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松山市

秋山好古(1859~1930)

 軍人(陸軍大将)。松山城下(現、松山市)出身。幼名は信三郎。海軍中将・秋山真之は実弟である。明治12(1879)年、陸軍士官学校卒業後、旧松山藩主・久松定謨(ひさまつさだこと)に従ってフランスに留学、騎兵科の人材として嘱望された。日清戦争では騎兵第一大隊長として出征、戦後は陸軍乗馬学校長となり、騎兵科根本の編成、戦闘原則、訓練などを研究した。北清事変では、第五師団兵站監(へいたんかん)として出征、後に清国駐屯軍参謀長、駐屯軍司令官となった。
 明治36(1903)年、騎兵第一旅団長となり、この職で日露戦争へ出征して第二軍に属した。日露戦争では、世界最強といわれたコサック騎兵を相手に奮戦し、奉天会戦などで勝利に導き、さらに味方の3倍の騎兵団を破るなどの騎兵運用をした。これは、先に著した『本邦騎兵用法論』を実戦に臨んで完成させたものとされ、「わが国騎兵の父」と仰がれる。陸軍大将退役後、北予中学校(現、県立松山北高等学校)校長として後進の育成に尽くした。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

 安政6年~昭和5年(1859~1930)軍人。安政6年1月7日松山藩士秋山久敬の三男として、松山城下の歩行町(現松山市)に生まれる。はじめ大阪小学師範を出て教職についたが、陸軍を志して明治12年陸軍士官学校を卒業、騎兵少尉に任ぜられた。同16年には陸軍大学校入校、卒業後同20年には旧藩主久松定謨の補導役としてフランスに留学した。日清戦争では第1師団騎兵第1大隊長として、旅順攻略から蓋平・田庄台などに転戦した。戦後は陸軍乗馬学校長・騎兵実施学校長・第5師団兵姑監・清国駐屯軍参謀長・清国駐屯守備隊司令官を歴任し、同36年には騎兵第1旅団長になった。日露戦争には同旅団を率いて出征、秋山支隊として曲家店・得利寺・熊岳城と世界最強のコサック騎兵を敵にして蕭戦した。遼陽戦においては第2軍の左翼の援護に任じたが、さらに進んで露軍の右側背に圧力をかけ、全局の戦闘に寄与した。沙河対陣中には永沼・長谷川両挺進隊を長駆公主嶺・長春方面の敵中に挺進させ、橋梁爆破や兵姑襲撃などを敢行し、露軍の背後に多大の脅威を与えた。次いで黒溝台戦においては、優勢な露軍の猛襲に対し、騎兵による拠点防御戦術を操り、沈且堡などの要地を固守して遂にはこれを撃退し、全軍の作戦に大きく貢献した。さらに奉天会戦においては騎兵第2旅団も併せ指揮し、奉天西方に進出して、大包囲作戦のための第3軍の旋回運動の翼側を掩護するとともに、露軍に対しその企図を秘匿して、本会戦大勝の素因を成し遂げた。その後も露軍を急追し,同38年3月末には支隊主力を率いて昌図に入城、さらにその北方の鴜鷺樹も占領した。この地は本戦役中わが軍が行動した最北端であったが、ここでもわれに三倍するミシチェンコ騎兵団と遭遇、激戦の末同地を固守し遂にはこれを撃退した。 これは自身の「本邦騎兵用法論」を実戦に臨んで完成させたもので、捜索・警戒・戦闘・挺進などの戦術的用兵からさらに発展し、機動集団としての騎兵運用にまで強化したものであった。これによって我が国騎兵の父と仰がれるに至った。
 戦争後は騎兵監・第13師団長・近衛師団長・朝鮮駐剳軍司令官と要職を重ね、大正5年陸軍大将に昇進し、軍事参議官・教育総監を歴任した。同12年現役を退いたが、郷党に請われて同13年4月から昭和5年7月まで北予中学校の校長に就任し、余生を後進の育英に尽くした。このとき病を得て、東京の陸軍軍医学校に入院したが、同年11月4日病没、享年71歳。墓所は道後の松山市鷺谷共同墓地。 (『愛媛県史』より)

【追記】
 秋山好古墓所:道後鴬谷墓地内

【松山市高浜荒神山山上の碑】
 摂政宮殿下特別大演習御野立場

①松山市高浜荒神山山上の碑

①松山市高浜荒神山山上の碑

松山市高浜町2丁目乙74番地29

②梅津寺見晴山に建つ銅像

②梅津寺見晴山に建つ銅像

松山市梅津寺町梅津寺駅南(高浜公民館近く)

③秋山好古大将像

③秋山好古大将像

松山市歩行町2-3-6(秋山兄弟生誕地)

④秋山両将遺邸之碑

④秋山両将遺邸之碑

松山市歩行町2-3-6(秋山兄弟生誕地)

⑤道後公園にある御大典奉祝記念の碑(揮毫:秋山好古)

⑤道後公園にある御大典奉祝記念の碑(揮毫:秋山好古)

松山市道後公園