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四国中央市

福田武太郎(1873〜1938)

 故福田武太郎翁は幼少より人に秀で成人するに及びその人格は円満重厚識見は衆に卓越し推されて松柏村議会議員となり献身議員活動の一方他町村に先んじて明治の末期に上柏青年会及び消防組を組織し大正5年農協の前身である松柏信用組合をその先頭に立って設立し尚万難を克服して地区公共財源の基盤である松柏村入会野山を統一植林を奨め治山治水事業に尽力する。
 又、銅山川疏水事業完成のためには、先覚者の意志を継承して一生を通じて同志と共に弛まぬ活躍を続け、灌漑用水不足に悩む宇摩平野農家の悲願を達成したのみに止まらず、郷土産業の一大発展の基盤を樹立する等、翁の生涯における社会的貢献は枚挙にいとまがない。
 この偉大な郷土の大先覚者も、天命なるかな昭和十三年九月五日の大水害において、橋梁及び隣家の危機を救わんとして、不慮の難に遭いその光輝ある六十三年の生涯を閉じ、今は翁の警咳に接すること能わず、何時までも個人の面影を偲び、翁の遺徳に想いを馳せ、敬慕の念を新たにすると共に後世に、其の偉業の数々を伝える為、郷民相計り、翁の胸像を建立して其の遺徳を永く称えるものである。
   昭和四十七年一月

(福田武太郎翁之像に刻まれた碑文より)

【銅山川疏水功労者頌徳碑(写真③) 碑文】
 灌漑用水に悩む宇摩農民は 安政の昔より銅山川疏水を企画し多数の先輩がこれを実現させようと挺身
 明治末期より大正初頭に至っていよいよ積極的に計画が推進せられ 特に松柏村民の関心は最も深く大正十三年宇摩疏水組合の設立と共に村長森実遠 村会議員村上恒一 同じく福田武太郎の諸氏が率先してこれに協力
 その後 昭和十一年森実氏が組合長となるに及んで同年一月三十一日徳島県との分水協定が成立 同年十二月五日起工式を挙行 十三年八月六日隧道工事着工 日夜寝食を忘れて努力中惜しくも逝去される
 村上恒一氏は その後を受けて昭和十七年九月組合長に就任 戦時中及び終戦後の複雑な社会情勢の下において幾多の困難を克服 昭和二十四年七月一日 待望の隧道を貫通
 福田氏は 森実氏村上氏に協力 これを補佐し疏水実現のため東奔西走される
 また 在京の森実昂氏は 本問題のため数十回に及んで上京する郷土代表を物心両面に亘って助け励まし中央政界との連絡を計り協力を惜しまなかった。
 殊に、福岡農士学校額監 伊藤角一氏の中央における政治工作とその蔭の働きは極めて大なるものがあった
 銅山川疏水は これらの諸先輩の尊い汗の結晶と地区民の熱意によりい結実し郷土の繁栄をもたらしたもので この千歳不朽の功績を万世に伝え其の徳を敬仰すべく郷民挙げてこの碑を建立する
    昭和三十八年十月
                   安岡正篤 額  合田正良 撰   石川尚市 書
                   建設世話人 伊予三島市松柏地区協議会 有志一同
                   近藤富則 刻  宮崎利光 造園



①戸川公園(疏水公園)

①戸川公園(疏水公園)

四国中央市上柏町1273-2

②福田武太郎翁之像

②福田武太郎翁之像

四国中央市上柏町1273-2

③銅山川疏水功労者頌徳碑

③銅山川疏水功労者頌徳碑

四国中央市上柏町1273-2

④銅山川発電所前にある水車

④銅山川発電所前にある水車

四国中央市上柏町1271付近

⑤銅山川発電所につながる排水管

⑤銅山川発電所につながる排水管

四国中央市上柏町1271付近

⑥金砂湖

⑥金砂湖

四国中央市金砂町平野山

⑦銅山川

⑦銅山川

四国中央市新宮町馬立(古野橋から撮影)