データベース『えひめの記憶』
宇和島市
中野逍遙(1867~1894)
漢詩人。宇和島城下(現、宇和島市)出身。本名重太郎。南予中学校(現、県立宇和島東高等学校)を卒業後に上京して東京大学漢文科に進学し、ドイツの詩人・シラーや中国唐の時代の詩人・杜甫らを研究した。一方、歌人・佐佐木信綱と親交を結び、自ら漢詩にも取り組んだ。しかし、さらに研究を深めようとした矢先の明治27(1894)年、急性肺炎のためにわずか28歳で逝去した。
逍遙の死後、その死を惜しんだ友人と恩師が、一周忌に『逍遙遺稿』を出版、その遺稿には、逍遙が中学から大学時代の約10年間に作った漢詩などが収録され、情熱的な恋心をロマンチックに表現した漢詩が数多くみられ、高い評価を受けた。
正岡子規は、激情家で一途な逍遙を「多情多恨」と評した。情熱的で自由奔放な恋心を歌い込んだ逍遙の詩風は、島崎藤村や吉井勇ら日本を代表する詩人や歌人に大きな影響を与えた。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)
【追記】
中野逍遙墓所:光国寺(宇和島市妙典寺前)
【漢詩碑「擲我百年命」】
道情
中野逍遙
擲我百年命
換君一片情
仙階人不見
唯聴玉琴聲