、
（第二十九章）「時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼を有った青年がいた。・・・或る日彼はその一人に誘われ、池の端を散歩した帰りに」(その青年は勿論当時の主人公健三に教壇で教えを受けている青年の一人と思われる。)その青年との会話、「しかし他事じゃないね君その実像も青春時代を全く牢獄の裡で暮らしたのだから」。青年は驚いた顔をした。「牢獄とは何です。」「学校さ、それから図書館さ。考えると両方ともまあ牢獄のようなものだね」青年は答えなかった。その答えともいうべきものが、第三章のはじめにある。
健三はその日その日の仕事に追われて家へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。「自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼はおぼろげにその淋しさを感ずる場合さえあつた。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索莫たるあら野の方角へ向けて生活の路を歩いて行ながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。─健三は若いときの我武者羅に学問に打ち込んだ余裕のない日々を回想して牢獄といっている。友人との社交、自由な読書や著述や芸術の鑑賞など全くない生活である。しかし反面そのような生活があったればこそ今日の自分があるのだといっていることも見のがせない。個人的なことだが、先日観たアメリカ映画「ハムレット」の中でハムレットが過去を回想して「牢獄」だったと言っていたが、漱石も当然シェークスピアは読んでいるのだから、健三にこのように言わしめたあたりは沙翁をヒントにしたのかも知れないと思った。(Ｙ)

平成22年5月8日(土)第50回読書会　『心』を読む
4月1日発行
『松山坊っちゃん会会報第10号』会員他各方面へ配布

　第46回読書会、「心」を読む。参加は、伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、桑島(初参加)、頼本、若山、渡部の
9名。最初は各自が全体的感想を簡単に述べた。　
(渡部)完結してないような気がする。これから私と奥さんのドラマが展開するような気がする。
(若山)私はクリスチャンだが、「先生の遺書」はキリスト教で言えば「懺悔」である。先生は死ななくてもよかったような気がする。
(伊賀上)先生の奥さんはだんだん私と親しくなるが先生がいる場合は私と先生の間に立ち入らない。弁えたところがある。
(菊川俊)現代の小説のようにぐいぐい引き込み読ませるところがある。
(菊川隆)最後になるほど、主題が明確になり中心へ一気に迫る。
(頼本)この小説は「倫理的小説」だ。①Ｋの戒律を重んずる自己に厳しい行動とも取れる自殺①があり、それにより、先生のやはり自己に厳しい自責の自殺②があり、後に残された奥さんも平凡な旧式の日本の女ではない③思慮の深さがある。先生を慕った私④も思慮深い、教養のある学生である。要するに主要登場人物4人がいずれも道徳的人物であり、道徳的4人により展開進行するこの小説はと当然ながら、倫理的小説となっている。ということは、もっとも漱石らしい小説でもある。それが恋愛と結婚というもっとも現代の人間的問題を追及していることも、なお一層漱石らしい小説である。
散会後二番町の「すし徳」にて新春懇親会を開催11名の会員が参加和気藹々と語り合った。
第47回2月6日(土)喫茶「坊っちゃん」にて。今回からは上、「先生と私」中「両親と私」に入る。初めに標題のごとく受贈された図書を会員の面々にお渡しし、末永く愛蔵していただき、藤井氏のご好意に報いる事とした。今回は伊賀上、岡田、菊川夫妻、、田鶴谷、戸田、重川、頼本、若山、渡部の各氏が出席。
　1、書きき出しで出自、階級、時代、所属の人間関係など述べるのは伝統的な日本文学の常套手段である。「猫」なども名前に関わるがこの小説の主人公先生も私も名を出さない点では同様である。先生は大学出(十二・十三)いわゆる高等遊民。2、先生と奥さんの出自　奥さんの父は鳥取県かどこか、奥さんは江戸の市ガ谷の生まれ、先生は新潟県出身。(十二)3、奥さんの態度と人柄、奥さんは名は静。理解力がある。(十八)「奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注意に一種の刺激を与えた」(十八)4、私　当初高校生後大学を卒業、就職しない。思慮深い謙虚な人柄。父親が腎臓病。5、(先生の第一印象)「私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。」人を惹き付ける静かな人柄。「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱きしめることの出来ない人、─これが先生であった。」「先生は始終静かであった。落ちついていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切ることがあった。6、その静かな先生が昂奮する時があった。「先生はさっき少し昂奮なさいましたね。」・・・「いや見えても構わない。実際昂奮するんだから。私は財産のことをいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても忘れやしないんだから」先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にもまったくの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力をいまだかつて想像したことさえなかった。」「私はひとに欺かれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。」(三十)普段心静かな先生も心の中へ一歩踏み込むと、苦々しい不愉快な人には言えぬ思いがあった。
7、(先生の家庭)─酒―『猫』では大町桂月に漱石がもっと酒でも飲むとよいと作家批評欄に書かれたことが取り入れられている。苦沙彌夫人は酒を飲むことには反対である。「ある時先生の宅で酒を飲まされた。その時奥さんが出て来て傍で酌をしてくれた。先生はいつもより愉快そうに見えた。「お前も一つおあがり」と・・・「珍しいこと。私に呑めとおっしゃったことは滅多にないのにね」「・・・でも貴夫は大変愉快そうね、少し御酒を召し上がると」「これから毎晩少しずつ召し上がるとよござんすよ」「そうはいかない」「召し上がって下さいよ。その方が淋しくなくっていいから」―幸せそうでなんとなく淋しい家庭である。子供はいない。「出来っこないよ」「なぜです」に対して先生は「天罰だからさ」と言って高く笑った。「天罰」とは当時の子供の出来ない男が言う常套句か。
8、(先生と私)(両親と私)の二つの章は先生の環境先生の人柄や性格を私を通して浮かび上がらせる。)(両親と私)の章では勿論私の家庭環境を描くが、先生から離れていても先生を慕う私、先生のことば(注意)が思い起こされ、先生の死への伏線となっている。このようなことが参加者の話題となった。
第48回3月6日(土)喫茶「坊っちゃん」にて。伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、、田鶴谷、戸田、重川、頼本、若山、渡部の11名が出席。
先生の自殺について意見交換した。しなくてもよいのにとか、明治の精神に殉ずるというのが解らないとか、本当に明治の精神に殉ずると
いう気持ちになれるのだろうか。そのような抽象的なものに対する動機で殉死ができるのだろうかという意見が出た。また参加会員全員に
Ｋに対してすまないという気持ちで自殺したとすると、自分であればこのような場合自殺するかと問うたところ自殺するかもしれないと
答えた人は皆無であった。先生の倫理的生き方の重みが改めて問われる。

第49回4月10日(土)喫茶「坊っちゃん」にて。参加者、岡田、桑島、重川、戸田、藤本、若山、頼本、渡部以上8名
前回につづき「先生と遺書」の章について
①十二「私は小石川へ移ってからも、当分この緊張した気分に寛ぎを与えることが出来ませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きよときょと周囲を見廻していました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に段々動かなくなってきました。私は家のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に坐っていました」(先生は新しい環境になじめず、精神的に緊張した状態である。この部分自分を人間を観察する「猫」に喩えているところが『吾輩は猫』を思い出させるのが面白い。
②十七下宿の奥さんとお嬢さんと先生の関係は次第に打ち解けて、先生がお嬢さんに着物をプレセントするときは3人で買い物に行ったりして友人に冷やかされたりする。先生が精神的状態はだんだん緊張が解けて、お嬢さんが好きになっていく過程がくわしく語られる。この人間関係の描写心理状態は①と②とを比較するとよくわかる。買い物は「虞美人草」にも見られるが、こちらは成功していない。小夜子は小野に断られている。
③(五十五)同時に私だけが居なくなった後の妻を想像してみるといかにも不憫でした。母の死んだ時、これから世の中で頼りにするものは私より外になくなったと言った彼女の述懐を、私は腸に沁み込むように記憶させられていたのです。私はいつも躊躇しました。妻の顔を見て、(自殺を)止してよかったと思うこともありました。そうしてまたじっと竦んでしまいます。」先生はこれほどまでに妻のことを深く思っているのである。ところが「私は妻を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に残酷な恐怖を与えることを好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない間に、こっそりこの世から居なくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。」と言って死んでしまうのである。本当に妻に対する愛情があるなら③の冒頭のように死ねないはずである。「私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。」などとはまつたく先生の勝手としか言いようがない。先生の自己満足である。親友Ｋに対する贖罪の意識から自殺をしたということであるなら、妻への愛よりも友情の方が厚いというわけである。とするとＫを出し抜いてまでお嬢さんを妻にした上、その妻を今度は不幸にするということは先生は考えているのであろうか。先生は妻より我が罪の償いを優先したのである。それは先生の倫理性、即ち漱石の倫理性がいかに強いものであかを物語るのであるが、妻に対しては残酷な気かしてならない。「妻に血の色を見せないで死ぬつもりです」とか、「妻の知らない間に、こっそりこの世から居なくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足」などと、妻にしてみれば、まったく勝手に言い分である。作者の男性優位の明治気質があると考えられる。
④「すると夏の暑い盛り、明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは畢竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。」漱石は1867年慶応3年1月5日生れ、明治元年は慶応4年であり、明治天皇崩御は満45歳であった。当に近代国家日本のあゆみと共に、明治と共に歩んだ漱石であったから、④の気持ちは痛切に感じられたに違いない。

五十六「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向かってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。」ここで漱石は殉死という武士道の古い慣習に感動をおぼえたのである。近代的知識人であった漱石は、漢詩文と日本古来の文学の素養を身に付けた知識人でもあった。プロ作家として出発した第一作が勧善徴悪小説『虞美人草』であったというのも頷けることである。この小説は勧善徴悪小説『坊っちやん』以来『二百十日』『野分』の流れを引くものである。
⑤(乃木大将殉死から)「それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように、貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑みこめないかもしれませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方ありません。あるいは箇人のもって生まれた性格の相違と言った方が確かかもしれません。私は私の出来る限りこの不可思議なわたしというものを、貴方に解らせるように、今までの叙述で己を尽くしたつもりです。」乃木大将夫妻殉死をきっかけとして先生は自殺する。先生は乃木大将の殉死に感動したのである。明治になってから誰もやらなくなっていた殉死を古式に則って敢然と実行した大将の生き方に共感するものが漱石にはあったはずである。④⑤の文章とその前後から読み取れることである。しかし、漱石は「私に乃木さんの死んだ理由がよく解らないように」と言い「それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方ありません。あるいは箇人のもって生まれた性格の相違と言った方が確かかもしれません」と言っている。何故だろうか。乃木大将の殉死に感動したとはいえ、近代の知識人漱石は自分の小説の中で先生が大将の真似をして自殺したのでは文学作品としての作者の力量が問われる。そこでこのようなマジックを使ったのでろう。このほうが文学作品として、先生の生き方としてなんとなくあいまいで読者の気をひくことになりはしないか。それでいて先生の倫理感はますます崇高なものになると思う。

第50回5月8日(土)喫茶「坊っちゃん」にて定刻。伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、戸田、頼本、若山、渡部出席。

(書き出し)冒頭の部分「私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただの先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」と言いたくなる。筆を執っても心持ちは同じことである。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。」これは堂々とした手馴れた書き出しである。これから私なる人物が語ろうとする主人公がどういう人物なのか─私より年上で、尊敬していて、しかも親しい特別な間柄であることを暗に述べている。一方友人Ｋについては、これは先生から見たＫであり、友人としてのＫである。Ｋは親友でありライバルであるが自殺する。先生は自責の念から自殺する。こうした友人は神田、川上などと具体化するよりも頭文字にした方が朧化した方が構成上都合が良いとも考えられる。それだけ印象が薄くなるからである。Ｋが河内とか神田とかいう名で個性を発揮すると先生よりも印象が強くなるおそれがあると思うがどうであろうか。先生ではない学生の私の妹の夫に関さんという人が出てくる。この人はＳではない。数少ない姓で登場する人物だがほんのワンシーンであるからこれでよかったのであろう。Ｓであればかえって煩雑になる。

第45回読書会で『行人』終了　
　　　　　　　　

第41回「行人」第1回　漱石後期3部作の第2作目「行人」読書会は8月1日定刻に開始された。参加者は伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、田鶴谷、重川、頼本、渡部の各氏９名。当日は初日なので全体的な感想の発表となった。
はしめに題名のつけ方として、いろいろな説が紹介されたが「私は先生(小宮豊隆)に従ってこの小説の主人公一郎を、「家を失ふ者」すなわち一所不住の徒として呼んだ題名と考えます。」(古川久「夏目漱石－仏教・漢文学との関連」 )があまりひねって題名をつけないという漱石の方針に合うのではないかということになった。

「三四郎」では初恋「それから」では人妻への同情から恋へ、「門」では人目を忍ぶ夫婦の生活、「彼岸過迄」では結婚へ踏み切れない苦しみ、「行人」では結婚後の妻が信じられぬ夫の苦しみと妄想を描く。すべて男と女の問題であり、ここでは人間社会の最小の個と個との結びつきの単位である夫婦の関係─それも不信の関係を描く。その描きかたは人間の奥底を抉り出したものであり、あくまでも作者のこころの内奥からのものであるところに痛ましい感じがする。

