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松山市

岡田温(1870~1949)

 農村指導者。農政活動家。明治3(1870)年、久米郡南土居村(現、松山市土居町)の農家に生まれた。明治28(1895)年3月から斉院と石井の小学校の教員となったが1年足らずで辞職し、妻子を残して上京、帝国大学農科大学乙科(現、東京大学)に入学、3年間にわたり勉学に励んだ。
 明治32(1899)年、大学を卒業し、全国農事会に書記として就職したが、実家の経済的危機のため辞任して故郷に帰り、農業専業に戻った。明治34(1901)年4月、温泉郡農会技師(最初の郡技師)に就任し、郡内の諸村を行脚して農事改良、農民の教育に尽力し、明治38(1905)年5月から愛媛県農会技師に就任し、後に幹事になって活動した。県農会技師時代には愛媛県下を回り、農事改良、農民教育に尽力するとともに、当時、東予地方で大問題になった四阪島製錬所の煙害問題に取り組み、煙害の原因は住友の四阪島製錬所にあると論証して解決に貢献した。大正10(1921)年4月、帝国農会幹事に就任して全国を奔走し、主として生産費調査や農業経営面の指導をした。
 大正13(1924)年、第2次護憲運動の最中、温泉郡・伊予郡の農村青年達の推薦・運動により、衆議院議員選挙に無所属・中立で立候補し、当選。議会で農業の重要性を訴え続け、時の蔵相・浜口雄幸をして、「農村問題の権威」として言わしめた。
 昭和11(1936)年、帝国農会を退職して郷里に戻り、昭和14(1939)年11月から郷里の石井村(現、松山市石井)の村長を勤めた。昭和24(1949)年7月26日、80歳で逝去。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

①岡田温先生頌徳碑

①岡田温先生頌徳碑

松山市居相2丁目2-1(椿神社境内)