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松山市

正岡子規(1867~1902)

 俳人。歌人。随筆家。松山城下(現、松山市)出身。本名常規、通称升。東京大学予備門(第一高等中学校と改称)に入学後、帰省の際に和歌や俳句を学び関心を深めていった。帝国大学文科大学(現、東京大学)に入学後さらに文学熱を高め、俳句に開眼、写実的態度を確立した。明治25(1892)年の発病後も不屈の気迫で俳句や随筆などの創作や短歌の研究会を続けるとともに継承者の育成にも努め、近代文学革新の実をあげ、与謝蕪村や『万葉集』など埋もれていた作家や作品を発掘した。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

【明治28年の松山吟行について】
 子規は新聞「日本」の記者として日清戦争に従軍したが船中で発病し、神戸・須磨で療養の後、回復して8月25日に郷里松山に帰省した。夏目漱石の下宿先である愚陀仏庵に同居滞在し、仲間とともに俳句について熱く語り合い、指導を行ったのはこの時のことである。
 子規は10月19日に松山を発って東京に帰ったが、帰郷の日が近づくとともに、子規は仲間を誘い、または単独で松山近郊に前後5回の散歩吟行を試みた。その時期・行程は以下のとおりである。

 ① 9月20日 石手・道後(柳原極堂とともに)
 ② 9月21日 御幸寺山麓(中村愛松・大島梅屋とともに)
 ③ 10月2日 中の川・石手川堤(子規単独で)
 ④ 10月6日 道後湯之町(夏目漱石とともに)
 ⑤ 10月7日 雄郡・今出・余戸(子規単独で村上霽月を訪ねて)

 今回は、10月7日に行った雄郡・今出・余戸方面への吟行について紹介する

【10月7日 雄郡・今出・余戸】
 早朝、愚陀仏庵を出発した子規は、同行を願うべく、友人である一宿(正宗寺住職)を訪ねた

 【句碑Ⅰ(正宗寺)】     朝寒や たのもとひびく 内玄関

 別用があって一宿は同行できず、結局子規一人で霽月邸へ向かう

 【句碑Ⅱ(雄郡神社)】    御所柿に 小栗祭の 用意哉
                    ※この時、子規は全7句を詠んでいる
 【句碑Ⅲ(雄郡神社)】    うぶすなに 幟立てたり 稲の花
                    ※この句は別の日に詠んだもの

 雄郡神社を離れ、土居田・余戸方面に向かう

 【句碑Ⅳ(鬼子母神)】    鳩麦や 昔通ひし 叔父が家
 【句碑Ⅴ(三島大明神社】   行く秋や 手を引きあひし 松二木

 余戸を過ぎ、今出の村上霽月邸に向かう。その間に次の句を詠む

  渋柿の 勝になりて 肌寒し
  村一つ 渋柿勝に 見ゆるかな
  山尽きて 稲の葉末の 白帆かな

 村上霽月邸にて、霽月と語り合った後、余戸の森円月邸を訪れる
 愚陀仏庵への帰途、次の句を詠む

  行く秋や 我に神なし仏なし

 


①愚陀仏庵跡

①愚陀仏庵跡

松山市二番町(全日空ホテルと松山三越の間の道を南へ)

②正岡子規の句碑Ⅰ(正宗寺)

②正岡子規の句碑Ⅰ(正宗寺)

松山市末広町16-3

③子規堂

③子規堂

松山市末広町16-3

④雄郡神社

④雄郡神社

松山市小栗3丁目3-19

⑤正岡子規の句碑Ⅱ(雄郡神社)

⑤正岡子規の句碑Ⅱ(雄郡神社)

松山市小栗3丁目3-19

⑥正岡子規の句碑Ⅲ(雄郡神社)

⑥正岡子規の句碑Ⅲ(雄郡神社)

松山市小栗3丁目3-19(この句は別の日に詠んだもの)

⑦正岡子規の句碑Ⅳ(鬼子母神)

⑦正岡子規の句碑Ⅳ(鬼子母神)

松山市土居田町241(善復寺横)

⑧正岡子規の句碑Ⅴ(三島大明神社)

⑧正岡子規の句碑Ⅴ(三島大明神社)

松山市余戸東5丁目15(手引き松を見ることができる)

⑨村上霽月邸

⑨村上霽月邸

松山市西垣生町(垣生小学校付近)