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松山市

大原観山(1818~1875)

 松山藩士。儒学者。教育者。松山藩士・加藤重孝の次男、本名有恒。重孝の長女の嫁ぎ先の大原家を嗣ぐ。観山と妻・重(歌原氏)の間に生まれた長女・八重が正岡常尚に嫁ぎ、常規(子規)と妹の律が生まれる。観山は子規の外祖父である。
 観山は藩校・明教館で日下伯巖などに学び、ついで江戸の昌平黌(しょうへいこう)に学び、帰藩し明教館教授となり幕末期の松山藩の子弟教育に尽くした。高邁な識見をもち、藩主・定昭に仕えた。幕末には、松山藩の恭順について功があり、また、久松家の血統の絶えるのを嘆き、後嗣について大いに尽くすところがあった。明治3(1870)年1月、職を退き、三番町に私塾を開いた。
 観山は、孫の正岡子規に7歳の時から三並良(みなみはじめ:母方の祖母の甥)とともに、早朝5時頃から観山の私塾で講義をし、大変期待した。
 また、観山は、大変西洋嫌いで自らも一生断髪せずに髷(まげ)で通したが、子規と良に対しても、小学校に入ってからも髪を結わせていた。しかし同級生から「まげ升さん」と呼ばれたりしていたので、良の父が観山にお願いし、観山は不本意ながら二人の断髪を許した。しかし、子規は観山を非常に尊敬し、「筆まかせ」の中で「後来、学者となりて、翁の右に出でんと思へり」と記している。
 詩文集に観山の三男である加藤拓川編集の『蕉鹿窩遺稿(しょうかろくいこう)』がある。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

①高縄寺山門前の詩碑

①高縄寺山門前の詩碑

松山市立岩米之野459(高縄山山頂近く)

②現在の住居跡の様子

②現在の住居跡の様子

松山市三番町3-4-2

③住居跡を示す案内板

③住居跡を示す案内板

松山市三番町3-4-2

④お墓のある来迎寺

④お墓のある来迎寺

松山市御幸1-525(松山大学御幸キャンパス横)