データベース『えひめの記憶』
伊予市
岡 文四郎(1766~1831)
万安港(現伊予港)築港、喜多郡青島鑿井功労者。喜多郡新谷(現大洲市)生まれ。本姓二宮氏、寛政2年郡中岡氏の養嗣子となり大洲藩郡中奉行所属吏となる。 47歳郡中地域に港の必要性を痛感、たまたま病母の改癒祈願をこめて築港を決意、宮内才右衛門ら地域の有志の協力により町民を説得、藩庁の許可を得て文化9年自ら波戸用係となり、天保元年まで18年間、現場仮小屋に住み、棺桶を傍らに置き死を決して督励した。
天保2年11月23日、築港の完成をみずに没した。享年65歳。生前、青島の飲料水不足を聞き堀井戸を造り水を確保し、また、郡中に綿役所を設ける等福祉活動にも力を入れ、地域産業の発展にも貢献するところ大であった。墓碑は伊予市湊町増福寺にあり、五色浜に頌徳碑がある。(『愛媛県史 人物』より)
【追記①:萬安港旧灯台について】
(伊予市指定文化財・有形文化財〔建造物〕)
江戸時代に築かれた萬安港は、砂や小石で港が浅くなり、商船や漁船の出入りが困難となった。そのため、明治2年(1869)長さ約70mの石垣を築き、その先端にこれまで木造であった灯台を石造に改めた。
その後、さらに港を改修した大正元年(1912)ここに移築した。灯台築造の碑文は、移築の時に別々に石組みされて残っているが明白ではない。
灯火は、はじめ、菜種油であったが、のちに石油、電灯に変わり、昭和33年(1958)新灯台ができてからは点灯していない。
平成15年11月19日 指定
伊予市教育委員会
【追記②:さざえ掘について】
1812年(文化9)、大洲藩がこの地に萬安港を築いたとき、らせん階段のように石を積み、砂をもりあげて作った井戸である。井戸の水は、港の海水の動きとともに上下するので、これによって潮の満ち干を知ることができた。形がさざえに似ているので、こう名づけられた。かつては、この井戸に鯛を飼っていたことがある。
①萬安港旧灯台 伊予市米湊(五色浜プール前) |
②萬安港創業の碑 伊予市灘町(五色濱神社西) |
③さざえ堀 伊予市灘町311-1(彩濱館裏) |
④郡中内港の風景Ⅰ 伊予市灘町311-1(彩濱館前) |
⑤郡中内港の風景Ⅱ 伊予市灘町311-1(彩濱館前) |