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松前町

鷲野南村(1805~1877)

 庄屋、漢学者・教育者。伊予郡南黒田村庄屋梅三郎の長男として文化2年7月25日生まれた。幼名は富貴太、長じて蕗太郎、諱は翰、字は子由または子羽。南邨、松隠とも号し、また鷲惟清とも号した。幼時より博覧強記「神童」と称された。親友陶惟貞と共に沖荘助、宮内桂山に素読を受け、ついで大阪に出て篠崎小竹の新梅花社に入塾した。頼山陽一家らの研学と親交を結び、学業大いにあがって塾頭を務めるまでになったが、父病弱のため帰郷、庄屋職をついた。職務に精励する傍ら私塾橙黄園をおこして子弟を教授し、自室を雪月楼と名づけ、京阪より直接書籍を購入して萬巻の書を読み、詩作に励んだ。南村の処世観は朱子学の基本「修己」にあった。済の国子鑑祭酒(大学総長)江亀の箴言を座右に置いてその実践に精励した。庄屋職として誠実無比、謙譲真摯少しも怠ることはなかった。また、生涯を通じて学間に励み、旧師小竹を敬慕して道後温泉への来遊をしきりに勧めている。
 下三谷庄屋宮内幾右衛門と共に小松に近藤篤山を訪ね、教えを受けている。
 南村がのこした膨大な庄屋文言、蔵書をみる時、いかに誠実に生涯をおくったかがわかる。遺墨も多数あり、門弟らが編さんした『南村翁遺稿(1)』がある。続刊の予定はあったのであろうが編さんされていない。自筆日記に『鷲氏日乗』がある。弘化3年(1846)元旦から同年11月9日までの私的な日記である。
 門弟は相原賢ら俊英多数、昌農内庄屋窪田節二郎(後の県会議員,松山市会議長)らは10年にわたって教えを乞うている。明治10年8月15日没、享年72歳。郡中五色浜に頌徳碑がある。(『愛媛県史 人物』より)

①南村鷲野先生碑Ⅰ

①南村鷲野先生碑Ⅰ

伊予市灘町(五色濱神社付近)

②南村鷲野先生碑Ⅱ

②南村鷲野先生碑Ⅱ

伊予市灘町(五色濱神社付近)