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大洲市

山本尚徳(1826~1871)

 山本大参事は、1826年(文化9)大洲町大洲に生まれ、通称を源五郎と呼び、襲名して加兵衛といい、真弓と号した。1845年(弘化2)9月に家を継ぎ、馬回り勤仕となり、学校司読、郡奉行、ついで執政(家老)となる。1870年(明治3)12月大参事に任ぜられ、大洲県政を担当した。
 尚徳は勤王の志厚く、啓行隊を組織して武術を練り、心術を修練して有事に備えた。藩政をあずかるようになると江州から桑苗をとりよせて、無償で農家へ配布し、また城堀の周囲や、士卒の邸内にも栽培させ、家族に養蚕を行わせて範を示したりなど、大洲地方の近代における養蚕の先駆者の一人であった。また茶の木の栽培を奨励し、宇治から製茶工を雇い入れて製茶の業を起こし、士族の授産に努力した。一方では英語の学問をすすめ、蘭方医を登用するなど善政を施し、維新にあたっては、地方行政に大いに貢献した。
 このような功績があったにもかかわらず、大洲騒動の責任を一身に負い自刃したが、大参事の功績を慕う人たちは郷党の鑑として、敬仰の念は日とともに高まっていった。(『増補改訂 大洲市誌 上巻』より)

【頌徳】
 1921年(大正10)4月16日、尚徳の没後50年に特旨をもって正五位を追贈された。これを機会に、大洲町は喜多郡内の各町村長を招いて50年忌の法会を執行した。
 また更に10年後の1931年(昭和6)8月、山本大参事頌徳碑の建設を計画し、尚徳が自刃した邸跡であった県立大洲高等女学校(現大洲市立大洲南中学校)庭の北西隅にこれを建設して、功績を後世に伝えるよすがとした。(『増補改訂 大洲市誌 上巻』より)

①山本大参事頌徳碑

①山本大参事頌徳碑

大洲市大洲1005(大洲南中学校北西隅)