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西条市

青野岩平(1872~1959)

 庄内村長・県会議員、県農会長、産業組合設立の功労者。明治5年12月12日、桑村郡旦之上村(旧東予市)で旧家青野春治の長男に生まれた。 25年伊予尋常中学校を卒業し、上京遊学を志したが、父の急病で果たせなかった。 34年1月庄内村長に選ばれ、村農会長を兼ねて44年10月まで村長の職にあった。 36年9月~44年9月の2期県会議員に在職、政友会の論客として農政問題に論陣を張った。村長としては、治山治水の根本対策と村財政の財源育成のため大明神川上流の村有林植林に着手、また農村の不況打開のため国策に沿って北海道集団移住を推進した。大明神川水利紛争の解決や四阪島煙害賠償問題にあたり、堅牢な庄内小学校校舎を建築するなど、名村長と称えられた。 41年には庄内村信用購買組合を設立、村長を辞して産業組合活動に一生を捧げる決意をし、45年庄内村信用購買販売生産組合長に就任、昭和19年辞任するまで30有余年を組合の発展と農民の福利増進に尽くした。その間、県内産業組合組織の大同団結を推進し、大正期から昭和の初めにかけて、産業組合中央会周桑郡部会長、県信用組合連合会長、県農会長、県購買販売利用組合理事会長、県農業倉庫協会副会長などの要職を歴任、今日の県農協連合会の基礎を築いた指導者の1人であった。昭和12年には産業組合法による医療利用組合連合会周桑病院を設立して農民の医療と健康管理を図った。庄内村を模範村に育て多年にわたる産業組合活動の貢献で、産業組合中央会や大日本農会からしばしば功労者として表彰され、賞勲局からは昭和大礼記念章を受けた。32年庄内農協が中心となって庄内公民館の前庭に胸像が建てられた。その除幕式に臨んだ後、昭和34年1月14日86歳で没した。 50年周桑病院にも頌徳碑が建てられた。(『愛媛県史 人物』より)



①青野鐡山翁寿像Ⅰ

①青野鐡山翁寿像Ⅰ

西条市旦之上甲292-1、庄内公民館

②青野鐡山翁寿像Ⅱ

②青野鐡山翁寿像Ⅱ

西条市旦之上甲292-1、庄内公民館

③青野岩平頌徳碑

③青野岩平頌徳碑

西条市壬生川131、西条市立周桑病院