データベース『えひめの記憶』
松前町
窪田節二郎(1847~1933)
県会議員・副議長、岡田村長、松山市会議長。弘化4年11月24日、伊予郡昌農内村(現松前町)で庄屋窪田守一の長男に生まれた。5歳で庄屋を継ぎ、明治初年には戸長・副区長を務めた。明治12年2月県会開設と共に議員に選ばれ、22年1月まで在職して、13年11月~15年9月と17年3月~9月副議長を務めた。 23年第五十二銀行・伊予農工銀行の取締役になり、31年岡田村長、43年昌農内耕地整理組合長を務めて村政の発展に貢献した。沈着温和な人柄で郡内に名望があり、義農神社建設など義農作兵衛の顕彰にも努めた。やがて住居を松山市に移し、44年市会議員になり45年10月議長に選ばれ大正3年1月まで在任した。3~5年愛媛県農工銀行の頭取に就任したが、7年一切の公職を退き出家した。昭和8年12月23日86歳で没した。義農公園内と伊予鉄道岡田駅近くの隅田川畔に頌徳碑がある。(『愛媛県史 人物』から)
【追記:義農公園境内にある頌徳碑〔『松前町誌』より〕】
〔碑文〕
雪城窪田節二郎翁伊豫郡岡田村
之人毎憂不伝於義農事跡湮滅
而後世明治十四年自率先投巨資
博謀有志之士努其義気之発揚焉
大正二年当本会設立翁又醵出於
基金壹百圓以助其學蓋其作興世
道人心之効亦非鮮少也矣
(訳文)
雪城窪田節二郎翁は、伊予郡岡田村の人なり。毎(つね)に義農の事跡の湮滅(いんめつ)して後世に伝わざるを憂えり。明治14年自ら率先して巨資を投じ、博く志有るの士と謀り、其の義気の発揚に努む。大正2年本会設立にあたり、翁又基金壱百円を醵出して以て其の挙を助く、蓋しその世道人心を作興するの効もまた鮮少ならざるなり。