データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

内子町

上岡巳平(1910~1937)

 明治43年(1910)7月10日、父萬八、母キクエの二男として旧五十崎村(現内子町五十崎)下町の呉服商に生まれた。旧制大洲中学校(現大洲高等学校)在学のとき、描いた秋の絵を美術担当の大野政太郎教員に「これは凄い」とほめられたことが絵を始める動機となり、早稲田大学高等師範部入学後も絵を描き続けた。昭和5年(1930)独学では思うようにいかないと春陽会研究所に通い、木村荘八らの指導を受けた。
 昭和7年(1932)研究所コンクールで「裸婦立像」が一位となる。翌年早大高師部を卒業し帰郷した。この年、春陽会初入選を果たした。昭和9年(1934)松山歩兵22連隊に入隊し、幹部候補生となり、4月「少年像」が春陽会に入選した。昭和10年(1935)除隊し予備役歩兵少尉に任官し、五十崎青年学校専任教員となった。その後地方画壇で多くの仲間と制作を通して交情を深め、題材は身辺に求め、郷土の自然や身近な人々を形式にとらわれず生き生きと描いて、常に大作を志した。
 昭和12年(1937)8月、日支事変に召集を受け、9月に中国上海近傍に上陸し、一週間目の27日、羅店沈家橋において戦死した。享年28歳の惜しまれる死であり、十数葉の戦場スケッチが残された。
 遺作が300点にものぼり、洲之内徹らの手によりその秋「この展覧会を上岡巳平の憶い出に捧ぐ」として遺作展が開催された。
 昭和13年(1938)友人高木勇次の奔走により「三等車」「子守り」の二点を遺作として春陽展に出展、二点とも入選。当時の東京日々新聞に「遺作に薫る誉れ、春陽会に二点入選」と報じられている。
 昭和63年(1988)実弟の大衛氏より遺作品五点が町に寄贈された。(『改訂五十崎町誌』より)

①上岡巳平生家(昭和9年築)

①上岡巳平生家(昭和9年築)

喜多郡内子町五十崎(五十崎郵便局斜め前)

②上岡巳平アトリエⅠ(生家二階)

②上岡巳平アトリエⅠ(生家二階)

喜多郡内子町五十崎(五十崎郵便局斜め前)

③上岡巳平アトリエⅡ(生家二階)

③上岡巳平アトリエⅡ(生家二階)

喜多郡内子町五十崎(五十崎郵便局斜め前)

④上岡巳平アトリエⅢ(生家二階)

④上岡巳平アトリエⅢ(生家二階)

喜多郡内子町五十崎(五十崎郵便局斜め前)

⑤上岡巳平アトリエⅣ(生家二階)

⑤上岡巳平アトリエⅣ(生家二階)

喜多郡内子町五十崎(五十崎郵便局斜め前)

⑥上岡巳平が使用した鞄(生家二階)

⑥上岡巳平が使用した鞄(生家二階)

喜多郡内子町五十崎(五十崎郵便局斜め前)