データベース『えひめの記憶』
四国中央市
山中義貞(1897~1986)
県経済界・マスコミ界の重鎮。宇摩郡土居村(現、四国中央市土居町)出身。代々庄屋を勤めた旧家山中家の嫡男に生まれる。慶応義塾大学を卒業後、伊予三島銀行専務となり、大正12(1923)年、県議会議員に選ばれ昭和3(1928)年まで在職した。また、宇摩郡民の悲願であった銅山川分水に私財を投じて尽力、住友四阪島煙害問題では代表の一人として住友鉱山との賠償交渉にあたった。この間、自身の商店を経営する傍ら芸備銀行(現、広島銀行)や愛媛県農工銀行の監査役、伊予鉄道電気会社(現、伊予鉄道株式会社)役員などを歴任した。
戦後は、愛媛新聞社社長・南海放送社長・会長として県経済界・マスコミ界の重鎮であり、県工業倶楽部会長を9年間務め、愛媛大学工学部の松山移転と新居浜高等専門学校の開設、国立四国がんセンターの設置などに尽力した。
スポーツマンとしても有名で、剣道は、達人の域に達し、全日本剣道連盟の顧問、県県道連盟会長を務めたほか、四国ゴルフ連盟理事長でもあった。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)