データベース『えひめの記憶』
四国中央市
曽我部友吉(1883~1972)
幼いときから農業と山仕事に従事し、兵役を経て警官となり勤め上げ、退職した後もさまざまな仕事をして生活を支えてきた友吉という一介の老人が68歳から赤星山の開発に命を燃やした。といっても大手資本や政治力に頼ることなく、たった一人でつるはし一本と自分でつくった弁当を携え、山の麓から川沿いの急な坂道を雨の日も風の日も毎日毎日、切り開いて道をつけたというのである。やがて赤星山造林の営林署の人々も手伝い、10年かかって上流の機滝まで到達したが、さらに大阪で働く妻からの仕送りと自らの恩給で苗木を買い、根を掘り、岩を取り除き、3,000本にも及ぶ桜を植え、見事な花を咲かせる一方、陳情を重ねて赤星駅を誕生させ、名勝赤星ラインを完成させた。ときに88歳。まさに現代の花神「花咲じいさん」である。(『土居町50年のあゆみ・できごと』より)