データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

四国中央市

安藤正楽(1866〜1953)

 県会議員・歴史学者・画家。宇摩郡土居町清太の長男として慶応2年11月15日出生。幼名岸蔵、通称鬼子太郎。寺小屋にて本田某に学び、明治5年小学(法正校)に入る。明治15年ころ詩歌俳句を作り鴎眠・三外・天美・天乎などと号し、明治19年正楽と改名。同22年明治法律学校に入学する。同25年同校卒、相国寺荻野独園管長につき坐禅。同27年上京し、歴史を学習する。同28年伊予三島の住夕力女と結婚し、同30年上京し『日本外交史』などを書き、同32年帰郷、郡会議員当選。翌33年『ロシア南下史』を脱稿する。同35年『古事記新論』を書き、任堂と号す。子規の死を悼み香奠5円を贈る。同36年県議当選。初議会で同和教育問題を糺す。翌37年月島丸邁難記念碑を中村に建立。同39年戦死者の墓に「徴兵之一大背理戦争之一大惨毒」とかき、翌年県議会で軍用道路建設反対演説をなし、郷村の日露戦争記念碑に「忠君愛国の四字を滅すべし」と書く。41年「日韓古史年表」作成、同年11月人類学会に入り、明治43年鳥居龍蔵の「南満州調査報告」の全図録と第2章を書く。同年日露の役碑文官憲により抹殺され拘留される。翌44年2月幸徳秋水処刑の日釈放される。翌45年「紀年修正論」を脱稿し、翌大正2年保安条例により東京退去を命ぜられ帰郷。大正3年上野の健筆会に作品出陳、翌4年3月出陳作「社頭杉」は官憲により撤回を命ぜられる。大正9年銀婚記念に部落のため井戸を掘り上水道建設、翌10年久米邦武、鳥居龍蔵らに私淑して上京、『石器時代図文綜観』出版のため画会を興し、以後書画に専念。この間郷党合田和の石斧発見の報を喜び、昭和10年郷土「根々見史」を「伊予史談」83に寄稿。爾来日中戦争出征兵を見送り、戦死遺族に梅の絵で弔問。昭和20年日本降服の際、夜狸の図に「月涼し腹は得切らぬ狸ども」と吟じ、孝道を説き節婦を援助。人生150年説をたて詩作揮毫を楽しんだが、昭和28年7月24日没,享年87歳。(『愛媛県史 人物』より)

【八坂神社にある日露戦後記念碑の碑文】
 日露戦争から凱旋した藤原の軍人諸氏が、予に其記念碑の文を請はれた。其人達は越智大吉、越智和田市、越智大三郎、大田亀太郎、大田六助、大田梅三郎、大田春市、大原福太郎、加地幾平、加地彌五郎、加地市太郎、加地定吉、加地浅太郎、加地與吉、髙石菊太、髙石小三郎、髙石小市郎、髙橋庄作、村上鬼子松、村上住吉、村上嘉市、村上梅吉、松岡源太、藤田兼太郎、近藤勇吉、近藤保太郎、近藤泰助、安部武平、安部梅太郎、安部福助、青木安吉、岸鶴市、三木鹿太郎、三木久吉、三木鶴吉、三木頼助、三木萬吉の三十七氏で、内八人は負傷し、外、近藤嶺吉、髙石音吉の二氏は、討死されたのである。嗚呼此部落僅百七十戸、それに幾多数の人が出て征ったか!今更當時を回想し戦慄せざるを得ぬ。由来戦争の非は世界の公論であるのに、事實は之に反して戦は明日にも亦始るのである。吁、之を如何すればよいか他なし。世界人類のための忠君愛國の四字を滅すにありと予は思ふ。諸氏は抑此役に於て如何の感を得て帰ったのであろう?  明治四十年三月 安藤正楽題撰書

【追記】
 この記念碑の撰文は、安藤正楽の抑留の際に警察によって削られたが、のち復元され記念碑の横に設置された(写真②)



①八坂神社.jpg

①八坂神社.jpg

四国中央市土居町藤原5-23

②日露戦後記念碑

②日露戦後記念碑

四国中央市土居町藤原5-23