データベース『えひめの記憶』
西条市
越智喜三左衛門
「劈厳透水」
「伊予の青の洞門」としてその業績を讃えられている劈厳透水は安永9年(1780年)時の来見村の庄屋、越智喜三左衛門によって起工され、私財を投じ、自身ものみを振るい岩を削り、9ヶ年の歳月をかけて、長さ12間(21.6m)の井堰と20間(36m)の隧道及び98間(172.8m)の岩石掘割水路を設け、寛政元年(1789年)完成したと伝えられている。
その後、明治19年(1886年)と大正2年(1913年)に喜三左衛門の後裔で当時の中川村長越智茂登太翁が大改修を実施し、美田30町歩を潤す水路を完成させた。
記念碑は、大正9年(1920年)5月に願成寺(大字北田野)の鳳快洲和尚が、来見村耕作組合員に請われて文を撰し書写した。
喜三左衛門が農民の灌漑用水の不足による窮状を見かねて起工し、苦労の末に完成した堰堤が、風雨によって決壊し、その修復工事の労苦と農民の喜びを託し、さらに茂登太翁の農民を思い、村を愛する熱情によって二度にわたる大改修により、大いに水利の便を得たことが述べられている。(『記念碑側に建てられた解説板』より)