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今治市

砂原鶴松(1909~1960)

 明治42年~昭和35年(1909~1960)畜産功労者。明治42年8月19日今治市富田東村で生まれた。非常に進歩的で戦後いちはやく共産党村長ともなった。当時越智郡今治市地方では均質牛乳を販売する市乳対策として数ヶ所の乳牛牧場があったに過ぎなかった。戦後の国内農業は将来一大転換期の到来することを予測し農業構造の改善の必要性を強調し酪農の導入を提唱する。
 昭和22年に地域の有志を募り北海道から46頭の乳牛を導入すると共に近隣の下朝倉や立花地区へも勧誘し導入が始まり、同年に河南酪農組合(任意)を設立して自ら組合長となり牛乳の販売事業を開始した。23年には乃万地区にも導入があり25年には富田を中心に66戸100頭に達した。翌26年には組合員81名,乳牛130頭に増加したので法人化して河南酪農業協同組合に改組し本格的な酪農事業へ取り組むこととなった。
 次いで30年には国鉄今治駅前に工場並びに事務所を新築移転するとともに、名糖乳製品㈱会社と事業提携して需給の調整と販売の安定化に備えると共に、31年には砥部開拓酪農農協と合併すると同時に練乳施設を設置した。事業の順調な進展に伴い牛乳販売拠点として新居浜市並びに松山市に営業所を開設した。 33年伊予酪農組合と合併し、34年には工場の増設とアイスクリームの製造をも開始した。またかねて話し合いを進めていた新居浜市酪農組合や三島・川之江・土居の3任意組合との話し合いもついて、35年吸収合併が成立し、東中予地区の一元化がほとんど達成されたので、名称も愛媛酪農業協同組合と改称再スタートすることとなる。
 さらに松山、あるいは他県へと進展し、愛媛県四国の酪農団体組織の一元化へと大きく夢を抱いていたが勇途空しく51歳の若さでこの年の暮昭和35年12月12日世を去ったのは誠に惜しみても余りあるところである。顧みれば当時経営上問題の多かった水田酪農を計画し成功をみたのは、ひとえに誠実で常に理想を失わず希望と勇気をもって一歩一歩努力を積み重ねた結果と、組合員の絶対的な信頼により新時代の産業が育成されたものである。なお表彰については当人は固辞し、代わって昭和30年に愛媛県知事より団体として愛媛酪農業協同組合が畜産功労者表彰を受賞した。(『愛媛県史 人物』より)

①砂原鶴松氏顕彰碑

①砂原鶴松氏顕彰碑

今治市上徳(伊予富田駅付近の県道156号沿い)