データベース『えひめの記憶』
四国中央市
斎藤亀太
先生は明治7年関川村大字上野に生まれ、当時の尋常小学校4年を卒業後、独学で資格を取って関川尋常小学校訓導に任ぜられた。爾来大正13年9月の死に至るまで郷土の子弟を愛と誠をもって教導して倦むことがなかった。その間校長に推薦されたこともあったが固辞して受けず、終生平教員を通されたのである。
当時は貧富の差がひどい時代であった。小学校へも充分出られないような貧しい子供達のために学習塾を開き無料で教えられもした。先生が小さい子供の手足を洗ってやったり、不浄の後始末をしている姿から当時の子供達が慈母の心をも感じとっていっそう思慕の心を深めたのである。
先生の歿後64年、この崇高なお人柄を偲びこれを将来に伝えるべく先生が作られた校歌を添えてこの碑を建てることにした。
校 歌
花橘のにほうなる 郷のほとりや関川の
清き流れと熊谷の 一重八重咲く花桜
流れて絶えぬ水のごと 努め勵(はげ)みてこの庭に
心も清くかぐはしく み國の花と生ひたたん
平成2年1月吉日 建設委員一同
(『斎藤亀太先生頌徳碑 碑文』より)