データベース『えひめの記憶』
松山市
種田山頭火(1882~1940)
俳人。山口県佐波郡西佐波令村(現、防府市)出身。本名正一。山口尋常中学校(現、山口県立山口高等学校)時代から文学に傾倒、31歳で荻原泉水に師事し、自由律俳句誌『層雲』に出句した。大正14(1925)年、熊本の報恩寺で出家して見取観音堂の堂守となったが、1年余でこれを捨て行脚に出る。九州・中国などを中心に全国各地を行脚した後、一時山口県吉敷郡小郡町の其中庵(ごちゅうあん)に居住したこともあるが、晩年は松山市の御幸寺門外の一草庵に入った。一草庵では句友たちが「柿の会」を結成して句会を開き、昭和15(1940)年4月に、山頭火の俳句人生の集大成ともいえる句集『草木塔』を発刊した。山頭火は、一草庵で「ころり大往生」を遂げて急死するまでに、約16,500余の優れた作品を残し、漂泊の俳人として知られた。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)
【一草庵の句碑】
句碑① 濁れる水のなかれつヽ澄む
(昭和15年9月8日、庵の前を流れる大川を詠んだ句)
句碑② 春風の鉢の子一つ
(昭和8年3月19日、山口県小郡町での句)
句碑③ 鐵鉢の中へも霰
(昭和7年1月8日、福岡県遠賀郡芦屋町で托鉢に出た時の句)
句碑④ 一洵君に
おちついて死ねさうな草枯るる
(昭和14年12月25日、この草庵を見つけてくれた高橋一洵君の労苦に感謝し、進呈した句)
【椿神社社務所前にある句】
句碑へしたしく萩の咲きそめている
①一草庵の入口を示す石碑 松山市御幸1丁目 |
②一草庵Ⅰ(山頭火翁終焉之地と刻まれている) 松山市御幸1丁目435-1 |
③一草庵Ⅱ 松山市御幸1丁目435-1 |
④一草庵Ⅲ(句碑①) 松山市御幸1丁目435-1 |
⑤一草庵Ⅳ(句碑②) 松山市御幸1丁目435-1 |
⑥一草庵Ⅴ(句碑③) 松山市御幸1丁目435-1 |
⑦一草庵Ⅵ(句碑④) 松山市御幸1丁目435-1 |
⑧椿神社社務所前にある句碑 松山市居相2丁目2-1 |