データベース『えひめの記憶』
四国中央市
井原岸高
井原岸高先生はその性剛毅闊達にしてかつ庶民性と、衆に秀れた非凡の実行力は若くして地域の信望を集め、町議県議となり、その間県議会議長として戦後の新たな地方行政の推進に寄与し、更に昭和33年より衆議院議員として通算八期の長期にわたり国政に参画し、数々の要職を歴任して国運の隆昌に尽瘁した。
特に安政年間より宇摩郡民悲願の銅山川疏水事業に取組み、柳瀬ダム、新宮ダム、富郷ダムを開発して水資源を確保し、港湾の整備拡充、臨海工業土地造成により製紙工業の繁栄を授け、更に四国の後進性を打破すべく、瀬戸内海大橋、四国高速道路の着工推進のため、献身的に奔走した事績は枚挙にいとまがない。
昭和30年、保守合同論者の中枢として自由民主党を結成し、党の育成と政局安定のためにひたすら国を思い郷土を愛し黙々として信念を貫き通した政治姿勢は党人政治家の権化ともいうべきであり、数々の偉大な功績は不滅のものとして永く郷党の間に語り継がれるであろう。
昭和52年4月20日、衆議院に於ける多年の功績に対し、特に衆議院議長より功労表彰を受け、更に昭和52年4月29日、天長の佳節に勲二等旭日重光章を受章さる。 「知恵だけでは何事も成功しない。捨身になってこそ心通じるものだ」徒手空拳身を起こした苦労人の言として特に感銘深い。
昭和59年11月、市制30周年式典に於て名誉市民称号を贈らる。
この人を郷土の亀艦として永く景仰する。画竜点睛をここに見る。
昭和60年4月23日
撰文 自民党副総裁 二階堂 進
題字 元内閣総理大臣 田中 角栄
標柱 内閣総理大臣 中曽根康弘
(『伊予三島市史 中巻』より)