第42回　「行人」第2回読書会9月5日喫茶「坊っちゃん」にて、参加者、伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、田鶴谷、藤本、頼本、渡部の各氏９名氏。「友達」の章。まず、登場人物としては長野二郎、この作品の語り手であるが、具体的描写がほとんどない。渡部氏より質問があったが、高等遊民的であると。彼は独身で有楽町の事務所で図面を引く仕事をしている。岡田夫婦はまずは安定した平凡な生活をしている。岡田は高商を卒業して保険会社の社員。明治の堅実な家庭が描かれている。客として来訪した二郎をもてなすお兼さんの食卓、身づくろいや動作など行き届いた描写である。この小説はまずはこの安定した夫婦仲の良い家庭からストーリーが進行することに着目したい。二郎の友人三沢。酒が好きで胃が弱いタイプ。「友人」の章はこの三沢が主役である。三沢が入院している病院は大阪での「湯川胃腸病院」や内幸町での「長与胃腸病院」の漱石自身の入院体験がかなり素材として取り入れられているのが面白い。例えば病院の建物、患者の様子、看護婦の様子。見舞い客の様子。医師の顔等々。「お前胃の為わしゃ腸のため共に苦しむ酒のため」と都々逸風の文句なども日記の中に出てくる。この章の中心は三沢が酔って無理に酒を強いた若い芸者が同じ病院に入院していて、しかも病状悪化するばかり、三沢はその芸者が気がかりでほっとけなくて、二郎に借金までして見舞いをする。実はその芸者は三沢の父が事情があって引き取った某家の若妻で、新婚早々夫が帰って来なくなって精神を病んだ女に似ているのでなおさら放任できない。という複雑な事情が語られる。そこに
二郎をすっぽかし、簡単に約束をやぶり、待ちぼうけを食わせた三沢という人物の内面を知り、二郎は心打たれるものがあったのである。構成上やや作為的な感じがしないでもない。
第43回「行人」第3回、10月17日喫茶「坊っちゃん」にて。今回は3日が第172回例会日となつたため、本日に変更した。参加者は藤本、田鶴谷(中途退席)伊賀上、岩城、菊川夫妻、頼本、それに新入会の若山順子氏以上8名。
今回は「兄」の章の冒頭おちつきの「一」を伊賀上氏が朗読。いつもながら、さらりと読んでなかなかうまい。
「行人」は「彼岸過迄」の市蔵と千代子の結婚後の姿と考えられぬこともないわけだが、そう考えると岡田は「能く人を驚かせる」ところが、須永の叔父田口によく似ている。　一郎は大学教授であり、見識家、神経質で、詩人らしい気質、(漱石の分身)長男だけにどこか我儘、二郎から見ると普通の長男より大分甘やかされて育ったとしか見えなかった。お天気やでもある。他人から見ると立派な紳士で好人物(ここらも漱石の分身)母が甘やかしたせいらしい。母は長男には遠慮しがち。二郎は子供扱い。「その代わりまた兄以上に可愛がられもした。小遣いなどは兄に内所でよく貰った覚えがある。父の着物なども何時の間にか自分のに仕立て直してある事はめずらしくなかった。(七)この部分は『坊っちゃん』の主人公の「おれ」と共通する。また「昔し兄と自分と将棋を指したとき、自分が何か一口いったのを癪に、いきなり将棋の駒を自分の額へ打付けた」(九)ことは『坊っちゃん』とは逆になっていて『坊っちゃん』では自分がしたことになっているのが面白い。一郎はやせていて、二郎は頑丈な体躯で対照的に描かれている。兄と弟を描く場合、漱石は自分と実兄を見て人物創造の材料としているのが分る。
　前回でも述べたが岡田とお兼の幸せそうな夫婦、一郎とお直の何となく冷たい夫婦、これから結婚する岡田が仲人して、とんとん拍子に話が進んだ佐野とお貞の夫婦、精神を病んで離縁されただ若い人妻。父と母の夫婦、いろいろな夫婦が登場する中で一郎夫婦の問題がクローズアップされる。
第44回「行人」の第4回11月7日今回は岩城、田鶴谷、藤本、渡部、若山、頼本、の6名の参加。「兄」から「帰ってから」の章に入る。
この小説は『彼岸過迄』の「須永の話」の延長と考えられる。
小説展開のパターンとしては、初めに二つの結婚―岡田とお兼さん－手軽く結ばれている。もう一つは進行中の佐野とお貞さんの話。これは安易に。しかし、人と人との距離の遠さ。とうてい正しくは理解しあえないという現実。
　気の違った女の話―人間は結局気が違わねば本音をもらさぬ。しかも三沢は狂女の真実と思われる声が別れた夫にたいするものか、自分に対するものか分らぬが、自分にたいするものと思いたがっている。
　おろそかに結び合わされたが故に理解し合えない夫婦関係の悲劇－それゆえの疑惑や孤独感や相互に傷つけ合う罪の恐ろしさなどを追求しようとするなどと。
登場人物一郎は職が大学教授であることは随所に講義の準備の事が出てくるので解る。漱石の分身らしい。
二郎は「帰ってから」の二十五・二十六には「事務所」「有楽町の事務所」と勤務場所が示めされているが、具体的には不明。二郎の行動からは勤めに行っても行かなくてもいいような場所という風にうかがえる。
漱石は二郎を描くのに外面からは描いていない。登場人物の外貌・感情・思考を二郎の目に写った姿を浮び上がらせるための鏡の役割をさせている。二郎を通して「帰ってから」まではかたられている。
第45回「行人」の第5回12月19日今日は参加者伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、渡部、若山、頼本の8名
今年で「行人」を終了とした。それで「塵労」の章と作品全体をもう一度見渡すことにした。特に山場になる一郎と二郎の対立となる場面について、話題が集中した。

「兄」の十五に一郎が「直は御前に惚れてるんじゃないか」どうしてかと聞かれると困る。それから失礼だと起こられてはなお困る。何も文を拾ったとか、接吻したところを見たかいいう実証から来た話ではないんだから。・・・こんな愚劣な問を、いやしくも夫たる己が・・この部分は一郎はまだ節度のある話ぶりである。「兄の眼からみれば彼女が故意に自分にだけ親しみを表しているとしか解釈できまいと考えて誰にもうちあけられない苦痛を感じた」と思う二郎。

「お前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊まってくれれば好いんだ」「下らない」自分は一口に退けた」「兄さん、いくら兄弟の仲だって僕はそんな残酷なことはしたくないです」「いや向こうの方が己に対して残酷なんだ」「「人から頼まれて他を試験するなんて―外の事だって厭でさあ。ましてそんな・・・･･･探偵じゃあるまいし・・・」「一郎己はそんな下等な行為をお前から向こうへ仕掛けてくれと頼んでいるのじやない。単に嫂としまた弟として一つの所へ行って泊まってくれというのだ。不名誉でも何でもないじゃないか」･･･その激した或る時に自分は兄を真正の精神病患者だと断定した瞬間さえあった。
和歌山行きについて、直自身は「姉さんどうします」と顧みた時は、また「どうでも好いわ」とはっきりした態度ではないというよりも夫には抵抗しないという態度と取れる。母は「いくら承知でも御母さんが困るから御止しよ」と。直は出かける段で「貴方何だか今日は勇気がないようね」と調戯い半分にいった。直は腹を据えた言い方である。三四郎の場面を思わせる。新聞小説を意識しているのか。実際はこういう態度は取りにくいのでは。二十八では電車の中でだまっているので嫂にそのことを言われる。嫂に「兄にそんな事を言ったことはありますか」と再三聞く。「兄さんにもそんなやさしい言葉をかけてあげて下さいという意味です」。三十二「･･･兄さんが好きか嫌いかなんて。妾が兄さん以外に好いてる男でもあるとおもっていらっしゃるの」・・・「私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜けのせいだって」
「帰ってから」の二十に二郎の言葉として「また僕が箇から少し姉さんと知り合いだったので」とある。同九のお重の言葉にも「だからこそ私に早く嫁に行けなんて余計な事をいわないで、あなたこそ早く貴方の好きな嫂さん見たよな方をお貰いなさったら好いじゃありませんか」とある。周辺家族から見ても二郎とお直の関係は問題がありそうにも見える。

二十二「もう己はお前に直の事について何も聞かないよ」と一郎。「そうですか。その方が兄さんのためにも、また御父さんのためにも、好いでしょう。善良な夫になって御上げなさい。そうすれば嫂さんだって善良な夫人でさあ」と自分は嫂を弁護するように、また兄を戒めるようにいった。「この馬鹿野郎」と兄は突然大きな声を出した。･･･自分には、殆ど予想外の驚きを心臓に打ち込んだ。自分が精神病のせいか兄は発言も自信なく控えめだったのだが、それを見越した二郎の驕った発言に遂に一郎は爆発したのだ。

○精神病「・・・君の兄さんの講義は・・・大変学生には気受けが好いそうなんだが、・・・やはり明瞭ではあるが、前後とどうしても辻褄が合わないところが一、二ヶ所出て来るんだってね。そうしてそれを学生が質問すると何遍も何遍も繰り返して、其処を説明しようとするがどうしても解らないんだそうだ。しまいに手を額へ当てて、どうも近来頭が少し悪いもんだから・・・─既に一郎は精神的に異常であり、苦しんでいることを表している。

