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久万高原町

山之内仰西(生年不詳〜1698)

 江戸中期の商人。本名山之内彦左衛門光実、号は仰西という。国道33号を松山から高知に向かうと久万町の少し手前に「仰西渠」という用水路がある。ここは久万川の上流、天丸川に沿った安山岩の岩裾を掘削したもので長さ57メートル(うち12メートルはトンネル)幅2.2メートル、深さ1.5メートルで、上手は川水を取り入れ下手は田の用水路に結び入野村久万町村25町歩の水川を養っている。山田屋彦左衛門(山之内姓)が私財を投じて開削したもので、名称は彼の晩年念仏行者として仰西と号したことによる。久万町村は用水源に乏しく西明神村の天丸川に堰し何十もの樋をつないで水を引いていたが支柱の足場が悪いため、洪水のたびに樋が押し流され、そのたび人夫を動員してかけ替えねばならなかった。彦左衛門は恒久策を講じて農民たちを救いたいと考え、途中にある岩盤を掘りぬく工事を計画した。多くの人夫を雇い、石鑿の屑一升と米一升の引換えで賃銭を与え、自らも工事の先頭に立った。岩肌を軟らげるため乾した竿の茎を焼いたという話も伝わっている。工事はすべて彦左衛門の私財によったため成就するまでの3年間に豊かだった家も倒産したという。現在久万町にある法然寺も彼の建立といわれ、公共事業としては外に三坂峠の鍋割の険また落合の切石の難所の改修を行っている。文化3年(1806)の五代山田彦左衛門覚書に「開鑿年代は相分り難く候得共凡百三十余か年に相成り」と記してあるので延宝(1673~1681)の頃かと思われる。昭和25年に県指定史跡となり、碑文のある丘の足もとに用水が流れている。元禄11年1月26日、死去。(『愛媛県史 人物』より)

【追記:仰西渠之碑横に設置された説明板】
   
   仰西渠(コウサイキョ)
 仰西渠は、江戸時代の明暦(1655〜1658)から寛文年間(1661〜1673)のころ久万川の上流、天丸川に沿って安山岩の岩盤を掘削して造られた用水路である。その長さ57メートル、幅2メートル20センチメートル、深さ1メートル50センチメートルで、川水を取り入れて下流の水田25ヘクタールを潤している。旧久万町村の商家山田屋の山之内彦左衛門が私財を投じて掘ったもので、彦左衛門の号「仰西」にちなんで、水路を仰西渠と名づけた。当時の久万町村・入野村は用水域に乏しく、西明神村の天丸川に堰をもうけ樋をつないで取水していたが、破損しやすく経費と労力を空費していた。そこで彦左衛門は恒久策として水路の斬り開きを計画し、石のみと槌だけで三ヶ年かけて完成した。多くの人を雇い、岩を砕いた岩くず一升に米一升を交換して励まし、工事のために私財をほとんど無くしたという。現地の丘に明治10(1877)年「仰西渠之碑」が建立され徳をたたえている。

昭和25年(1950)10月24日 愛媛県指定史跡
            久万高原町教育委員会

【追記2】
墓所:法然寺(墓碑は、桧垣伸の揮毫による)

①仰西渠之碑

①仰西渠之碑

上浮穴郡久万高原町西明神278-2付近(国道33号沿い)

②仰西渠Ⅰ

②仰西渠Ⅰ

上浮穴郡久万高原町西明神278-2付近(仰西渠之碑より下る)

③仰西渠Ⅱ

③仰西渠Ⅱ

上浮穴郡久万高原町西明神278-2付近(仰西渠之碑より下る)

④山之内仰西翁頌徳碑

④山之内仰西翁頌徳碑

上浮穴郡久万高原町久万(久万中学校前)

⑤法然寺

⑤法然寺

上浮穴郡久万高原町久万620