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宇和島市

山村豊次郎(1869~1938)

 初代宇和島市長・衆議院議員。明治2年3月16日、宇和島城下笹町(現宇和島市)で士族村松喜久蔵の次男に生まれた。後に政敵として争う国民党一憲政会代議士村松恒一郎は兄である。3年父が士族株を買って別家させ山村を名乗った。鶴島小学校卒業後、末広静の静古園、加藤自謙の継志館などに学んだが、家が貧しく宇和島裁判所給仕や西宇和郡役所臨時雇などで家計を助けた。政治に関心を示し始めたのは代言人坂義三の事務を手伝ってからで、大同団結運動に参加して23年の第1回衆議院議員選挙では末広鉄腸の運動員として活躍、同年末広のつてで大阪の関西日報に入社、ついで東京の新聞国民に移った。24年日本法律学校(現日本大学)に入学、代議士牧野純蔵の書生に住みこみ苦学した。28年弁護士試験に合格して宇和島に帰り、法律事務所を開いた。自由党に入党し、32年宇和島町会議員、33年北宇和郡会議員に当選、36年郡会議長に選ばれた。明治39年7月重岡薫五郎死去に伴う衆議院補欠選挙に、政友会から立候補して当選したが、一家の扶養の義務や兄村松恒一郎との政争の回避などを理由に、41年5月の選挙では出馬を辞退、以後、代議士になることを断念して地方政治に専念した。44年宇和島運輸会社取締役、大正2年宇和水電取締役、5年鶴島漁業組合連合会長などを歴任して、9年宇和島町長に推されて就任した。政治力で市制実施を進めて大正11年5月初代市長に就任した。市庁舎の建設、港湾改修、水道敷設などを推進したが、15年1月市会議員選挙における市吏員の失態の責任を負い辞職した。山村が去った後、市当局と市会の対立や党派抗争で市政が渋滞したので、昭和2年3月再び市長に返り咲いたが、懸案の須賀川付替工事で反対派が市長不信任案を可決したので、5年10月任期途中で市長を退いた。公職を離れると同時に弁護士を再開業し、宇和島鉄道会社社長・南予時事新聞社社長・宇和島運輸取締役を兼ねた。昭和7年2月の第18回衆議院議員選挙の候補に政友会から懇請されたが、民政党代議士村松恒一郎との競争になるため熟慮したのち立ち、当選した。11年2月の衆議院議員選挙でも再選され、宇和島鉄道の国鉄移管などを斡旋した。昭和13年9月13日、69歳で没し、宇和島光国寺に葬られた。和霊神社境内に山村豊次郎頌徳碑が建立されている。(『愛媛県史 人物』より)

①山村豊次郎君頌功碑

①山村豊次郎君頌功碑

宇和島市和霊町(和霊公園内)