次回は1月9日(土)「坊っちゃん」にて午後3時～4時30分まで。その後新年懇親会。場所伊予鉄会館地下「東雲亭」

『彼岸過迄』を堪能。

第34回1月24日(土)午後1時30分～3時00分まで松山市枝松の真言宗寺院多聞院(会員岡田敬学副住職)にて,まず年頭にあたり、岡田師の家内安全、本会隆盛を祈る読経と講話の後、第34回読書会が始まった。参加者は頼本、高村、伊賀上、岡田、菊川隆文、俊子夫妻、田鶴谷、渡部の諸氏。
今回は第1回につき、参加各氏の自由な全体的感想から始まった。全体的に文が滑らかで抵抗感がなかった。
面白く読めた。宵子の死のところでは涙が出た。というようなことであったが、新聞小説として読者を意識したサービスが今までより強く感じられる作品であった。まず銭湯の場面からはじまり、森本の常識を超えたつかみ所の無い話で、読者を引っ張りながら東京の賑やかな浅草界隈を歩き、地方の読者へもサービスし、そのころから始まった探偵めいたことを敬太郎にやらせ読者の好奇心をくすぐるというこれまでの漱石とは一味違うものが感じられた。また市蔵に対する千代子の心底からのはっきりした物言いは心打つものがある。宵子の死に対する心情なども心を打つものがある。
第35回2月7日(土)出席者は高村、伊賀上、岩城、岡田、菊川隆文、俊子夫妻、重川、渡部、大沢、頼本の諸氏。今回はトップの章「風呂の後」について語りあった。漱石の銭湯好き、温泉好きがよく言われるが、当然銭湯描写は自身の体験であろう。半藤末利子氏も言っているように、明治期の東京では一般家庭では風呂ある家は少なく、銭湯が大繁盛で、夏目家でも女中が3人もいる割には、風呂ができたのはずっと後という。風呂設置の費用よりも人件費の方が当時は安かったからという。初めてわが家の風呂に入った漱石は湯加減がわからず、銭湯と同じ加減で飛び込んだら、底の方は水だったので慌てて飛び出したという。
　ところで長い療養生活後の新聞小説の執筆は、義理堅い漱石に少なからず緊張を強いた。何とかして面白い小説を書き、読者のこころを掴みたい。そのためには、読者の興味を引く素材、今までの経験の上に立つ描写力。読者を離さない小説技巧が今まで以上に要求される。そこで考え出したのがこの導入部である。森本の仕事は「僕の方でお休みです」などというセリフは当時の生活に疲れた勤め人には案外受けたのではないだろうか。もちろん漱石の代弁でもあろう。敬太郎は異常に対する嗜好があるが、英国帰りの教師(漱石自身がモデル)に教科書のスチーヴンソンのことを質問し、スチーヴンソンが辻馬車を見てさえそこにロマンを見出す人だという説明から、いたるところの人力車を見てさえ、はっとする事件に遭遇して然るべきだと考えたり、(十一)では背中に子供を負んぶした婦人を見ては森本と一緒になった女を想像したり、下宿へ帰ると森本から一通の手紙が来たり、関連と伏線が入り交じり一層敬太郎の人物と環境設定で読者の興味を引いている。
第36回3月7日(土)出席者、田鶴谷、頼本、伊賀上、菊川夫妻、岡田、岩城、渡部の8名、定刻に開催。
この日は「報告」の章を中心に読む。まず田鶴谷氏の朗読から始まった。敬太郎は得体の知れない男と美しい若い女を尾行する。男女の尾行という行為自体が大衆の興味を引くわけで、新聞小説には持って来いの素材である。この頃登場した探偵を思わせる。漱石自身大学卒業したてのころ法蔵院という寺に下宿し、そこの住職に八卦をみてもらったことがある。それが、親の死に目に会えぬとか、西へ西へ行くとか、髭を生やせ、そうしたら金がたまるとかいうことであったそうで、だいたい当っているが、顎鬚を生やさなかったから未だに金の方はたまらないという笑い話が「漱石の思い出」に出てくるが、この話が素材になつている。なお、法蔵院に下宿していたころ、漱石が心を寄せていたという井上眼科で出会った女の親が、尼さんを使って漱石の様子を探らせたと考える追跡恐怖症的なところが漱石にはあった。人の様子を探るという話は「坊っちやん」にもある。漱石は探偵の行為には深い関心があったと言える。ちなみに「漱石とマドンナ」の著者河内一郎氏の調査では法蔵院の聞き取り調査では、法蔵院に尼さんがいたことはないそうである。しかし、漱石はこれに関して子規へ送った俳句まで作っているのだから、どうであろうか。寺の住人は変わることもあり、事実が伝わらないこともある。
第37回4月4日(土)雨天候悪く花見時とあるせいか出足今ひとつ。4月1日発行の会報第8号を出席者に配布。
頼本、伊賀上、岩城、岡田、重川、渡部の6名が出席。
今日は「雨の降る日」を中心に読む。渡部氏がはじめを朗読。この話は漱石の末娘雛子の急死の場面が素材となり描れている。漱石にとっては幼い一番可愛い子供であった。松本は漱石自身がモデルでもある。
何故松本は「雨の降る日は逢わない」といったのか。―漱石の書きたかったポイントでもある。雛子への思い。
昨日雨のために面会を謝絶した理由を一言も言わなかった理由もここにある。雛子の死に直面した訪問者は中村古峡。(東大英文卒、小説も書いた。後に精神科医師)中村と談話中に雛子は急死した。中村への書簡に「小生は亡女のためによい供養をしたと喜び居り候」と書いている。単行本の扉には「此書を亡児雛子と亡友三山の霊に捧ぐ」としているのも頷ける。「彼岸過迄」の題名を考えた時、漱石は雛子の死の場面を必ず挿入しようと考えていたはずである。千代子の雛子の世話の様子と共にしみじみとした印象深い美しい一編となつている。雛子は小説では宵子となっている。宵子は高浜虚子に同名の娘がいる。その名を借用したものか。また、松本の妻は原稿・全集新では「御多代」で単行本・岩波文庫本では「御仙」となっているのが不思議である。漱石ともあろう人が何故人物名を変えたのか。印刷工のミスか。なお、修善寺大患時の菊屋旅館の女中に御仙なる人物がいた。
第38回5月2日(土)五月晴れの気持ちよい日1時30分～3時大街道2の喫茶「坊っちゃん」にて開催。
参加者　田鶴谷、重川、菊川夫妻、渡部、伊賀上、岩城、藤本、頼本の9名。今回は「須永の話」まず、
伊賀上(千代子)、頼本、(市蔵)、田鶴谷(地の文)で掛け合いで朗読し雰囲気を盛り上げ？それから各自
意見交換した。これからもこのようにして始めたい。
敬太郎が尾行時、松本と同行した女性は田口の長女千代子であり、須永市蔵の母は田口の妻と姉妹の関係、松本は姉妹の弟。市蔵の母は千代子と市蔵を結婚させようと考えている。市蔵はなかなか決断できない。千代子はその気があるらしい。それを詮索する敬太郎の探偵趣味が出ている。
市蔵は不精で我儘(財産が有ったから)、神経質(七)物を誇大に考えたり、いらぬ僻みを起こしたり、優柔で繊細な神経の持ち主、「植物学か天文学でも遣ったら性に合った仕事ができただろう」と須永自身の内面が語られる。この「須永の話」は全編の山である。須永市蔵と千代子の関係を切れるか切れないのか赤い糸に例えているが、やや陳腐な気もする。敬太郎に「川甚」で「僕が(千代子を)貰うように見えるかね」と。市蔵は千代子が近すぎるため平凡にも見える。「従妹は血属だから厭だ」と(五)。母は市蔵がはにかみ屋と解釈している。「母の希望通り千代子を貰ってやりたいとも考えて－」「妾行ってあげましょうか」－この前後のやりとりが上手い。ユーモァ交えた会話の進行と意表を突くを千代子のセリフが彼女の個性を良く表し、思わず引き込まれる。作家としての漱石の腕の冴えの見せ所である。
(八)の田口家の夕食後、碁石を並べている時、千代子に他意のないことを示すための、市蔵の「千代子さんの縁談はまだ纏りませんか」との質問にたいする田口の叔父の巧妙などちらともとれる言葉から理解に苦しみ「その時以来、千代子を貰わない方にいよいよ傾いた」というのが市蔵らしい判断である。漱石の性格からいって市蔵という人物を創造することは容易に考えられる。しかし、田口を創造することは技術を要すると思う。漱石の日頃の人を見る目の鋭い感覚が伝わってくる。
市蔵は絵も描く。その絵をお嫁に行くとき持って行くという。千代子のただならぬ思いか。市蔵にたいする思わせぶりなのか。「僕はこの言葉を聞いて変に悲しくなつた。しかし、まだ極まったわけじゃないだろう。」「いいえもう極まったの」市蔵は「僕の心臓は、この答えとともにどきんと音のする波をうった」「上から僕を見下ろして「嘘よ」と」。千代子の嫁に行く行かないが、僕にどう影響するかをこの時始めて実際に自覚する事が出来た」(十)漱石の腕の見せ所だ。
市蔵が父を語る場面は幼少期の漱石を思わせる。「当時の僕は父には甚だ冷淡だった」「尤も父も決して甘い方ではなかった」とか「就職という問題について、ただの一日も頭を使った事がない」というのも『坊っちやん』を思わせる。市蔵は高等遊民である。以上のような事を話し合いながら時間となつた。
第39回6月6日(土)出席者田鶴谷、渡部、藤本、岡田、伊賀上、岩城、菊川夫妻、頼本の9名。岡田、地の文、藤本、市蔵、岩城、作、で3氏の役割分担による朗読ではじまった。
まず、千代子について、上流階級の令嬢に近い設定。田口の娘。やさしい性格。しっかりした考えの持ち主。背の高い漱石好み。「彼女の黒い髪と白い頸筋を、その顔よりも美しく眺めていた」(二十四)「腹の中で、千代子の髪を日本髪流に櫛を入れたらさぞ見事だろうと思った。千代子は色の美しい、癖のない、長くて多すぎる髪の所有者だったからである。」(二十二)この部分は漱石英国留学中に夫人宛の書簡に鏡子の禿げを気にしている記述があるのだが、漱石ならずとも、昔から髪の美しい女性はもてはやされたのだろう。陳腐ではあるが、漱石の女性美に対する認識が感じられる。ここで参考に女性の髪の美しさを描いた橋口五葉の「櫛梳ける女」の木版画が会長から示された。
　つづいて須永家の女中作について、19歳。僕は「作の姿を見て、一筆がきの朝貌のような気がした。ただ尊い名家の手にならないのが遺憾であるが、心の中はそういう種類の画と同じく簡略に出来上っているとしか僕には受け取れなかった。」(二十九)冒頭。須永から見た作という人物について、絵に例えて表現したものであるが、所詮市蔵の皮相的な見方である。それに自らきがついている市蔵である。夜風に涼む場面では、(作は)きっと振り返って、千代子の後姿を見た。僕は自分が鎌倉で高木を傍に見て暮らした二日間を思い出して、材料がないから何も考えないと明言した作に、千代子というハイカラな有毒の材料が与えられたのを憐れに眺めた。身分の違いこそあれ、ここに女同士の目に見えぬ角逐をちらりと巧に表現しているところに漱石の目の細かさが感じられて面白い。
　市蔵の話の最後(二十五)の彼女は突然物を衝き破った風に、「何故嫉妬なさるんです」といい切って、前よりも劇しく泣き出した。僕はさっと血が顔に上る時の熱りを両方の頬に感じた。彼女は殆んどそれを注意しないかの如くに見えた。「貴方は卑怯です。徳義的に卑怯です。妾が叔母さんと貴方を鎌倉へ招待した料簡さえ貴方は既に疑っていらっしゃる。それが既に卑怯です。が、それは問題ではありません。貴方は人の招待に応じて置きながら、何故平生のように愉快にしてくださる事が出来ないんです。妾は貴方を招待したために恥を掻いたも同じ事です。貴方は妾の宅の客に侮辱を与えた結果、妾にも侮辱を与えています」意思のはっきりした論理的な近代女性である。心の中を暴かれた市蔵の姿が「血が顔に上る時の熱りを両方の頬に感じた」に表れている。市蔵の話のクライマックスであり、この後市蔵の千代子への態度は落ち着いてくる。
そのほか「須永の話」の三重吉による単行本化などが話題に上がった。
第40回7月4日(土)喫茶「坊っちゃん」にて、参加者岡田、藤本、渡部、田鶴谷、伊賀上、岩城、菊川夫妻に頼本の9名。
「彼岸過迄」最終回。「松本の話」が話題の中心になる。―高等遊民松本は市蔵の話をよく聞いてやり、悩みを解決してやる。市蔵と千代子の関係は「宿命の力」で支配されている。二人の関係はただ「成り行きに任せて」－則天去私ということか。「須永の姉も田口の姉も僕と市蔵の性格があまりにもよく似ているので驚いている」彼ら姉二人が「僕と市蔵とを同じ型から出来上がった偏屈人と見做し」―それは「疑いもなく誤っている」というところがおもしろい。たしかに知識人というのは、平凡な人間から見ると「偏屈」と見えるのは現代でも同じだ。なぜ「偏屈」なのか。この読書会ではその追求がなかったのが惜しまれる。市蔵にしろ松本にしろ漱石の分身である。人間のあり方をこれほどまでに深く掘り下げた文学がこの時代に他にあるだろうか。今でもないだろう。
松本は言う。市蔵は天下にたった一つでいいから、自分の心を奪い取るような偉いものか、美しいものか、優しいものか、を見出さねばならない。一口に言えば、もっと浮気にならなければならない。(一)こういう市蔵を仕立て上げた責任者として親戚からうらまれているが、「僕はつまり性格に応じて人を導く術を知らなかったのである。－勝手次第に若いものの精神を動かしてきたのが、凡ての禍の本になったらしい」(二)教育者漱石の言。
市蔵は大学の試験が済むと関西へ旅に出る。(漱石の旅行体験―宮島も)そこから明るい気分の便りを毎日よこす。千代子との縁談も田口の許可を得て進行しつつある。
僕(松本)と市蔵の違い。写真を前にして。僕は写真を実物の代表として眺め、市蔵はただの写真として眺めていた。
「僕は茶の湯をやれば静かな心地になり、骨董を捻くれば寂びた心地になる。その外寄席、芝居、相撲、凡てのその時々の心地になれる。その結果あまり眼前の事物に心を奪われすぎるので、自然に己なき空疎な感にうたれざるを得ない。だからこんな超然生活を営んで強いて自我を押し立てようとするのである。」(二)この言葉は芸術愛好家としての漱石の一面がよく出ている。骨董であろうと相撲であろうと我を忘れて、対象の美や技の素晴らしさを享受することも知識ある人間として必要なことである。松本も敬太郎も森本も外的事物に対して興味を示す人間として描かれている。この点は全篇一貫する。
結婚問題と昔気質の女性についての扱い方－「僕は女に理屈を聞かせるのを、男の恥のように思う癖があるので、六ずかしい事はなるべく控えたが、何しろこういう(結婚)問題について、出来るだけ本人の自由を許さないのは親の義務に背くのも同然だという意味を昔風の彼女の腑に落ちるように砕いて説明した。」(三)という部分は近代人漱石の結婚観であり、昔気質の女性に対するやさしさであろうか。
市蔵は一人で旅行－全体を徐々に盛り上げ、穏やかに終わる。優れた手法。すがすがしい(八)。松本の妻の会話「市さんは年こそ若いが貴方よりはよっぽど分別のある人－」(九)ここらあたり漱石夫人の会話を思わせるる(十)の始も。
「高木と千代子との間の信書の往復はいまだにたえない。そうしてその信書はきっと父母が目を通した上で本人の手に落つるという条件付の往復であるという事まで確かめた。」(七)－漱石の潔癖性と明治という時代の親の娘に対する毅然とした責任感が感じられ、薄れていくルーズな現代の男女関係、自由に名を借りて、ともすれば放任主義となる現代の親子関係を描く今日の文学作品が改めて問われる漱石文学の崇高な部分である。
次回は8月1日(日)1時30分～3時まで大街道2の喫茶「坊っちゃん」にて「行人」読書会の予定。

松山坊っちゃん会特別講演会開催　松山東高で
　　　　広島女学院大　山本勝正教授

平成21年3月5日(木曜日　午後3時45分～4時35分)松山市持田町の県立松山東高等学校体育館において、
会員で広島女学院大学教授山本勝正氏(日本近代文学、著書に『夏目漱石文芸の研究』桜楓社平成元年など)の
講演会があった。
演題は「夏目漱石の文学についてー『心』を中心にー」。当日は1年生徒450名、教職員、本会会員が聴講した。
(講演要旨は平成12年以降の記録に掲載)

