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松山市

鍵谷カナ(1782~1864)

 伊予絣の創始者。伊予郡垣生村今出(いまず)(現、松山市)の農家に生まれる。同村の農家・小野山藤八に嫁ぎ、享和年間(1801~1804)に今出絣を考案したと伝えられる。
 今出絣発明の起源について、鍵谷カナ頌功堂碑(松山市西垣生町・長楽寺)の碑文には、農家の藁屋根の葺き替えの折に見かけた押し竹を縛った跡のまだら模様に心ひかれ、これを織物に応用して織ったものが始まりと記されており、また飛白織工労姫命(かすりおりたくみいさおひめのみこと)碑(松山市西垣生町・三島神社)と伊予絣頌功碑の碑文には、カナが金毘羅参拝の旅行中、寛政末(1800)年頃に創始された久留米絣を見て、自ら織りだしたとする説が記されている。
 今出絣は後に伊予絣と呼ばれ、日本三大絣の一つとなり、広く知られ愛用されている。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

【追記】
 鍵谷カナ墓所:長楽寺(松山市西垣生町)

【村上霽月の句碑】
 朝鵙ニ 夕鵙ニ かすり織りすすむ

【鍵谷カナ顕彰碑 碑文(三島神社境内、明治20年建立)】

   飛白織工労姫命(かすりおりたくみひめのみこと)

 命(みこと)は、伊豫の州(くに)伊豫郡西垣生村今出の里人にして、鍵谷氏なり。生父は、通称清吉 母は、松本氏なり。天明2年誕る。長じて同村小野山藤八に嫁ぐ。
 元治紀元5月28日年を得ること83にして病みて歿す。命の世に在るや、享和中讃岐琴平の山祠(さんし)に詣ず。同舟の客、筑後久留米の人、飛白(かすり)の綿布を箸(き)る。命 之を見て心密かに之を喜ぶ。乃ち家に到り、自ら青草の汁を取り、綿糸を染めて飛白製りを試み、略(ほぼ)織文の法を得たり。是に於て刻苦考窮し遂に以って其の精を極むるを得たり。時自り(これより)その後、遠近の里人皆傳へ習ふ。焉(ここ)に其の業大いに弘まる。今時(きんじ)飛白の綿布、今出の里を以て称首と為すは、蓋し此に権與するなり。
 明治19年、四国共進会を阿波徳島に設く。乃ち飛白の綿布其の物の数を陳(もよお)し、因って大に賞譽を被むる。是に於て官、金若干を其の子孫に賜ひ、以て先人の原功を追賞す、是を以て村人等相謀り、新に其の霊を祭り、称へて飛白織工労姫命と曰ふ。時に明治20年7月。石を立てて之を表す。
 余為に其の概略を誌すと云ふ。 山下清風(武知五友)撰並に書
 (三島神社が作成した碑文プリントより)



①鍵谷カナの胸像(伊藤五百亀 作)

①鍵谷カナの胸像(伊藤五百亀 作)

松山市久万ノ台1200(伊予かすり会館前)

②鍵谷カナ頌功堂(木子七郎 設計)

②鍵谷カナ頌功堂(木子七郎 設計)

松山市西垣生町(長楽寺付近)

③村上霽月の句碑

③村上霽月の句碑

松山市西垣生町(頌功堂敷地内)

④鍵谷カナ顕彰碑

④鍵谷カナ顕彰碑

松山市西垣生町(三島神社境内)

⑤伊予絣創始頌功碑

⑤伊予絣創始頌功碑

松山市道後公園