データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

東温市

近藤金四郎(1883~1955)

 明治16年~昭和30年(1883~1955)自治功労者。明治16年3月1日温泉郡三内村大字河之内(現東温市)近藤辨次郎の長男として生まれ、のち同村近藤新七の養子となり、松山中学校に学んだ。在学中,、剣道の選手として京都の武徳殿で試合に出たこともあり、剣道4段の免許を持っていた。のち日露戦争に従軍、帰郷後三内村助役に就任、半年後村長となり、農事の改良、生活改善、治山治水、民生の安定のため努力を惜しまなかった。二宮尊徳を尊敬し、報徳の教を説き、日常家庭人として紺木綿の仕事着で農事にいそしみ、農事の改良に励んだ。各種会合に村民の時間励行、また早起を奨励毎朝六時になると大太鼓を打ちならし早起きと時間を知らせた。その太鼓は現在川内中学校郷土資料室に保存されている。また、村長時代用いた杖に「それは天に任せおけ」と彫り込んでいた。また、「敬天愛人」「手柄はあなたへ苦労は私に」「飯と汁、木綿着物ぞ身を助く、その余は我を責むるものなり」等を座右の銘とした。敬神崇祖、質素倹約を身上とした。大正8年三内村信用組合、昭和16年三内村森林組合を設立し、その組合長となり、700ヘクタールに及ぶ村有林の品評会をし、分収歩合に賞格をつけるなどして、林業の育成に努めた。昭和2年9月より愛媛県会議員に当選5回、昭和21年12月まで19年3か月の長期にわたり県政のため活躍した。その間、県会副議長、議長を務め、県政の長老と尊敬された。氏はまた「道金さん」のニックネームを持つように、林道、村道、耕作道、県道など道路の改修に尽力した。特に、生涯の大事業として取り組んだのが、大正11年に結成された「県道黒森線速成実行会」会長の仕事であった。上浮穴郡の物資搬出、村内の林業発達等の事由を力説し、村民の協力を得てこの大事業に取り掛った。第1期工事、第2期工事が終った頃から資金繰りに窮し、自家の山林をほとんど売却してその資金に充当した。苦節10年遂に昭和30年7月31日県道黒森線全線開通の日、近藤金四郎は生涯を閉じた。 72歳であった。その後、面河ダム建設、道前道後水利開発事業推進、交通上等に、この県道のもたらした利益は計り知れないものがある。また、昭和13年、温泉郡松山市の畜産組合長となり、肉牛の飼育に力を入れ、日中戦争の拡大にともなって、牛肉の需要が増大し、肥育牛の産地として伊予牛の名を神戸市場に高からしめた。
 昭和30年、自治功労者として、勲五等瑞宝章を賜り、また、村民達は、河之内金毘羅寺の老杉高くそびえ立つ下に胸像を建て、政界の長老砂田垂政の「畏友近藤金四郎君」の筆蹟を録してその功績を後世に伝えている。(『愛媛県史 人物』より〔一部修正〕)

※ 修正箇所:温泉郡三内村大字河之内(現川内町)
        →温泉郡三内村大字河之内(東温市)

①近藤金四郎翁像

①近藤金四郎翁像

東温市河之内4874(金毘羅寺入り口)