前期3部作『門』読書会終わる

第３０回読書会　「門」第1回9月6日(土)午後１時30分～3時。大街道喫茶「坊つちゃん」にて。
参加者は会員高村、岩城、菊川夫妻、重川・神野、戸田健、岡田(新参加)、頼本、藤本(会員外)の各氏。当日は残暑きびしい一日であった。レギユラーの4氏が欠席でやや淋しい気もしたが和やかな雰囲気ではじまった。司会頼本、記録戸田氏。まず第1章の1を頼本朗読。続いて各自が感想を語った。
戸田―神経質な宗助の寝姿やお米の微笑の謎、道具屋のことなど面白い。骨董の売買など志賀直哉の『清兵衛と瓢箪』が思い出された。
藤本－表面は何の変化もない夫婦だが内容的には深いものがある。ラストのお米が春になるというと宗助がまたすぐ冬になるというのは道草の結末に似ている。『崖の上のポニョ』の宮崎駿監督は「門」の影響を受けている。
神野―『門』の解釈書は多い。微笑については『漱石の微笑』という本もある。
菊川俊子－描写が細かい。平凡だが奥が深い作品と思った。
岩城―『門』という題のつけ方が気になった。なぜ『門』なのか。
頼本－漱石は朝日新聞の予告の為、題名発表の必要にせまられたが、まだ腹案のみで、
これから執筆する小説の題名を，当時朝日文芸欄を漱石が任していた森田草平に「何でもいいから適当に
付けてくれ」と頼んだ。草平は困って、小宮豊隆に相談し、豊隆が、たまたま開いていたニーチェの
『ツアラトストラ』の中に「門」と言う語があり、何にでも合いそうなので、それを取って『門』と
つけたという。
漱石は新聞広告が出てから自分がこれから書く小説は『門』である事を知ったと言う。
菊川隆文―時代が反映されている。伊藤公暗殺とか。よくまとまっている感じがする。前期三部作のなかでは「門」が
ハッピーだと思う。
岡田－始めに「近」という字が出てくるが、全体が細かい描写で眼前に情景が髣髴とする。
高村―落語のネタや歴史的背景がよく分る。
頼本－読みやすい小説だと思う。登場人物でなくて、漱石自身が語るところが沢山ある。漱石自身は自分が選ぶなら、
『門』であるが、どうしても一つと言われると『行人』を選ぶといっている。
感想から漱石の旅の話となり、漱石がなぜ松山へ赴任したのかという問題になった。
頼本―単に子規の故郷だからという単純な問題ではない。『門』の中にも房総旅行が出てくるが、松山へ赴任する直前明治27年１２月から28年１月にかけて短期間、参禅している。漱石の精神状態は他者に理解の出来ない状態であったのであろう。それを安定させるため田舎へやって来たとも考えられる。小宮豊隆はそんな事を言っている。失恋のためなどとする説もあるが正確な根拠がない。
第31回「門」第2回読書会　10月11日(日)晴れ　参加者伊賀上、藤本、岡田、菊川隆文、俊子、頼本
今までで出席者が一番少なかった。今日は頼本がせっかく皆のために買ったお菓子の袋を三越に忘れ、諦めたのだが、親切な岡田和尚が走って取りに行ってみると、受付で保管してくれていた。さすが三越のお客さん。お菓子の一袋くらい忘れ物をいただいたりはしないと感心することしきり。それにしても少々ボケが始まった人はしょうがないものだ。
始めに先週の例会で視聴したビデオ「それから」の感想を全員で発表。つづいて藤本氏が「門」の一部を朗読。
つづいて頼本から次のような話題提供があった。
　漱石筆の原稿は現在、大東急記念文庫に分冊して帖にしたてられ、箱に入れられ保存。なお「新文芸」(明治43年6月号)に野上白川の『崖下の家』という短編が掲載されていて、「私」の3年前の回想が記されている。それには3年前に鉄道自殺した18歳のお米の思い出が書かれている。(この項『漱石研究』　87年有精堂出版(平岡敏夫)より)とするとお米自殺事件というのは実際譚で漱石も野上も共に素材としたとも考えられる。次に参加者の話題として、
①平凡な日常を描いていて、漱石の小説の中でも、一部に欧文翻訳調の部分があるものの、文章がよくこなれていて読みやすい。
②反面ストーリーが平盤で起伏がなく面白くない。
③高等遊民は出て来ない。しかし、坂井という裕福な大家が登場する。漱石の小説では一般に金持ち、財産家というのは高い見識を持つ人格者として描かれていない。俗人として描かれている。そういう中で坂井は円満な話上手な社交的で家庭では子煩悩なゆったりした人として描かれている。
④女の子の描写は漱石の家庭のものである。
⑤構成について、前作「それから」と同様、学生時代の思い出が挿入として語られる。学生時代主人公野中宗助と安井は親友であり、安井の妻お米を宗助が奪うという不義は、「それから」の主人公代助と平岡が親友であり、平岡の妻三千代を代助が奪うという構図は全く同じ。など話題が次々に出て、あっという間に時間となった。
第32回「門」第3回読書会　11月1日晴れ　参加者伊賀上、岩城、岡田、菊川隆文、俊子夫妻、高村、田鶴谷、渡部、頼本とＮＨＫデイレクター後藤氏が取材のため来訪した。はじめに後藤氏から取材説明があり、11月15日この場所で番組収録とのことで説明があった。同氏から『坊つちゃん』に関しての質問もあったが省略。
はじめに岡田和尚が第2章の1を朗読したが日頃の読経のようにはいかぬらしい。つづいて登場人物中心に問題点など話し合い検討してみた。
宗助　資産家の子弟、父が元気なときは恵まれた学生で「高等遊民」的生活でもあった。お米を巡る問題で京都大中退となる。社会における小役人生活では明治のそれが活写されている。然し明治の小役人は女中の一人もおいて、いかに人件費が安い時代とはいえ、一般から見れば結構な身分てはある。冒頭で漢字の「近」の書き方を忘れたという話があるが、これは彼の精神内部で何か重大なことが起きている証拠で、これは精神医学でいう「離人症」であるという。(土居健郎『漱石の心的世界　第6章『門』について』)要は自分が引き起こした所為でそうなったのである。社会から離れた、隠れた意識で毎日を夫婦のみの生活である。友人安井の妻、お米をめぐって安井との間にいろいろと問題があったと考えられるが、それが案外あっさりと片付けられているのは何故だろうか。漱石は前作『れから』と同じ轍を繰り返したくなかったのか。
お米　御米という表記はなじめない。明治とはいえ、人名の表記に御米ではどうもおかしいのでは。人物描写という点でみれば人物の具体的イメージがはっきりしない。影の薄い人物だ。漱石もひっそりとしていたと描写しているが、安井との同棲当初は友人に知られたくなかった事情もあったのだろう。妹だと宗助には紹介された。親友なのに何故隠したのか。おとなしい人物という気がするが、骨董商とのやりとりは世間にたけている。日常生活からは明治の庶民の特に家庭の主婦の仕事がありのままに描写される。夜なべの針仕事などは現今の家庭では見られなくなった。
三度の流産で子ともができない体となっている。易者からその原因を言われ気に悩んでいる。
安井　学生時代、宗助の親友としてある程度描かれているが、お米を中心とした三角関係での宗助とのやり取りがない。満州へ行ったというだけで人物像がはっきりしない。宗助の不安が一方的のような気もする。ただ安井を満州浪人として考えた場合波瀾万丈の人生が想像され、その象徴が坂井家の「蒙古刀」である(若林幹夫『漱石のリアル』第4章の4　大陸という不安)という。
坂井　崖上の家に住む資産家。泥棒が入って落としていった手文庫を宗助が届けた縁で行き来が始まる。宗助の家伝来の唯一残された骨董が抱一の屏風。骨董屋に35円で売るが坂井は80円で売りつけられる。骨董好きは漱石自身でもある。崖下の宗助の家から屏風が崖上の坂井家に移るのが面白い。坂井の子沢山やその動作は漱石の家庭のことでもあるし、泥棒が手紙を落し紙に使ったというのは漱石の家に泥棒が入り三重吉の手紙を落し紙に使っていたという実話をそのまま取り入れている。酒井家の家庭内の描写はその点でなかなかリアルである。(以下省略)
同席した後藤ディレクターの感想「皆さん積極的で感心しました。なかなか面白かったです」
次回は12月13日(土)に同場所同時に開催予定。『門』の最終日となる。
第33回門第4回読書会　12月14日(土)晴れ後曇り一時雨出席者高村副会長伊賀上、岡田、岩城、菊川夫妻それに頼本と今回は前週の例会から日を置かぬせいか参加者が少なかった。
今日は前回のTV収録時の反省などや感想から始まった。
頼本会長から第5章の2の部分で、歯医者で雑誌「成効」(正しくは『成功』)を見てその中に引用されている「禅林集句」(岩波全集本)、これは新潮文庫旧版などテキストによっては「禅林句集」となっていたりするが、その引用「風吹碧落浮雲尽　月上東山玉一団」と漱石は書いているが、これは漱石の思い違いで「月上青山」が正しい。これは有名な「前赤壁賦」の中の一句「月上東山」をそのまま覚えていて勘違いしたものであろうと頼本の弁。それから頼本所蔵の漱石自筆(大正元年揮毫明記、夏目栄子氏所蔵)の同句色紙のレプリカを持参、大正元年に揮毫したものであるからには、漱石はこの句の「月のように心がすみわたる悟りの境地に長らく憧れ、少なくとも大正元年までは持ちつづけていたものと思われると感想を述べた。諸家も述べているように「虞美人草」以来ほとんど現れなかった漢詩句のごときものが、明治43年の『門』において復活したということになる。それを考えると漱石小説の流れにおいて、この『門』の持つ意義は大きいと考えられる。即ち本来の漱石の内なる面の復活である。
また前記漢語句は唐突に現れるようにみえるが、決してそうではなく、後に主人公宗助が禅寺の門を敲くことへの複線になっている(古川　久)のである。
『門』は今回にて終了。次回からは『彼岸過迄』を読む。次回第34回は治邦山多聞院本堂にて。1月24日(土)1時30分～2時30分まで。3時～4時30分新春懇親会(会費2800円)の予定。希望者は20日までに会長まで。

ＮＨＫTV総合『今日はここ行こ！「坊っちゃん」のまち
漱石の原点を探して－愛媛県　松山市』に取材協力
放映は12月5日(金)午後8時～8時38分12月7日再放送
　　　

ＮＨＫ松山制作(担当後藤秀樹ディレクター)が上記番組制作に当り、本会の読書会のメンバーの
一部が協力した。伊賀上、岩城、岡田、菊川夫妻、神野　田鶴谷、戸田健、頼本と顧問の佐藤教授の
10名で、古賀アナが直木賞作家の石田衣良さんを案内するというかっこうで伊賀上、石田両氏の
「坊っちゃん」掛け合い朗読や頼本会長の「ホトトギス」掲載「坊っちやん」の紹介、佐藤教授の複製本
「坊っちやん」原稿の紹介など、楽しい雰囲気で進行した。番組は全38分、収録は3時間に及んだ。

－第4回文学散歩ー漱石文学遺跡を訪ねて安芸の厳島へ

平成20年11月23日晴天で祝日、チャーター船「さくら」で厳島桟橋に直行、操舵室後部の展望のよい
ラウンジで穏やかな船旅を楽しむこと3時間。一行8名は頼本会長、菊川夫妻、岡田夫妻、
頼本勝弘夫妻と仁木氏で、明治29年春4月漱石が熊本第五高等学校へ赴任する途中高浜虚子と共に
一泊した旅館「岩惣」を訪問。桟橋では迎えの岩惣の車で紅葉谷の遊歩道を玄関まで登ること10分。
さすがに由緒ある旅館、歴史を感じさせる。皇族をはじめ歴代の総理などが宿泊者の名簿に名を
連ねている。薄緑の着物の垢抜けのした美人揃いの女中さん達に迎えられ、広い静かなレストランで
谷の紅葉を見ながら郷土色豊かなおいしい昼食を楽しんだ。支配人の話では明治の建物で現在
残っているのは玄関の部分だそうで重々しい古色が紅葉に映えて美しい。
「岩惣本店」の古い看板を背に記念撮影をした。その後は紅葉谷公園を散策し厳島神社に参詣した。

本会会員　土居俊夫氏に本年度愛媛県功労賞

本会会員　土居俊夫氏(77歳)前南海放送株式会社会長、00年愛媛県教育委員長、05年県教育文化賞受賞者は長年の県勢伸展に対する功績が称えられ愛媛県功労賞に選ばれた。本会としても心からお祝いを申し上げます。

『それから』読書会終了　
　　　

第26回の読書会は、いつもの会場「坊っちゃん」で開かれた。参加者は岩城、菅、菊川隆文、俊子夫妻、神野、戸田　田鶴谷、渡部、、頼本の各氏、それに会員外で新しく藤本氏と女性で岡氏を加え11名で頼本の司会でスタートした。
「それから」の第1回であるので、はじめに参加者各自の全体の感想を語ってもらつた。明治42年(1909年)6月～10月にかけて小説「三四郎」につづくものとして「それから」が朝日新聞に発表された。座席右からまず
戸田「代助・平岡の友情が同じレベルではない。またそれそれの生き方の違い、結婚への反対と三千代への愛がどんなものかが考えさせられた」
菊川隆文「夢の話がある。百合も出てくる。こういうところは「夢十夜」を思い起こさせる。代助は坊っちゃんと揶揄されるが『坊っちやん』ではない。結婚は人生の墓場といわれる。だから平岡に三千代を譲ったのだろうか。代助は高等遊民であるがため、高い教養があるがため、職がなかったのだと思う。」
岩城「衣食に不自由のない人が本当の仕事ができるということを三千代に同意を求めているが、少し誤魔化しているように思う。」
藤本「漱石はテーマとして何故三角関係を選んだのだろうか。ラストでは何もかもが真っ赤になる所が印象深い」
菅「私は非常に好きな小説だ。かつて高等遊民にあこがれた。父からの度々の縁談を断るところなどは高等遊民としての心の自由がある。」
渡部「小宮豊隆の解説紹介」
田鶴谷「文明批評の面から考えると将来を見通している。人の世の住みにくさ金銭問題など端々に『坊っちやん』との関連が伺える。」
岡「愛と結婚がテーマだと思う。三角関係の恋愛小説だけではないような気がする。世間を代助を通して見ていると思う。」
頼本「姦通小説といわれるが、その始まりの告白の場面までであり、今日の小説とは異なり生々しさがないのは当時の時代と新聞小説であることを意識していると思う。三千代への愛の告白が山であり、そこに緊張感がある。金銭問題がからんでいる。金銭問題とは無関係のように見える代助が三千代への告白と同時に、親からの仕送りが無くなり、まず収入のための職探しに出かけなくてはならないという、漱石ならではの痛切な皮肉が感じられておもしろい。」
第27回「それから」第2回は6月7日、いつもの会場「坊っちゃん」で。参加者は伊賀上、菊川隆文、俊子夫妻、重川、田鶴谷、高村、戸田、神野、藤本、頼本、渡部の各氏計11名。司会は頼本、記録は戸田氏。今回は少し詳しく第1章～第4章くらいを中心に問題点や心に残る文章・語句・不明点などさまざまな角度から検討することにする。まず伊賀上氏に第2章始めを朗読してもらった。落ち着いたうまい読みである。続いて各氏の発言。
田鶴谷「今読んでもらった部分が連載の1回分に相当するようだ。久しぶりに代助と平岡が顔をあわすわけだが、平岡は代助が思っている数年前の代助ではなくなっている。」
菊川隆「友人の家を訪問しどさりと身体を安楽椅子に座り込むというのは銀行員らしくない態度だが、そこだけ昔のままの遠慮のない平岡に帰ったのか。代助はそこに昔の平岡を見出した。また眼鏡の蔓を耳の後ろへ絡みつけたという描写は明治の眼鏡だ」
頼本「先日の例会の講演でも話があったが安倍能成も言っているように、漱石のそれまでの小説よりも一段と内容的に評価の高い小説だ」
田鶴谷「下女の婆さんの愛想笑いに対して、「お世辞が好いね」という平岡の言葉はどういう意味か。ほめているのか、それとも皮肉か。」
頼本「下女ともあろう者がひとり勝手に喋っているのだから、ここは気が利かぬばあさんだという皮肉か」渡部「皮肉で言っているのだろう」
頼本「代助は自己本位の人間で束縛されず自由に自然のままに生きる人、いわば自己中心的な行動がこの小説の発端である。」
田鶴谷「平岡と代助の友情が根本で、三千代を平岡に譲ったわけだから、自己本位とは言えないのでは。」
伊賀上「代助の父は三千代よりもっといい家からもらいたいと『望んでいたのではないか」
頼本「代助は当初三千代は好きだったけれど結婚までは考えていなかったのでは。だから譲った。随分縁談もあったのだが、親の自己都合による押し付けには気が進まず、決めかねていたと考えられる。」
神野「漱石は実在の嫂を意識して梅子を書いたのではないか。代助は梅子には好意的である。」
渡部ここで「それから」の恋愛関係の悲劇『悩む力』(姜尚中著集英社新書)を紹介。
頼本「代助の嫂梅子への告白からこの小説は一気に緊迫感が出て盛り上がる」
渡部ここで渡部淳一の『愛の流刑地』を紹介。
藤本「この小説は母親不在の小説と言える」。母親に愛されなかったせいか。」
頼本「代助、三千代の家庭共母親がいなかったり、早く死亡したり、『三四郎』の野々宮宗八や里見美禰子の家庭環境に通じるというのが一般論」
重川「『三四郎』では純粋な青年を描き、『それから』では不義密通を描き、『門』では友人を裏切った夫婦の生活を描き、これが三部作だが世間の人はどうとらえているのだろうか。」
頼本「姦通小説と言われるが、肉欲的場面は全くなく、倫理的な漱石らしい作品で、当時の新聞小説としてはここまでしか書けないだろう」
戸田「高等遊民とキリスト教について、カトリックでは、代助のように仕事をしない者は否定されている。」
第28回「それから」第3回出席者、岩城、菊川隆文、俊子夫妻、重川、神野、田鶴谷、頼本、渡部、藤本、そして遅れて高村の各氏計１０名。
今回は神野氏が手作りのクッキーとイチゴジャム、とスモモを菊川氏がローケン饅頭を皆さんに振舞った。高村氏からは１月読書会・懇親会の写真が配られた。いつものご好意に感謝します。こうした和気藹々の中で進行した。司会頼本、記録は田鶴谷氏。今回は少し趣きを変えて、代助が平岡を自宅に呼んで三千代への愛を告白するあたりを、役割を決めて朗読してもらった。
代助を田鶴谷、平岡を重川、地の文を菊川隆文氏が読んだ。続いて田鶴谷氏から家庭の経済面が夫婦関係するという話が出され、三千代が代助の自宅へ五百円、実際には二百円の借金を申し込むところへ話が及んだ。三千代は借金のことをすぐには平岡に話さない。やがて話すことになるのだが、三日後にやって来た平岡は代助に感謝の意を表さず、三千代の口から言わそうとするのを、代助は意外に感じる。これはいったいどうしてだろうか。(頼本自問自答)代助と平岡はもともと親友同士である。赴任する平岡を新橋に見送ったとき「その眼鏡の奥には得意の色が羨ましい位動いた。それを見た時、代助は急にこの友達を憎らしく思った。」とあるように反面ライバル同士でもある。平岡は代助にあまり具合の悪い所は見せたくない。しかし借金はせずにおれない。平岡には内緒でということにして妻の三千代が勝手に借金を申し込んだと平岡はして置きたかった様子がうかがえる。妻のしたことだから妻から礼を言わせるという気持ちと考えると平岡と三千代の夫婦関係は秋風が吹き出したとも考えられる。次に文中の白百合は何を意味するかという問題があらためて出され、渡部氏がある植物学者の著書、『白百合でなかった漱石の白百合』を紹介した。日本古来の百合は白百合ではない。山百合の類であるという説である。それに対して頼本が大岡昇平「姦通の記号学」他を紹介し、それによれば、西洋キリスト教では白百合は本来純潔を表す。ところが近代においては漱石も含めて日本では愛情を表すことになっている。日本では古来百合といえば山百合。白百合は西洋の産。「それから」で純潔を表したのではナンセンス。文学作品として考えるべきであるとした。その他種々意見があったがコーヒータイムとなった。
第29回「それから」第4回8月2日(土)晴れ、土曜市で賑わっている。喫茶「坊っちゃん」にて定刻より10分遅れで始まる。出席は伊賀上、菊川夫妻、重川、神野、高村、頼本、渡部晃の8名。伊賀上氏の16章冒頭の朗読から始まる。うまい慣れた朗読だ。始めに「高等遊民」について27回に意見が出たので、そのまとめとして学燈社「夏目漱石辞典」を引用し、高等遊民とは、あくまでも自分の意志で就職しないのであり、そこに至る過程で①経済的余裕②美的享受③文明批評の3条件を備える人物と頼本が紹介した。続いて代助は自宅に雨の日、三千代を呼び寄せ、二人だけの差し向かいの緊張した場面になるが、あくまでも一線を越えないし、平岡にも三千代との関係を事前に了解を得ようとするところなど、当時の新聞小説らしい、また漱石の作品らしい道徳的ともいえるところもある。しかし、あくまでも道徳的、倫理的であろうとすると、このような不倫関係自体が非道徳的、非倫理的であり、そのような中で愛を貫こうとする代助の内面に人間的な深み、近代人としての悩みがあるのだ。古い道徳の中で自己に忠実に生きる人間代助を漱石は描きたかったのであろうが、代助の「それから」を考えると前途多難であるというのが大方の意見であり、思いつきで題名を付ける作者には、よくできた題名であるという意見もあった。次回からは「門」を読む予定。
毎回各月第1週の土耀13時30分～15時まで大街道の喫茶「坊っちゃん」で開催の予定。(会員以外の参加は電話・ファクス089－924－2698へご連絡下さい).会費は不要だが飲み物代は各自払いです。
　

