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八幡浜市

二宮馬太郎(1852~1937)

 1852(嘉永5)年2月24日、宮内村枇杷谷に生まれた。
 宮内財産区有林の基礎を作ったのは、村長佐々木秀治郎であるが、もう一人の献身的な協力者があった。宮内村有林の初代造林委員二宮馬太郎村会議員である。佐々木秀治郎が名プランナーとすれば、彼は計画を現地にうつし造林を実行、村有林を完成させた立役者である。
 造林委員に任命されたのは、1910(明治43)年、58歳の男ざかりだった。気性の激しい性格だが、きちょうめんで責任感が強くまじめな人柄が認められ、委員に推されたのである。委員になると毎日山に出かけ、一日中、山の中で草刈りや林道建設、植樹、苗木の手入れ作業を続けた。出夫の村民から不平が出ると、「木が太ったら、売った代金はみんなに分ける。親の代で金にならなくても、孫子の代にはきっと大金がはいる。そのときには先祖のおかげだと喜ばれるのだ」と励ました。
 こうして、1934(昭和9)年、82歳で造林委員をやめるまで24年間、風雪をついて造林完成に打ち込んだ。また、この間、1907(明治40)年に奈良県へ派遣され、吉野杉の植林技術を身につけ、良苗を持ち帰り植え付け、これが良材を生む美林のもとになった。
 彼は心から山を愛し、木を愛する人だった。こんな話が残っている。ある日のこと、山から帰った彼は山を振り返ったとたん造林用具をほうり出して、山へ向かって走り出した。これをみた村民もびっくり。数時間して山からおりた彼は夕食もとらず寝床にはいってしまった。なにが起こったか家族にもわからなかった。数年後、彼は「山にひとすじの煙がみえ、山火事だとびっくりして飛んでいったところ、山小屋で番人が暖をとるためのたき火だった」と打ち明けた。植林には山火事が一番こわい。二宮馬太郎はこれほど山に打ち込んでいたのである。
 1935(昭和10)年にその功績を永久に残そうと、瞽女ヶ峠に頌功碑が建てられた。1937(同12)年8月22日、85歳で死去した。(『保内町誌』より)

①造林委員 二宮馬太郎翁頌功碑(左)

①造林委員 二宮馬太郎翁頌功碑(左)

八幡浜市保内町喜木津(瞽女ヶ峠)