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四国中央市

石川茂平

 明治21年、石川練平の長男として三島村で生まれる。父練平はもともと津山藩士で、明治維新の後、縁あって三島村へ来往し、明治2年、製紙業を始める。人格厳正にして礼儀正しく、いささかも不正をなさず同業者の亀鑑とされていた。茂平も父の跡を継ぎ製紙業に活躍する。気骨あり、進取の気性に富み、温厚な人柄であったため人々の信頼をあつめ、弱冠26歳の若さで町会議員に当選、以来数期にわたり三島町議会議員として町政に参画する。
 また、大正初期の製紙は、手すきが全盛であったが、三島町の将来は機械抄製紙の導入にあると考え、大正10年東町に大陽製紙を創業し、三島町の機械抄製紙の先鞭をつける。
 昭和7年日華事変が始まり、大陸進出の気運が全国的に高まってくると、茂平は進んで大陸へ渡り、天津に三島公司を創業し、紙製品の販売に全力を傾ける。やがて太平洋戦争が始まり、戦局が激化したころ、自ら蓄えた資金を投げ出して戦闘機一機を陸軍に献納する。終戦後は三島町へ引き揚げ、一時製紙業にも手をつけるが失敗、金融業を始める。
 そして、病気で寝たきりの老人や困窮者にも生活資金を融通したが、あえて請求せず陰ながら援助を与え、多くの人々に感謝されていた。また、平素は切りつめた生活をしていたが、児童館建設に当たっては、自ら購入していた土地を提供し、庭へは小便小僧像などを建設する。そのほか三島育英会にも100万円を寄付し、青少年の育成にも意を払う。(『伊予三島市史 中巻』より)

【石川茂平翁聖像の撰文】
賜 紺綬褒章   内閣総理大臣 佐藤 栄作
         賞勳局長   吉原 一馬

 翁は明治21年三島町上町に生れ明治、大正、昭和の三代にわたり和紙とともに歩む。昭和初期、紙の町三島の草分けとして機械漉製紙工場を興し後、華北天津、北京の地に雄飛し活躍す。戦後内地に引揚げ、老境なるも事業欲旺盛、今日尚矍鑠として精励す。翁は生来刻苦勉励、再三の逆境も強靭な意志により克服、半面その心情細緻にして他を助け社会報恩を念願とし拠出せる金円巨額に及べり。翁を識る知人後輩相計り広く有志の浄財を募り此の像を建立す。
  昭和46年12月吉日
            井原 岸高 書

発企人代表
 井原 岸高  井川伊勢吉  篠永 恭一  藤田勝太郎
 森川 孝夫  宮崎 庄平  蝶野 恭一  大久保福太郎

世話人代表
 塩田勝太郎  井川 甚造  石川定次郎  大久保慎一
施行 加藤 政元


①石川茂平翁聖像

①石川茂平翁聖像

四国中央市中曽根町(三島公園内)