前期3部作の第1番『三四郎』読書会終了

明治41年(1908年)小説「三四郎」が朝日新聞に発表されてから100年を記念し、第22回の読書会が、会員渡部晃夫氏経営の「夢中居」で開かれた。参加者は伊賀上、菅、大沢、大田、菊川隆文同俊子夫妻、神野、重川、木村、高橋、高村、仁木、寺岡、渡部、松浦、佐藤、頼本の各氏。
第22回「三四郎」の第1回であるので、第1章～第4章を中心に感想などを語りあった。今回から記録者を決めて発言をノートに記録することにし、菅氏にお願いした。読書会は「坊っちゃん」「夢十夜」に続き今回で三つめだけに、「坊っちゃん」と比較する発言がしばしばあった。はじめて実社会に船出して、目に付くものすべてが自己の理想とは異なる、純粋で真っ直ぐな青年教師「坊っちゃん」と比較して、九州の田舎出で故郷に心を残しながらも大都会の社会と人間に驚きつつ、周辺に同調しつつ学問の世界を目指そうする純情青年小川三四郎の行動と内面の分析はこれからという所で瞬く間に90分は終了した。次回は各月第1週の土耀13時30分～15時まで大街道の喫茶「坊っちゃん」で
開催の予定。(会員以外の参加は電話・ファクス089－924－2698へご連絡下さい).会費は不要だが飲み物代は各自払いです。
　さて引き続き懇親会となり16名が参加。高橋氏持参の伊予名産緋の株漬けなどを肴とし高橋氏自身が渡部氏所蔵の富士の版画を前に詩吟を披露した。また神野氏からは家蔵の果実酒数本が提供された。にぎやかな談話は17時までつづいた。店舗の使用を快諾され、いろいろとサービスをされた渡部氏に心から感謝申しあげます。
第23回は従来の大街道の喫茶店「坊っちゃん」で2月2日午後1時30分から3時まで。参加は高村副会長、神野、田鶴谷、重川、菊川夫妻、佐藤教授、岩城、伊賀上、頼本それにやや遅れて大沢の各氏、佐藤教授は越後の笹飴、大沢氏はチョコをお土産に持参された。司会は頼本、記録は菊川隆文氏。第23回は第2章～第6章あたりの①変動の激しい東京という背景②九州出身、主人公三四郎の行動③里見美弥子とよし子、野々宮、広田先生、与次郎などの行動④漱石の描写にいろいろと意見や感想が語られ楽しい2月の読書会はめでたく終わった。次回は6～10章の予定。
第24回3月1日(土)折から晴れ上がった暖かい日。県下高校の卒業式で戸田・重川氏など高校関係者は残念ながら欠席。岩城、神野、菊川夫妻、高村副会長、渡部、頼本の各氏7名の参加。本日は岩城氏に記録係をお願いし頼本が司会。先日のNHKTV出演でわずかばかりの報酬があったので、本日は風月堂のケーキを皆さんに用意した。次回も用意します。今回は前回取り上げなかったキーワード「ストレイ・シープ」の意味、「偽善者」「昔の露悪家」「今の露悪家」の解釈、何故美禰子は野々宮宗八を結婚相手としなかったのか。
見禰子の容貌と橋口五葉描く「三越のポスターの美人」など話題となって瞬く間に時間となつた。次回で「三四郎」終了の予定。
第25回4月5日土曜日、桜の花も八分～九分咲き、お花見で賑わうこの日集まったメンバーは渡部晃夫、菊川夫妻、神野、伊賀上、菅の各氏と珍しくこの日が休日となったという松浦氏に頼本の計8名。菊川俊子氏記録。第13章の始めを頼本が薄暗い店内の明かりを気にしながら朗読して始まった。以下話題となったキーワードをまとめてみた。
結局三四郎は美禰子とは結婚できなかつたのだが、それはなぜだろうか。「菊人形見物の帰り」で「美禰子は三四郎を見た－三四郎はこの女にはとても叶わないような気がどこかでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚を伴う一種の屈辱をかすかに感じた。「「迷子」の英訳を知っていらして－教えてあげましょうか」－「ええ」－「ストレイ・シープ－解って？」最高学府の明治の帝大生に向かって「迷子」の英訳を教えてやろうかなどと普通の女ならずともとても言えたものではない。しかし、最後には三四郎はこの女を好きになってしまつた。自己をある程度認識していて、美しい、しかも教養があり、英語力も三四郎より上という感じの意思の強そうなこの女に対して三四郎はプロボーズするのだが、決意したその時既に遅く「迷子」と言う言葉を残して彼女は去っていく。美禰子から見ると三四郎は結婚相手としては、100点満点ではなく、不十分であり、自分自身の将来を男性に託さなければならぬ明治の女性としては(現代でもそういう結婚観は存在するが)満足すべき条件の持ち主ではないと感じたのであろう。不本意ながらも彼女はあっさりと別の帝大卒業生と結婚する。強い意志を持ちながらも現実と妥協せざるを得ない、明治40年代の女性の悲しい生き方がある。やはり近代の自我を描いた小説と言われる所以である。
次に「無意識の偽善家と露悪家」の問題。野々宮と美禰子の関係を知ろうと三四郎は広田先生を訪ねる(七)場面で広田先生が
「近頃の青年は我々時代の青年と違って自我意識が強すぎていけない。我々の書生をしている頃にはすること為すこと一として他を離れた事はなかった。すべてが君とか親とか国とか社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化でとうとう張り通せなくなった結果、漸漸自己本位を思想行為の上に輸入すると今度は我意識が非常に発達し過ぎてしまった。昔の偽善家に対して今は露悪家ばかりの状態にある。中略－君もその露悪家の一人－与次郎のごときはその最たるものだ。あの里見という女、あれも一種の露悪家、それから野々宮の妹もね。昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪いことでもなんでもない。－見事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れきっている。形式だけ美事だって面倒なばかりだからみんな節約して生地だけで用をたしている。露悪家同志がお互い不便を感じてくると利他主義がまた復活する。ここでは漱石は自分の考えの一端を広田先生に託し述べている。方向としてはその通りだとは思うが、「利他主義がまた復活する」ことになるであろうか。復活するのは「表面的利他主義」ではなかろうか。
美禰子のいう「咎」とは。意思の強い女である自分自身の行動を自己認識して言った言葉。とりわけ三四郎に対する誘惑めいた行為や、三四郎をはぐらす行為をこのように表現した。「咎」の行為をする自己を認識し、それを「迷子」と言い、美禰子の誘惑に反応をすぐに示すことのできない三四郎もまた「迷子」であると美禰子は認識しているのである。そして最後の結末では三四郎自身も、自分を悩ませた美禰子もまた「迷子」であると悟ったのである。

「ＮＨＫTVふだん着の温泉」収録に協力

１月18日～19日にかけての上記ＮＨＫ松山放送局番組制作にあたり、担当ディレクターから本会に協力要請があったので、近所の会員10名が協力した。
読書会や入浴シーンがあり、入浴シーンは一般の入浴客がいなくなってからの閉館後から撮影した。番組は２月３日全国放送されたが、県外在住の会員からも番組を見たとの連絡があった。温泉情緒がほのぼのと感じられる番組で私(頼本)は湧き出す源泉の映像を見たのは道後に住人の一人ではあるが、これは初めてであった。なお、ＴＢＳ系ＢＳｉ「ブンガク散歩」の『坊っちゃん』に頼本会長が出演協力した。3月13日23時～23時30分放送

　日本大学　秦郁彦氏・山下聖美氏が来松

　去る一月十七日松山市内で講演のため現代史学者で日大講師の秦郁彦氏が来松、半日頼本会長が坂の上の雲ミュージアムなど案内した。また同月二十八日はやはり日大芸術学部の山下聖美講師一行四名が漱石の遺跡など見学のため来松した。山下氏は「雪が降る寒い松山でしたが、松山坊っちゃん会の頼本冨夫氏、高村昌雄氏とお会いでき、大変暖かい思い出を作ることができました。「坊っちゃん」についての取材だったのですが、漱石、子規、そして山頭火まで、松山の持つ文学的な底力を知ることができました。今度は学生たちを連れて行きたいと思います」と語った。

第3回秋の文学散歩　11月3日漱石の足跡をたどり白猪の滝 (東温市)へ

11月3日　愛媛大学正門前を4台のマイカーに分乗して出発したメンバーは、会長頼本、理事菊川隆文、俊子夫妻、伊賀上理事、会員仁木、高橋一般参加の頼本勝弘の各氏計7名。折から白猪の滝駐車場は滝祭りの餅撒きなどがあり、地元の農産物など早速購入する人もいた。拾った餅をポケットに入れ、整備された山道を登ること約30分白猪の滝に到着。上天気でやや汗ばむ肌に滝の冷気が心地よい。水量も多く150メートルの絶壁から落下する瀑布は、色づきかけた紅葉の間に或いは飛沫となり、或いは虹となつて砕け散る。漱石句碑「雲来たり雲去る滝の紅葉かな」など鑑賞して下山する。一行は地元の寺、岡之坊の神野氏に招かれ、神野氏ご夫婦が数日前から腕によりをかけて準備してくださった山海の珍味に舌鼓を打ち、山のごとく出されたお料理を、全部腹中に納めきれないのが、なんとも申しわけないかぎりであつた。ついで裏庭の丹精込めて育てられた見事な大輪の菊を鑑賞して帰路についた。そこで駄句数句「菊つくり料理もつくる文化の日」「菊の香や夫の料理文化の日」「住職が包丁握る文化の日」「妻は菊夫は料理文化の日」冨夫

松山坊っちゃん会会報を　愛媛大学法文学部・松山大学図書館
広島女学院大学・愛媛県立図書館・子規記念博物館
神奈川近代文学館・岩波漱石全集編集室・新宿歴史博物館・
江戸東京博物館・松山市立中央図書館・同坂の上の雲ミュージアム
県生涯学習センター・熊本近代文学館・仙台文学館・高知文学館が資料として保管

本会会報は岩波書店漱石全集編集室　松山市内大学、図書館　博物館　マスコミ　松山市公民館　松山地区高校　関係官庁へ
寄贈しているが、県立図書館は創刊当初より、上記博物館等では昨年4月より第1号以降資料として保管されることになった。

漱石「夢十夜」　読書会終了　次回は来年1月5日(土)『三四郎』
　11月3日(土)に第3回文学散歩開催

午後1時30分愛大正門前し集合直ちに出発　東温市白猪の滝へ申し込みは会長まで

夢十夜第1回　　小説「坊っちやん」発表百年記念の諸行事も無事終了し、今年１月6日より新しく「夢十夜」の読書会が始まった。場所は大街道の喫茶店「坊っちゃん」。この日はあいにくの雨天であつたが、熱心な会員６名が参加した。伊賀上(落ち着いた着物姿で登場)、奥村、戸田健、それに菊川夫妻と頼本会長の６名の参加で、新年早々の各自の初夢物語から始まった。第一夜は作者の初恋でも想像させる話であるが３名の人は漱石全集の重たい本を持参するほどの熱の入れようであった。１５時に終了したが、その頃は雨も上がっていた。
今後はしばらくは毎月第1土曜日に喫茶「坊っちゃん」で午後１時３０分～３時0０分まで開催する予定｡
夢十夜第2回　第二夜は２月３日この日は寒い日であつたが天候もまずまずで、前回参加の戸田　健氏は勤務の都合で欠席、新たに佐藤栄作教授、岩城紀子、渡辺晃夫、寺岡信子、神野香澄の各氏が加わり一層にぎやかな会となり、脱線も多かったが楽しい会となった。第二回は菊川夫人も春の着物で参加して下さり、彩りを添えた。　
夢十夜第3回　第3回は３月３日。第三夜では不気味な話である。なぜ不気味なのか。なぜこんな話になったのかという疑問点がとりあげられ、それぞれが解答を考えたりした。話が盲目の座頭市にまで飛んだ。この日は佐藤教授、岩城紀子氏寺岡信子氏渡部晃夫氏戸田健氏伊賀上紀子氏奥村紀子氏頼本会長それに菊川夫妻。菊川夫人は江戸小紋の着物で華やかだった。折から本日より大街道シネマサンシャインでは日活映画「ユメ十夜」の封切りで等身大の漱石像が松山にお目見えした。場所は道後温泉前他。卒業旅行の女子学生が大喜びで漱石先生の頭をなでたり、喉をくすぐったりしていた。わずか一日で帰京されたのは「坊っちゃん」よりもさらに短い松山での滞在であった。しかしさすが松山、初日に漱石先生がやって来た。日活では制作費500万円と言っていた。
夢十夜第4回　4月7日は第四夜。今回こんな夢を見たで始まってない。漱石の見た夢の話でなく、自身の体験を基にした創作と思われる。このような体験は60歳以上くらいの人なら誰でも体験が少なからずあるはず。そう考えるとわかりやすい。そのせいか専門家の意見・評論の類も少ないようだ。郷愁を誘う作品だ。海の中へ爺さんがまっすぐ入っていって見えなくなるなどなんとなく不気味というよりも御伽噺的で浦島太郎的であるる。先日見た映画「夢十夜」の感想で話がはずんだ。みんな見ていた。今回は黒のジャケツトに白のタートルネツクも粋な渡部氏、またも着物姿の菊川俊子さん、シックなスーツに身を包んで念入りにメークした奥村さん、この後どこかへお出かけとお見受けした。それに寺岡先生、赤い帽子の神野先生、ピンクのシヤツも若やぐ菊川氏、田鶴谷氏、それに私頼本とみんな颯爽とした春のいでたちで、これこそ活力の根源であると痛感し、私も張り切ることになる。
夢十夜第5回　5月12日は第５夜「こんな夢を見た」で始まっているが、実際見た夢ではなさそうである。「余程古い事で神代に近い昔」、自分が戦いで破れ捕虜となり敵将の前へ引き出される。自分は降伏せす゜と意思表示をするが、死ぬ前に一目想う女に逢ってから死にたいという。敵将は鶏が鳴くまでに女が来なければお前を殺すという。篝火がぱちぱち音を立て、時たま崩れ落ちる。自分は今や遅しと想う女を待っている。ドラマチックな場面である。鶏鳴一声。裸馬に飛び乗り急いでいた女は鶏鳴に驚いた馬が前足を岩にひっかけ淵の底へ転落、人馬もろとも絶命となる。死ぬ前に想う女に一目会いたいという所に作者漱石の心の深層に、好きだつた女性に逢いたかったが、その想いが遂げられなかったという意識があつたのではないかという思いがする。夢の中で女を待って殺されるであろう自分と、現在馬の蹄の跡を見て鶏鳴の真似をした天探女(あまのじやく)を憎む自分と二人の自分、─それは輪廻転生ということか─が出てくる。二人の自分に疑問を感じた人、これは日本の古代か、それとも西洋の古代か、馬に乗る女は西洋の女かとかいろいろ質問や話題提供があった。ただこの話は漱石の先行作「韮露行」の素材と同一と思われるものがあるので舞台は西洋と考えた方がよさそうである。
今回は高村、田鶴谷、岩城、寺岡、菊川隆文俊子夫妻、渡部、大沢の各氏と頼本の9名で大沢氏は初参加でお土産に銘菓を持参された。御礼申しあげます。　
夢十夜第6回　6月2日は第六夜、鎌倉時代の仏師運慶の自由自在に鑿を操る仕事振りに対する賛嘆の念が表れているというのが大方の感想。
「こんな夢を見た」で始まってなくて夢らしくなく、はっきりしたイメージである。木の中に埋まっている眉や鼻を掘り出すという車夫の言葉は単に車夫の言葉とは思えない芸術的な意味合いのある言葉だと思った。(笹淵友一「夏目漱石ー夢十夜論他」)によると「掘り出す」はロマン・ロラン著「ミケランジェロ」の言葉だとある。そうだとすれば漱石の芸術的知識の深さにただただ驚かされる。「運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ掘りぬいて～少しも疑念を挟んでおらんやうに見えた」そこに運慶の手際よさに感心している自分が表れているが、この描写から想像すると彫刻家の現場を漱石は実際に見たことがあるのだろう。「自分は積んである薪を片っ端から彫って見たみたが、どれもこれも仁王を蔵しているものはなかった」というが、芸術家は材を選ぶものだ。「薪を片っ端から彫って見た」なんて素人でもやらないだろう。これも漱石の誇張で滑稽味がある。「遂に明治の木には到底仁王は埋まってないものだと悟った」ここに明治の文化の浅薄さに対する批判があるというのが参加者の多くの意見。そしてそれは漱石が自己文学の限界を知ったということでもあるという。(前掲笹渕氏)
今回は神野、菅、大沢、(白地に黒のモダンな模様の夏の服装)戸田、岩城、渡部、寺岡、頼本と途中から高村氏が参加した。
夢十夜第7回　7月7日は第七夜。「何でも大きな船に乗っている。」という書き出しで始まる。漠然とした書き出しで、何処へ向かっているのかも分からない。やはり夢の中らしい話である。「波のそこから焼火箸の様な太陽が出る」は第一夜の「大きな赤い日」「唐紅の天道」とは異なる太陽で暑さを強調したものか。異国の風景であろう。乗客のほとんどは異国の人。インドの婦人が出てきたり、宣教師が出てきたりする。そういう乗客とは自分はなじめない。一層の孤独が募る。海外留学時のプロイセン号上の体験が素材となっている。「流せ流せ」の水夫の合唱や、日が東から上がり西へ沈むことの繰り返しは輪廻即ち仏教の世界観であり、鴨　長明の「方丈記」を英訳した経験もある漱石ならではの見方であろう。(笹渕氏)
サロンにおけるピアニストと男性歌手を恋人同士と見るならば「自分は益々つまらなくなった。とうとう死ぬことを決心した。」いくら長旅の不安や孤独感があるとは言え、とうとう海中にとびこむのはやはり夢ということか。しかし、飛び込んでみると命が惜しくなった。やっぱり船の方がよかったと悟るのが面白い漱石らしいところである。何処へ行っても満足すべきところはないということは漱石の持論である。
今回は「漱石山房を考える会」(新宿区喜久井町)限定販売の中村屋特製夏目家家紋入り月餅を頼本が購入し参加の皆さんに賞味してもらった。今回の参加者　田鶴谷、戸田健、高村、寺岡、神野、菊川夫妻、渡辺、頼本の各会員9名。
夢十夜第八回　8月4日　土曜夜市の準備で賑わう大街道、松山でも戦前からの喫茶店「坊っちゃん」。店内には坊っちゃん・漱石グッズがいっぱいに飾られた店。第八夜は床屋のシーン。床屋はなぜか「白い着物を着た人」から「白い着物を着た大きな男」ついで「白い男」と表現される。
何故だろうか。外の「あぶねえ」という声に外を向こうとすると白い男が両手で自分の頭を押さえてうんと横へ向ける。自分は白い男のなすがままである。床屋の椅子に座った以上、我々の運命は床屋に任せきりである。小説「草枕」の中にも「髭を剃る間は首の所有権は全く親方の手にあるのか」と床屋に対する不安感を示唆している。こうしたことから白い男の表現変化は「超自然的なイメージの濃厚化、定着をねらっている」(笹淵)としている。ところで、白い男が自分が「どうだろう、ものになるだろうか」と問うのに一切答えず、琥珀色の櫛で軽く自分の頭を叩いて品定めのような事をするが、実際には床屋はそんなことはしない。私はこの動作で我々が八百屋で西瓜を買うときこつこつと叩いて西瓜の照れ具合を調べる様子に似ていることを思い出し面白いと思った。白い男が我々が運命を委ねる神的存在ならば神から見ると人間の頭など西瓜か南瓜程度なのか。こう考えると漱石のユーモアがここでも感じられるのではないか。「白い男」のぼやけたイメージ。床屋が普通しないことをする床屋。帳場格子のうちでいつまでもお札をかぞえている女などやはり現実ではなくてこれも「夢」に違いない。帳場格子の立膝の女などは漱石好みの女の顔(笹淵)というが、私は漱石日記に三度書かれている「鰹節屋の御上さん」を思い出した。「黒繻子の半襟」はまさしくそのお上であり、立膝はそのお上から漱石が連想した歌麿の女である。歌麿には立膝の女がしばしば登場する。創造した夢物語ではあるがあくまでも漱石の実体験が素材であることはいうまでも無いであろう。
今回は新会員の松浦淳子氏(米国ロスの大学で長年文学の研究)が参加、他に菅、岩城、伊賀上神野、(いずれも清々しい夏姿)、菊川俊子　(斬新なデザインの夏服 )菊川隆文、田鶴谷、それに頼本の9名だった。

夢十夜第9回　９月１日大街道　喫茶店「坊っちゃん」にて。第九夜は悲しい話である。その根本は愛情である。こわい話でも不思議な話でもない。「浪士」という語からは維新の戊辰戦争などが時代的に想像される。「浪人」というとなんとなくやくざな感じであるが、「浪士」というと「赤穂浪士」、「水戸の浪士」という特別な目的を持っての主家を離れた武士という感じである。妻がお百度を踏んでいたのに夫が帰って来なかったなどという話は、時代を超えて先の第二次世界大戦中の出来事にも当てはまり、普遍性がある。今日でも高野山などでお百度を踏んでいるのをよく見かける。神社には今でもお百度石がある。床の上で草鞋を履き、黒頭巾で裏口から出るのも尋常てはない。密命を帯びているか、他人に知られたくない状況があったのか。最後の「こんな悲しい話を、夢の中で母からきいた。」というのは実際に聞いた話かも知れない。母から聞いた話を再構成しているようでもある。だから、話はかなり写実的で現実味がある。日露戦争中、戦後の見聞を素材にして書いたとも考えられる。
漱石日記　「明治44年５月２１日　えい子が二三日前八つ位の学校友達を連れて来た。其子が御辞儀をするから、へい入らつしやいと云った。あとから二人遊んでいる所へ行って、あなたの御父さんは何をして入らつしやるのと聞いたら御父さんは日露戦争に出て死んだのとただ一口答えた。余はあとを云ふ気にならなかった。何だか非常に痛ましい気がした。」という漱石の心情と第九夜の悲しい哀れな思いは一致する。夢十夜よりもこの日記の方が後であるから、こういう心情は後まで続いていたのだろう。これは漱石ばかりに限らない。
　母は可愛い子を用心のため拝殿の柱に細帯の一方を括り付け、子供が遊んでいるその間が母にとっては楽な時間であるという。暗い夜であるのに泣かないのであろうか。こどもの立場から考えると母は懸命にお百度を踏んでいて、こどもはさぞ淋しくてこわいのではなかろうか。なぜ夜なのか。他に知られたくない事情が考えられる。女一人と子供一人の家庭はやはり危険なのである。
「この作品に漱石の幼児体験を見ようとする説は多いが、実状はそれほど簡単ではない。もし時代の暗さ、母子を包む環境の暗さに限定するとすれば、それを漱石の幼児境遇―古道具屋の里子、塩原家の養子などーの間接的な投影と認める事は困難ではあるまい。しかし父母と幼児との愛と信頼によって成り立っていた第九夜の家庭事情そのものが漱石の幼児の境遇と全く異なることはいうまでもない。ただまったく無縁ではなかった。それはこの家庭事情は漱石の憧れであり、夢であったに違いないと思われるからである。そしてその夢が可能になったのは実家に引き取られてからはじめて母子の情を経験したからである。」(笹淵友一)というが果たしてそうだろうか。実父母をお爺さんお婆さんと呼ばされ、父は漱石には冷たかったと言われている。今回は高村、田鶴谷、渡部、岩城(黒のワンピースに薄い上着の落ち着いた雰囲気)、神野、菊川隆文、俊子(濃いベージュのワンピースに鼈甲のネックレスという洒落たスタイルの)夫妻、それに菅、頼本の9名の参加。菅さんは黒のシックなワンピースに渋い艶消しのペンダント、指に合わせた燻し銀の長めのリングという隙のないいでたちで颯爽と現れた。
夢十夜第10回
10月6日、松山地方祭の宵宮で大街道は遠く宇和島の牛鬼までやって来て大賑わいである。
「こんな夢を見た」で始まつてないが、これも夢の形態をとった創作であると言える。主人公庄太郎は第八夜にも登場する人物。第八夜では通りを女連れでパナマ帽をかぷって得意顔で通る人物である。昔なら伊達男、今日で言えば、カツコイイ、スマートな、女にもてそうな、それでいて中味のなさそうな、つまり現代でも通用しそうな男である。それが第十夜ではいきなり女に攫われたと言う。ただごとではない。読者を引きつける。攫われて七日目に帰ってきたというのもつくりものの感である。普段は果物屋の店先で何をするでもなくパナマ帽をかぶってじつと通りすぎる女を見ている。果物を盛った籠を見ては綺麗だと思っている。別に買うのでもない。一定の職を持つでもなく毎日のんびり暮らすのは漱石の理想の生活であり、「こころ」の先生が女を見つめるではないが、無職の生活をしている。これを高等遊民という。
そこへ一人の立派な服装の女があらわれる。その服の色や女の顔は庄太郎の気に入った。果物籠を見て綺麗だと思うのも同じである。つまり外見から判断したのである。その女の命ずるままに果物籠を持って付いて行く。そして絶壁の側まで行き、そこから飛び込めと命令され、躊躇していると「豚に舐められますよ」といわれる。
なぜここに豚が出てくるのか。「どうもこの話は漱石の独創ではなさそうである。柄谷行人、加賀乙彦両氏によると福音書の悪霊に憑かれた豚の大群が海に落ちる場面(「マタイ」8・30－32、「マルコ」5・11－13、「ルカ」8・32－33)を連想させるという指摘がある。豚の大群の転落という視覚的イメージにおいて、確かに酷似している。(中略)「庄太郎の誘拐事件そのものに聖書の叙述との類似が見出されることである。例えば「マタイ福音書」(4・1－11)にイエスが悪魔の試みを受ける場面で、イエスを宮の頂に立たせて「汝がもし神の子ならば己が身を下に投げよる神は汝の為に御使い達に命じて汝を支え(以下略)(など考え合わせれば)第十夜の骨格は成立するのではなかろうか」(笹淵友一)とある。
最後の部分に健さんは「だから余り女を見るのは善くないよと云った。自分も尤もだと思った。」ここにヒントがあるように思う。豚を女に置き換えてみると、女を見ると女に舐められるという事になる。あまり女にうつつを抜かしていると身も心も奪われて、最後は捨てられるという話は世間よくある話である。人間の本質を見ずして表面的色恋では物事は成就しないと言っているようだ。「自分も尤もだと思った」のこの第三者的人物は漱石自身てはないだろうか。漱石自身西片町にいるとき近所の歌麿の絵にあるような鰹節屋のかみさんに見惚れたという話は有名である。亭主が変な顔をするから気の毒になったと漱石自身が言っているのなどは面白い。
漱石がパナマ帽を買って得意になっていた時、菅虎雄が高価なパナマ帽を被ってやって来たのを見て、安物をかぶっている漱石は帽子がいやになったという話がある。
第一夜の「死にます」という女、第五夜の白い馬に乗って駆け出す恋人の女、第八夜の10円札を数える床屋のかみさん。第九夜の御百度参りの女、そして第十夜と続きこの身分のありそうな女の話で終わるところは首尾照応である。それも第一夜が女が死んで百年も待つ話であり、第十夜が「余り女を見るのは善くないよと云った。自分も尤もだと思った」というのは、全く痛切な皮肉で読者を唖然とさせたのではないだろうか。
全体を見渡すと夢の形を借りた読者に不思議な感を抱かせる創作である。(「夢十夜私論」　頼本冨夫)
今回の参加者、戸田　健、菊川隆史、神野、菊川俊子、伊賀上、菅、岩城の皆さんと私頼本。10か月間皆さん大変ご苦労さまでした。おかげさまで楽しく読書会を終えることができましたこと深く感謝申し上げます。ありがとうございました。
次回は漱石前期三部作「三四郎」を読む予定。1月5日。場所未定。毎回参加費は無料だが、各自がテキストを持参する必要がある。コーヒーでも飲みながら堅苦しくならずに、小説をネタに互いに90分の楽しい談話をするのが目的。ただし飲み物代は自己負担。会員以外の参加者は事前に℡またはＦＡＸで089－924－2698頼本まで連絡が必要｡

発表100年記念「坊っちゃん本」展 100冊
勢揃いして初めて分かるそのエネルギー
盛況裡に閉幕ー子規博物館ー

本会会員小田切靖明氏の蔵書を中心に集められた珍しい「坊っちやん」本、約100冊が5月末、頼本会長宅より、子規博物館へ
搬入され、７月２９日(土)中村松山市長、天野館長、夏目房之助氏頼本会長らのテープカットの後、子規博物館4階ホールにて、
一般公開となった。それに併せて、漱石書簡・書幅等子規博独自の漱石展が3階特別展示室で開催された｡
3・4階併せて特別展は入場料1人500円。
また、関連して視聴覚室では「小説と映画の間」と題して紅野謙介日本大学教授による講演もあった。展示は「ホトトギス明治３９年
４月１日坊ちゃん発表号」「袖珍本坊っちやん大正３年初版本」その他岡本一平や近藤浩一路などの漫画「坊っちゃん」など珍しい
「坊っちゃん」がいっぱいであった。子規博側の話では入館者は６千数百人という。
出品者側から一言 --「坊っちゃん」に関する論文は最近はとみに多いようである｡しかし、此れだけ数多くの「坊っちゃん」を
勢ぞろいさせてみてこそ「坊っちやん」が国民にいかに現代でも読まれているかが理解できるのである。
全集本はもちろんのこと、単行本、文庫本、そして児童向けあり、漫画ありである。まさに大人から子供まで幅広い読者が存在するので
ある｡翻って考えるとこの1冊1冊にそれぞれの出版社の思いが込められている。単行本であれ、文庫本であれ、それぞれが人気画家を選び、装丁に工夫凝らし、解説者を選び、年表を付け、漱石の松山文学遺跡を訪ねる章を加えているものもある。少年向きでは丁寧に「坊っちゃん」の読書感想文の書き方を付け加えているものもある。出版社がいかに「坊っちやん」を読ませるか、いや、いかに売るかということでもあろう。
こうした努力は「坊っちゃん」が人気があるからでもあるが、出版社の努力によってもますます「坊つちゃん」は普及するのである。
こうして一堂に「坊っちやん」を集めてみてこそ初めてそれは言いえることであり、全集本の書誌的解説では個別的・部分的には
「坊っちゃん」本を理解できても国民文学としてのエネルギーは味わうことは出来ないのである。

頼本会長講演「小説『坊っちやん』と松山」
松山・八幡浜・坊っちゃん劇場・伊方原発にて
愛媛経済研究会・東温市文化協会他主催で

6月20日(火)松山市一番町全日空ホテル万葉の間において、愛媛経済研究会(事務局愛媛新聞社)の6月例会
が開催され，本会頼本会長が「小説『坊っちやん』と松山」と題して約1時間講演した。次はその内容である。
7月22日東温市「坊っちゃん劇場」(東温市文化協会主催)では「漱石と松山」と題して漱石白猪観瀑を中心に講演した｡
また八幡浜市センチュリーホテルイトーでも5月24日(火)、7月26日(水)、伊方原発(四電エンジニアリング主催)でも
「小説『坊っちやん』と松山」と題してほぼ同様の講演があった｡

Ⅰ雑誌「ホトトギス」と夏目漱石─小説「坊っちやん」はどのようにして書かれたか─
1、極堂の編集による「ほとゝぎす」誕生
新聞「日本」の従軍記者として清国へ渡った子規は間もなく帰国、船中で喀血した。須磨で療養後、漱石の勧めもあり
松山の漱石の下宿、愚陀仏庵と名付けた上野家の離れの１階へ約50日同居した｡漱石は2階へ移った。子規が
帰省したというので松山の新派俳人達が多く日参し、連日句の指導をうけた。漱石はやかましくて読書もできなかったと
いっているが、実は漱石も俳句にのめり込んで行った｡子規と同居したのだから当然のことである。その証拠は明治
27年の句はわずか15句しか残ってないが、28年は一挙に462句、そのほとんどが同居時代のものといわれる｡
こうして俳人漱石が誕生した｡しかし一方子規は体力が回復すると、明治28年10月に上京してしまった。子規の
いなくなった松山でなんとか新派俳句の力を結集しようと考えたのが柳原極堂であった。
俳誌「ほとゝぎす」は創刊号37Ｐ、６銭、３００部、明治30年1月15日に発行された。編集人柳原正之
極堂。(慶応3年～昭和32年90歳。元海南新聞社主筆)誌名は子規の号を取った。その10号には漱石も寄稿
している。しかし、経営困難となり、明治31年8月、20号迄松山で発行した。

2虚子(明治7年1874～昭和34年1959)の編集による「ホトトギス」
、明治28年7月「今後いく年生きる命か自分にも判らん(中略)自分(子規)はお前(虚子)を後継者と決めている。どうも学校退学後のお前の容子(ママ)を見ていると落ち着きがない。(中略)これからは断じて(碧梧桐)と別居して、静かに学問をする工夫をおし。」
(虚子「子規居士追懐談」子規全集)と清国から帰国直後の病床で虚子に子規は頼み込んだが虚子は色よい返事をしなかった。
「蚊帳に入りて眠むがる人のわかれかな子規」須磨保養院で(子規全集)子規は病床で後継者と頼む虚子の返答が得られず眠れなかった｡この句はそうした自分の心境を詠んでいる｡12月再度、東京道灌山にて子規より後継者の要請。虚子重荷となる。虚子は「ホトトギス」の誌名を好まず、子規は変更を許さず、編集内容定価広告にまで干渉。主宰とはいえ生存中は実際は子規が指導した｡虚子は小説家志望であり、俳誌よりも文芸誌希望。しかし子規もはじめは小説家志望。「月の都」を書き幸田露伴に批評を乞うたが露伴が認めず、小説家志望を断念。やがて「写生」中心の俳句・短歌の革新へ進み、文章にまで行き着いたのが写生文であった。子規は「僕ハ小説家トナルヲ欲セズ詩人トナランコトヲ欲ス」(明治２５年５月４日虚子宛書簡子規全集)しかし子規の説得にようやく虚子も応じた。「「ホトトギス」は他の何人の力も借らずに二人の力でやらねばならぬ。斯ういふ考は期せずして両人の頭には在った｡」中略「ホトトギス」は幸い相当に売れて、まず雑誌として成功した。
明治31年10月号は第２巻第１号として60Ｐ、定価９銭で。東京で発行。表紙絵は不折，為山、後に百穂、
大観、など大家が筆を執った｡初版1５00部はたちまち売り切れ500部再販。「ホトトギス」といえば「写生」。
「写生文」の最初は虚子の「浅草寺のくさぐさ」といわれる。それが言文一致体となり口語体となった。子規は
「文章には山(主眼点)がないと面白くない」と言い、文章を朗読批評する「山会」を子規庵で開いた｡ここで
選ばれた文章が「ホトトギス」に載せられ、「ホトトギス」の特色を出した｡しかし子規没後文章中心の
「ホトトギス」から多くの俳人が離れた。まだまだ虚子の力は未知数だったのである。
子規没後であったが、漱石の「吾輩は猫である」の第1回も山会で朗読。従来の写生文とは違ったものであり，
読者の反響も大きく、明治38年1月号より断続掲載された｡「猫」掲載号はよく売れ、掲載しない号は売れなかった。
これで漱石の文名も上がり、「幻影の盾」に続いて「坊っちやん」も「猫」が連載中であるにもかかわらず寄稿した
3漱石(慶応3年1867～大正5年1916)「坊っちやん」発表
「坊っちやん」が、はじめて雑誌「ホトトギス」に掲載されたのは明治39年第9巻第7号明治39年4月1日号。
前年1月から連載の「吾輩は猫である」の第10回と併載したのである。この当時の普通号は70Ｐ程度で定価15銭。
本文132Ｐのこの号は付録として148Ｐに及ぶ「坊っちやん」を併せ、それに「太祇句選後篇」29Ｐも載せ300Ｐを越え
定価５２銭。5500部印刷した。虚子は神経衰弱に苦しむ漱石のために「夏目さん、何か書いて見ませんか」と勧めたのだが、
それが漱石の創作意欲を刺激したと言えよう｡

Ⅱ小説「坊っちやん」の面白さ─その魅力を探る─
ア鋭い人間と社会への見方が人間の醜さと社会の裏表を抉り出している｡
イ登場人物が単純化され戯画化されわかり易い｡エ・オの方法を用いているのが効果的。
ウ、文体が写生文を基調とするきびきびした談話体
エ、諧謔方言駄洒落の使用ー次に方言、駄洒落の例を挙げる｡
  「バッタた是だ。大きなずう体をして、バツタを知らないた、何の事だ」と云ふと  一番左の方に居た顔の丸い奴が
「そりや、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた。「箆棒め、イナゴもバツタも同じもんだ。第一先生を
捕まえてなもした何だ。菜飯は田楽の時より他に食ふもんじやない」とあべこべに遣り込めてやつたら「なもしと菜飯は
違うぞな、もし」と云つた。いつまで行つてもなもしを使ふ奴だ｡  「イナゴでもバツタでも、何でおれの床の中へ入れたんだ。
おれがいつ、バツタを入れて呉れと頼んだ」「誰も入れやせんがな」「入れないものが、どうして床の中に居るんだ」
「イナゴは温いところが好きじやけれ、大方一人でおはいりたのじやあろ
オ、風刺誇張
「山嵐の鼻に至つては、紫色に膨脹して、掘つたら中から膿が出さうに見える」
「野だの御世話になる位なら首を縊つて死んじまはあ」「この不浄な地」など。
その他赤シャツや狸の口ふり等  (引用は岩波漱石全集96年版)

Ⅲ松山における漱石(松山在任明治28年4月～29年3月)―その書簡から漱石は松山人をどう見ているか─

明治28年4月１６日(水)神田乃武宛書簡(前略)「教授後未だ一週間に過ぎず候へども地方の中学校の有様抔は
東京に在って考ふる如き淡泊のものには無之小生如きハーミット的人間は大に困却致すことも可有之と存候」(下略)
(漱石が着任したのは学校騒動の直後で、住田校長は大人事異動を行った｡その一環として漱石も着任した｡学校の空気は漱石にとっては
必ずしも心地よいものではなかったようである。)
同年5月10日(金)狩野亮吉宛 (前略)「道後温泉は余程立派なる建物にて8銭出すと3階に上り茶を飲み菓子を
食ひ湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれる(中略)面白き散歩所も無之候当地下等民のろまの癖に狡猾に御座候(下略)」
(この部分はそのまま小説に照応する。)
同年5月26日(日)正岡子規宛(前略)「身体別に変動も無之教員生徒間の折合もよろしく好都合に御座候東都の
一瓢生を捉へて大先生の如く取扱ふ事返す返す恐縮の至りに御座候(中略)僻地師友なし面白き書あらば東京より御送を乞ふ
結婚、放蕩、読書三の者其一を択むにあらざれば大抵の人は田舎に辛抱は出来ぬことと存候当地の人間随分小理屈を云ふ処のよし
宿屋下宿皆ノロマの癖に不親切なるが如し大兄の生国を悪く云ふては済まず失敬々々」(下略)
注、4月11日～6月中旬まで一番町津田安吉方愛松亭
(漱石は大先生のごとく奉られて孤独であったらしい。小説では「いか銀」の事として下宿が戯画化されている。)
同年7月25日(木)斎藤阿具宛(前略)「当中学は存外美少年の寡なき処其代り美人があるかと思ふとやはり払底に御座候
何しろ学校も平穏にて生徒も大人なしく授業を受け居候小児は悪口を言ひ悪戯をしても可愛らしきものに御座候(中略)
近頃女房が貰ひ度く相成候故田舎者を一匹生擒る積りに御座候」(下略)注、8月27日～10月中旬子規同居
(当時の中学生の有様をありのままに述べているのではなく，教師としての視点から述べている｡またある人の世話で見合いもしたようで
あるが、漱石の気に入らなかったようである｡他郷にいる孤独な生活と、年齢とを重ねて考えると結婚を考えるのは当然のことであろう。)
11月6日(水)正岡子規宛「(前略)此の頃愛媛県には少々愛想が尽き申候(中略)口さえあれば直ぐ動く積りに御座候
貴君の生れ故郷ながら余り人気のよき処では御座なく候」(後略)
(見合いが不首尾だったせいか、この頃になると急に松山から動きたい気持ちが強くなっている。子規もいなくなり、孤独感にさいなまれるようになったのだろうか。「愛想がつきた」という表現にはただならぬものがある。こういうところから漱石の松山赴任は彼自身熟慮したものでは
なかったようだ。着任以来僅か2か月あまりにも腰がふらついている。漱石の精神的不安定も考えられる｡)
明治29年6月６日子規宛「(虚子に肩を入れるのは)人物が大いに松山的ならぬ淡白なる処、のんきなる処、気のきかぬ処
無気様なる点に有之候(中略)先づ普通の人間よりは好き方なるべく(下略) (以上引用は岩波漱石全集第22巻96年版)
(この反対の言い方が、即ち虚子的でないところが漱石の考える松山人的なところということになる。初めての田舎暮らしで、
それも僅か1年間の滞在であり，交際範囲もかぎられていて、田舎は排他的なところもあり、エリートの漱石にとってはなじめぬ
土地であったと想像できる｡そうしたところが書簡の文面に表れたのかもしれない｡そして子規以外に漱石が心の許せる友人が
虚氏という人物であった。彼との交友を抜きにしては絶対に「坊っちやん」はうまれなかったのである。)
〈正岡子規〉「都人士の菽麦を弁ぜざる事は(中略)もし都の人が一疋の人間になろうと云ふのはどうしても一度は
鄙住居をせねばならぬ。」（明治34年5月 30日墨汁一滴）
(子規は学生時代、漱石と散歩をしていて、漱石が稲から米が穫れるということを知らなかったと驚いていて、それに上記の文がつづき、
それはこのようなことと同じだと言っているのである｡即ち漱石をして松山は一人前の人間に育て上げたと言うのである｡)

Ⅳ漱石の言による「坊っちやん」のモデルとその主題─漱石の言いたかったこと─

○「坊ちやん」にお清といふ親切な老婢が出る、僕の家にも事実あんな老婢がいて僕を非常に可愛がって呉れた
『坊ちやん』の中にお清から貰つた財布は便所へ落とすとお清がわざわざそれを拾ってもつてきてくれる条があつた、
僕は下女に金を貰つた覚えはないが、財布の一条は実地の話だつた」(「僕の昔」明治40年2月1日「趣味」2巻2号)
○「学校を出てから伊予の松山の中学の教師に暫くいつた。あの「坊ちやん」にある「ぞなもし」の訛を使ふ中学の生徒は
皆ここの連中だ、僕は『坊ちやん』見たやうなことはやりはしなかつたよ、しかしあの中にかいた温泉なんかはあったし、
赤手拭をさげてあるいたことも事実だ、もう一つ困るのは松山中学にあの小説の中の山嵐といふ綽名の教師と寸分も違わぬのが
ゐるといふので漱石はあの男のことをかいたんだといはれているのだ、決してそんなつもりじやないから閉口した」(僕の昔)
○「赤しやつも野田もうらなりも皆空想的の人間に候。津田の所は少々かき候が過半はいい加減なものに候。実歴譚でもない
様に候」(明治39年4月12日村上霽月宛)
○「山嵐の如きは中学のみならず高等学校にも大学にも居らぬ事と存候然しノダの如きは累々然としてコロがり居候。小生も
中学にて此類型を二三目撃致候。サスガ高等学校には是程劇しき奴は無之(尤も同類は沢山有之)候(中略)山嵐や坊っちやんの
如き者が居らぬのは人間として存在せざるにあらず、居れば免職になるから居らぬ訳に候貴意如何僕は教育者として適任と
見倣さるる狸や赤シやツよりも不適任なる山嵐や坊つちやんを愛し候。大兄も御同感と存候(下略)」
(明治39年4月4日大谷繞石宛)
○「『坊ちやん』の中の坊ちやんといふ人物は或点までは愛すべく、同情を表すべき価値のある人物であるが、単純過ぎて
経験が乏し過ぎて現今の様な複雑な社会には円満に生存しにくい人だなと読者が感じて合点しさへすれば、それで作者の
人生観が読者に徹したと云ふてよいのです。」(明治39年9月1日「文芸界」5巻9号「文学談」岩波全集)
○「嘉納さんにはじめて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私には
とても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。嘉納さんは上手な人ですから、いやそう正直に断わられると、私はます
ますあなたに来ていただきたくなったと言って、私を離さなかったのです。(中略)嘉納さんもあなたはあまり正直すぎて
困ると言ったくらいですから、」(「私の個人主義」大正3年11月25日学習院輔仁会で講演)引用は旺文社文庫
○「もし『坊っちやん』の中の人物をいちいち実在のものを認めるなら中学に文学士は私一人なので赤シャツはすなわち
こういう私のことにならなければならんので、後略」(同)
(作者漱石は主人公の坊っちやんをはじめ、赤シャツ、山嵐、野だいこといたるとろに散りばめられている｡特定の人物をモデルとしたもの
ではないことは歴然としているが、実在の人物の一部分は材料として取り入れたのかも知れない｡そして注目すべきは、この小説で作者漱石が坊っちやんや山嵐が好きだといっているところである。この小説は正義を描く小説であり，それをとりまく社会の不正を暴いているのである｡正直者が損をして、悪者が長生きをする世の中は現代でも同様である。そこにこの小説がいつの世にも読まれる原因がある｡しかもこの小説は正義という倫理が主題である。人間の情愛ばかりがテーマとされる当時の多くの小説の中にあって、倫理観が主題となる小説は珍しいと言わねばならない｡)

Ⅴ「坊っちやん」はどれくらい読まれているか｡─参考─

昭和31年6月調査 (臨時増刊文芸第11巻第8号)東京都足立区都立高校3年生

男300人女101人計401人読んだことがある男95.1％女80.6％平均91.6％

平成18年1月調査 (松山坊っちゃん会会報第2号) 松山東高１年生 414人

読んだことがある41％部分的に読んだことがある33％読んでない26％

(現代は昔ほど読まれてないのは事実である｡しかし、読書離れの今日、松山で41％の生徒が読んでいるというのは、大変喜ばしいと見なくてはならないと思う｡明治39年に発表された小説でこれほどまでに読まれる小説は他に類がない｡「坊っちやん」が国民文学ちる所以である｡)

「坊っちやん」１００年記念読書アンケート

漱石の小説「坊っちやん」発表一〇〇年を記念し、県立某高校にお願いして、同校の一年生四一四名を対象に、次のアンケート調査を実施した。百年の節目に高校生の小説「坊っちやん」への関心の度合いを知るためである。(次の設問はその中の一部である。)
問Ⅰ、漱石の小説「坊っちやん」を読 んだことがありますか。
    ア読んだ一六八名、四一％
    イ部分的に読んだ一三七名、三三％
    ウ読んでない一〇九名、二六％
問２、アと答えた人は、どういう媒体で読みましたか。
   ア、文庫本一二七名、七五％
    イ、単行本二九名、一七％
    ウ、全集本八名、四％
    エ、その他〇名
問３、問Ⅰでウと答えた人はなぜ読まなかったのですか。
    ア、まつたく「坊っちやん」に興味がない。三三名、三〇％
    イ、明治期の小説に興味がない。八名、七％
ウ、読みにくい。一四名、一三％
    エ、「坊っちやん」は松山を馬鹿にしていると言われているから。名、二％
   オ、映画・ＴＶでだいたいのストーリーは知っているから。五名五％
カ、今まで身近なところに本が無かったから。三三名、三〇％
   キ、この小説を知らなかったから。一名、一％
   ク、その他一〇名、九％
無答，三名、三％
問４、「坊っちやん」はだいたい松山が舞台であることを知っていましたか。
   ア、知っていた三九八名、九六％
イ、知らなかった九名、二％
ウ、松山が舞台とは思わない。一名、〇・二％
無答、六名、一・四％
問５、問４でア、と答えた人は次のどういう手段で知りましたか。
  ア、読んで自然にそう思った。四六名、一二％
  イ、多くの解説書にそう書いてあるから。七八名、二〇％
  ウ、観光パンフレット類にそう書いてあるから。四八名、一二％
  エ、人の話からそう思った。一九一名、四八％
  オ、その他、二九名、七％
無答、一〇名、二％
《考察》問Ⅰではア四一％に対してイ・ウ計五九％が数字の上では多いが、明治三九年の小説が今も読まれていると考えると四一％は、よく読まれていると考えたい。松山という地域性も考えなくてはなるまい。
問２では断然アが多いのは高校生として当然。
問３のア三〇％については、単に教室にとどまらず、文化享受の問題である。カ三〇％も問題である。現代は読む意志さえあれば本はどこにでもある。問４は当然であろう。
問５ではエ、四八％が意外と多い。ア・イ・ウの活字体験よりもエの会話による情報が多いのも活字離れの現象の一つと見てよいか。（Ｙ）

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　以上

現代の松山市民は「漱石］をどのように受け入れているか。
ーある記者の質問に答えてー

明治の文豪夏目漱石は明治２８年４月から１年間ではあったが、中学校の教師として松山で過ごした｡またその時の体験は後の小説、
「坊っちやん」の素材となっている。すなわち文豪漱石が青春の一時期をこの地で過ごしたことが、松山市民の誇りなのである｡
さらに、誰からも親しまれている小説「坊っちやん」は松山が舞台なのであり、当時の松山中学がそのまま描かれ，中学の教師はそのまま小説に登場すると信じられている｡言葉を変えて言うと、文豪漱石に対する「敬愛］と小説「坊っちやん」への通俗的理解が小説のモデルの地として市民の「誇り」となっている。
こういう見方は一般的なものであり，例えば、これから消え行く漱石の肖像入り千円紙幣は、日本銀行により，第１号券は日銀資料室、２号券は夏目漱石の出生地、新宿区歴史博物館へ、そして３号券は松山市立子規博物館へ、４号券は熊本市の漱石旧居の漱石記念館へ、５号券は夏目家へ寄贈された。ただし、５号券は平成11年神奈川近代文学館へ寄贈された｡3号券の行く先が松山ということは、漱石を語るとき松山を抜きにしては語れないからである。このことは、熊本市と比較すればよく理解できる｡「96くまもと漱石博」のキャッチフレーズに確か「熊本４年松山１年」というのがあった。実際４年３か月も漱石は熊本に居住して、結婚生活もし、長女も生まれた。一家の主としての生活を送ったのである｡しかし、気の毒ではあるが，市民の漱石とその作品に対する熱意の面では、熊本は今ひとつパッとしない。松山に比べて、のめりこみが少ないと思われる｡市政の側から見ると、松山では「坊っちやん文学賞」「坊っちやん球場」があり、商品名や店名になると「坊っちやん団子」「－書房」「－パーキング」など数知れず。ただしこの方は，有名な小説の題名「坊っちやん」を単に利用しようという魂胆であろうし，いまのところ、全国に通用する、ネームバリューのあるものが他にあまりないということでもあろう。
漱石は後に熊本時代に素材を得た「草枕」を書き、「二百十日」もある。熊本市は「草枕俳句大会」を実施しているが、「人気］では松山に劣るようだ。これはひとえに誰からも愛される小説「坊っちやん」のおかげである｡
一昔前まで，松山でも，熊本でも直接漱石の謦咳に接した人が生きていた。そういう人々は，多くは教え子であるが、漱石に接したことを誇りに思い，自慢もしていた｡そういう人々の時代は過ぎ去った｡小説「坊っちやん」に見られる「正義］と「正直］は明治の昔も現代にもあまり通用せず、それがために、反面、強い「あこがれ」「理想」となって人々の内面に訴えてくるのだ｡それが小説「坊っちやん］の魅力でもあ、「坊っちやん」が国民文学たるゆえんでもある｡
漱石は，正岡子規に宛てた手紙の中でも松山のことは良くは言ってない｡単純に小説゜坊っちやん」が松山を舞台にしていると考えるなら、これほど松山では人気は出ないであろう｡１年間という短期間のせいもあろうが、漱石は学校では、交際範囲は限られていて、地域においても正岡子規と松風会会員の一部以外は交際はなかった｡松山は漱石にとって骨を埋める所ではなく，旅人としての一通過点でしかなかった。そういう漱石の目から見た場合、批判的に見えるのも当然であろう｡それでもなお「漱石］と「坊っちやん」に人気があるというのは，文豪漱石への「敬愛］と小説「坊っちやん］のおもしろさから来る他の小説を圧倒する大きな魅力のせいであろう｡だからこそ松山人は小説をあくまでも身近なものとして捕らえたいのである。（平成16年2月記頼本）

現存する唯一の明治の客車ーーこのままでは消えゆくのみ、なんとか手だてはないものか。ー本物が無くなる。

伊予鉄道古町駅構内で朽ち果てている。
（平成13年3月写)